スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&唯物論と観念論

2014-02-22 19:48:36 | 将棋
 北國新聞会館で指された第39期棋王戦五番勝負第二局。
 三浦弘行九段の先手で渡辺明棋王ごきげん中飛車。③CⅠの超急戦に。この戦型は最近は減っています。おそらく先手が勝ち難くなってきたためでしょう。たぶん先手には用意の研究があったと推測します。ただ,後手が前例の少ない手順に進めました。先手にとってはあてが外れた面があったかもしれません。
                          
 第1図がその局面。先手は▲6三桂成と王手し,△同王に▲1八角の王手を決め,△5四歩としてから▲6六香と角筋を止める王手を掛けました。これには△7ニ王。そこで▲2二歩と打つのはこの戦型での常套手段。△5一金右とまず金の方を逃げておき,▲2一歩成に△4二銀と銀もかわしました。そこで▲2三歩。
                          
 この先手の攻めはさすがに間に合わないのではないかというのが僕の第一感。実戦は後手の反撃に別の粘り方をすれば難しいところもあったのかもしれませんが,この将棋の先手の手順ではうまくいかないのではないかという気がします。
 渡辺棋王の連勝。第三局は来月16日です。

 今回のテーマからは逸れますが,ここは重要なところかと思いますので,僕の見解をもう少し詳しく説明しておきます。
 唯物論と観念論とを対比させた場合に,スピノザの哲学が唯物論的であるということについては,僕は概ねでは賛成します。たとえば第二部定理一三というのは,明らかに身体の現実的存在なしに精神の現実的存在はないと主張しているのであり,これは観念論よりは唯物論に近い立場であると考えられるからです。
 しかし,スピノザの哲学は唯物論であるという考え方には僕は反対します。
 たとえば第一部公理六から透けてみえるのは,スピノザが観念というとき,それは必ず何かの観念であると考えているということです。いい換えれば対象ideatumなき観念は存在しないと考えているということです。しかし一方で,ideatumなしに観念が考えられないのかといえば,そんなことはありません。第二部定理五から分かるように,観念の起成原因はideatumではありません。神の思惟の属性です。そして第一部公理四によれば,結果の認識は原因の認識にのみ依存するのですから,思惟の属性に依拠するだけで,観念は考えられることになります。
 スピノザの哲学の観念論の部分だけを抽出するならば,ideatumなき観念はあり得ないにも関わらず,観念はそれ自体で自立した実在性ないしは完全性を有するのです。観念論は観念論として,唯物論とは別に抽出し得るのがスピノザの哲学であると僕は理解します。この部分こそ,スピノザの哲学の最もよくできた部分であると僕は思っているのです。
 こうした論理を可能にしているのは平行論です。スピノザの哲学は唯物論でも観念論でもない,平行論といういわば独自の哲学なのであり,この平行論のもとに,唯物論と観念論とが両立するような形態をしているのです。その象徴といえるのが第三部定理二です。ここでいっていることからすれば,この定理でいわれているのは,唯物論が観念論を決定することはできないし,観念論が唯物論を決定することもできないということです。
 以上がこの点に関する僕のスピノザの哲学の概観の理解です。

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