馬場は全日本プロレスをひとつのファミリーと考えていた。そしてその家族は,戦前の制度化における家族であった。僕は概ねこのように理解しています。そしてこのとき僕が戦前の家族制度の特徴として位置付けるのは,以下の二点です。
第一に,戸主の権限の絶対性です。基本的にこの制度は,家族の財産は一手に戸主のものでした。つまり現在の家族制度におけるような私有財産というものは認められていなかったと僕は理解しています。
第二に,相続における長男の優越性です。たとえば戸主が死んだ場合などにはその財産は相続されます。現在とは異なりこの制度化では,基本的に長男がその財産を一手に相続することになっていました。妻はもちろん次男以下の男子,および女子には,戸主の財産を相続する権利がなかったというように僕は理解しています。また,この相続というのは,戸主の存命中の財産分与の場合にも同様です。この場合は長男が新たな戸主となり,父は隠居するということになります。
こうした家族制度の下で,夏目漱石は生きていました。漱石は自身が五男として生まれ育ち,幼い頃には養子にも出されていました。そのゆえに,自分自身が生きていた時代の制度ではあったとしても,それを自明のものとしては受け止めず,むしろこの制度自体を相対化する,あるいは対象化してみるような視点を持ち合わせていたと僕は考えています。そしてそうした視点というものは,漱石によって書かれた小説の中にも,思いのほか溢れているように感じられます。
漱石は確かにこの制度自体を主題化したような小説は描かなかったという方が正しいでしょう。しかし各々のプロットというものを読み込んでみた場合には,この制度が小説の中にもたらしている影響というのが,普通に考えられているよりは大きいように僕には思えるのです。そしておそらくそれは,偶然にそうなったというものではなくて,漱石自身がこの制度を相対化することができるような眼を有していたから,そうなっているように思えます。いい換えれば小説の主題ではなくても,そこには漱石の意図が介在していると思うのです。
本性の不変性から自分の身体の中に起こることの知覚を読解することの妥当性は,『エチカ』の中にも存在すると僕は考えています。
人間の知性の思惟作用の何たるかを示したときに,福居純が『スピノザ「共通概念」試論』において,無限知性をひとつの個物とみなしているということを指摘しました。これは神の思惟の属性の直接無限様態をひとつの個物とみなしているという意味になります。しかし,もしも思惟の属性に関してこのような理解が可能であるのならば,延長の属性についても,同様の理解が可能であるということでなければなりません。そして事実,スピノザは第二部自然学②補助定理七に続く備考において,そのように解釈する余地があると思えることを言及しています。
そこでスピノザが触れているのは物体としての全自然の姿,あるいは全宇宙の姿で,これは延長の属性の間接無限様態です。したがって直接無限様態である無限知性とは異なるというべきかもしれません。ただし直接無限様態も間接無限様態も,永遠でありかつ無限であるという点では同じです。これは第一部定理二一と第一部定理二二から明らかです。そして今はこの点が重要なので,直接無限様態であるか間接無限様態であるかの差異には,顧慮を払わなくても構いません。
スピノザが述べているのは,第二部自然学②補助定理四,五,六,七を通して,こうした全自然が,その部分においては無限の仕方で変化を遂げたとしても,全体としては同一の姿に留まる理由が容易に理解できるということです。つまりスピノザ自身,全体を構成する部分に変化が生じたとしても,全体には何の変化も生じないということを認めていることは間違いありません。
もちろんこれは無限様態に関する言及であり,永遠に不変であるものについての言及です。ですからこれをそのまま現実的に存在する人間の身体に適用することはできません。ただ,少なくともこのことから,人間の身体を構成するある部分にきわめて多くの変化が生じたとしても,全体としての人間の身体には何らの変化も生じない場合があるということについては,スピノザも認めるであろうということは,容易に類推できると思います。
第一に,戸主の権限の絶対性です。基本的にこの制度は,家族の財産は一手に戸主のものでした。つまり現在の家族制度におけるような私有財産というものは認められていなかったと僕は理解しています。
第二に,相続における長男の優越性です。たとえば戸主が死んだ場合などにはその財産は相続されます。現在とは異なりこの制度化では,基本的に長男がその財産を一手に相続することになっていました。妻はもちろん次男以下の男子,および女子には,戸主の財産を相続する権利がなかったというように僕は理解しています。また,この相続というのは,戸主の存命中の財産分与の場合にも同様です。この場合は長男が新たな戸主となり,父は隠居するということになります。
こうした家族制度の下で,夏目漱石は生きていました。漱石は自身が五男として生まれ育ち,幼い頃には養子にも出されていました。そのゆえに,自分自身が生きていた時代の制度ではあったとしても,それを自明のものとしては受け止めず,むしろこの制度自体を相対化する,あるいは対象化してみるような視点を持ち合わせていたと僕は考えています。そしてそうした視点というものは,漱石によって書かれた小説の中にも,思いのほか溢れているように感じられます。
漱石は確かにこの制度自体を主題化したような小説は描かなかったという方が正しいでしょう。しかし各々のプロットというものを読み込んでみた場合には,この制度が小説の中にもたらしている影響というのが,普通に考えられているよりは大きいように僕には思えるのです。そしておそらくそれは,偶然にそうなったというものではなくて,漱石自身がこの制度を相対化することができるような眼を有していたから,そうなっているように思えます。いい換えれば小説の主題ではなくても,そこには漱石の意図が介在していると思うのです。
本性の不変性から自分の身体の中に起こることの知覚を読解することの妥当性は,『エチカ』の中にも存在すると僕は考えています。
人間の知性の思惟作用の何たるかを示したときに,福居純が『スピノザ「共通概念」試論』において,無限知性をひとつの個物とみなしているということを指摘しました。これは神の思惟の属性の直接無限様態をひとつの個物とみなしているという意味になります。しかし,もしも思惟の属性に関してこのような理解が可能であるのならば,延長の属性についても,同様の理解が可能であるということでなければなりません。そして事実,スピノザは第二部自然学②補助定理七に続く備考において,そのように解釈する余地があると思えることを言及しています。
そこでスピノザが触れているのは物体としての全自然の姿,あるいは全宇宙の姿で,これは延長の属性の間接無限様態です。したがって直接無限様態である無限知性とは異なるというべきかもしれません。ただし直接無限様態も間接無限様態も,永遠でありかつ無限であるという点では同じです。これは第一部定理二一と第一部定理二二から明らかです。そして今はこの点が重要なので,直接無限様態であるか間接無限様態であるかの差異には,顧慮を払わなくても構いません。
スピノザが述べているのは,第二部自然学②補助定理四,五,六,七を通して,こうした全自然が,その部分においては無限の仕方で変化を遂げたとしても,全体としては同一の姿に留まる理由が容易に理解できるということです。つまりスピノザ自身,全体を構成する部分に変化が生じたとしても,全体には何の変化も生じないということを認めていることは間違いありません。
もちろんこれは無限様態に関する言及であり,永遠に不変であるものについての言及です。ですからこれをそのまま現実的に存在する人間の身体に適用することはできません。ただ,少なくともこのことから,人間の身体を構成するある部分にきわめて多くの変化が生じたとしても,全体としての人間の身体には何らの変化も生じない場合があるということについては,スピノザも認めるであろうということは,容易に類推できると思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます