大宮記念の決勝。並びは佐々木悠葵‐武藤の関東,寺崎‐脇本‐村上の近畿の番手に佐々木真也の競り,嘉永‐徳永‐嶋田の九州。
村上がスタートを取って寺崎の前受け。寺崎の後ろは内と外が入れ替わりながらの周回。中団を取ったのは佐々木悠葵で後方が嘉永という隊列に。残り2周のホームに入ったところで寺崎の後ろは佐々木真也が内で脇本が外。バックから嘉永が上昇していって寺崎は突っ張る構えからすぐに引き,嘉永が前に出て打鐘。まだスローペース。武藤の後ろになった寺崎がホームに戻って巻き返し,嘉永を叩いて先行。内にいた佐々木真也が番手に入り,脇本は佐々木真也の後ろに。バックに入って脇本が自力で動いていきましたが,それほどスピードが上がらず,後方から発進した佐々木悠葵があっさりと捲り切りました。ただこのスピードに武藤はついていかれず,徳永と接触して徳永と嶋田は落車。単騎の捲りになった佐々木悠葵が抜け出して優勝。捲られはしたものの逃げ粘った寺崎が1車身半差の2着。寺崎マークになった佐々木真也が4分の3車身差で3着。
優勝した群馬の佐々木悠葵選手は昨年7月の宇都宮のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2022年12月の高松記念以来の2勝目。このレースは佐々木真也が事前から競りのコメントを出し,実際にそのようなレースに。脇本は引くような形で3番手になったので,脚は残っているかと思ったのですが,意外なほどスピードが上がりませんでした。車体に何か問題が生じたのかと思うほどでした。佐々木悠葵の捲りはマークの武藤が離れてしまったほど素晴らしいもので,このレースは展開が向いたという感じはありますが,この開催の調子のよさを十分に生かしきったと思います。
第二部定理一三系では,人間の身体Corpus humanumは僕たちがそれを感じている通りに存在するということが証明されています。デカルトRené Descartesは,自分の身体が存在するということは確実視できなかったので,神Deusを通してこのことを論証するに至りました。それに対していえば,スピノザはそのような論証過程を経ずとも,人間の身体が現実的に存在するということを論証したことになります。ただ一方で,このことは,定理Propositioとして論証されているわけですから,僕たちが思惟しているということ,したがって思惟している僕たちの精神mensが現実的に存在するということが公理Axiomaとして,すなわちそれ自体で明らかなこととして示されているのとは異なり,それは自明ではなく,論証されなければならないことであったことも確かです。自分の身体が存在するということについては論証Demonstratioによって確実視されることであるけれど,自分の精神が存在するということについては論証を経ずともそれ自体で確実視できることであるという相違がスピノザの哲学には確かにあるのであって,そのことを僕たちに教えてくれるというだけで,吉田が第二部公理二を援用していることは意味のあることだと僕は考えるのです。
前もっていっておいたように,第二部公理二を援用することによって,吉田はスピノザが私は考えているということを肯定していることを示し,「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」を単一命題と解することによって,精神としての私が存在する私の一側面であるといっていました。いい換えれば,精神としての私が,私としての全存在を意味するのでなく,全存在としての私は精神としての私には汲み尽くされなくなったといっていました。なぜ吉田がそのようにいうのかといえば,私が考えつつ存在するというのであれば,考えている私というのは他と何らの関係も有さないような私ではなく,現に存在し,多くのものと刺激し合っているような私が,考えつつ存在しているということになるからです。これはどこか分かりにくいような説明に感じられるかもしれませんが,僕には正しい指摘であると思えます。これはデカルトがそのことによって考えていたことと比較すれば,容易に明らかにできるでしょう。
村上がスタートを取って寺崎の前受け。寺崎の後ろは内と外が入れ替わりながらの周回。中団を取ったのは佐々木悠葵で後方が嘉永という隊列に。残り2周のホームに入ったところで寺崎の後ろは佐々木真也が内で脇本が外。バックから嘉永が上昇していって寺崎は突っ張る構えからすぐに引き,嘉永が前に出て打鐘。まだスローペース。武藤の後ろになった寺崎がホームに戻って巻き返し,嘉永を叩いて先行。内にいた佐々木真也が番手に入り,脇本は佐々木真也の後ろに。バックに入って脇本が自力で動いていきましたが,それほどスピードが上がらず,後方から発進した佐々木悠葵があっさりと捲り切りました。ただこのスピードに武藤はついていかれず,徳永と接触して徳永と嶋田は落車。単騎の捲りになった佐々木悠葵が抜け出して優勝。捲られはしたものの逃げ粘った寺崎が1車身半差の2着。寺崎マークになった佐々木真也が4分の3車身差で3着。
優勝した群馬の佐々木悠葵選手は昨年7月の宇都宮のFⅠ以来の優勝。記念競輪は2022年12月の高松記念以来の2勝目。このレースは佐々木真也が事前から競りのコメントを出し,実際にそのようなレースに。脇本は引くような形で3番手になったので,脚は残っているかと思ったのですが,意外なほどスピードが上がりませんでした。車体に何か問題が生じたのかと思うほどでした。佐々木悠葵の捲りはマークの武藤が離れてしまったほど素晴らしいもので,このレースは展開が向いたという感じはありますが,この開催の調子のよさを十分に生かしきったと思います。
第二部定理一三系では,人間の身体Corpus humanumは僕たちがそれを感じている通りに存在するということが証明されています。デカルトRené Descartesは,自分の身体が存在するということは確実視できなかったので,神Deusを通してこのことを論証するに至りました。それに対していえば,スピノザはそのような論証過程を経ずとも,人間の身体が現実的に存在するということを論証したことになります。ただ一方で,このことは,定理Propositioとして論証されているわけですから,僕たちが思惟しているということ,したがって思惟している僕たちの精神mensが現実的に存在するということが公理Axiomaとして,すなわちそれ自体で明らかなこととして示されているのとは異なり,それは自明ではなく,論証されなければならないことであったことも確かです。自分の身体が存在するということについては論証Demonstratioによって確実視されることであるけれど,自分の精神が存在するということについては論証を経ずともそれ自体で確実視できることであるという相違がスピノザの哲学には確かにあるのであって,そのことを僕たちに教えてくれるというだけで,吉田が第二部公理二を援用していることは意味のあることだと僕は考えるのです。
前もっていっておいたように,第二部公理二を援用することによって,吉田はスピノザが私は考えているということを肯定していることを示し,「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」を単一命題と解することによって,精神としての私が存在する私の一側面であるといっていました。いい換えれば,精神としての私が,私としての全存在を意味するのでなく,全存在としての私は精神としての私には汲み尽くされなくなったといっていました。なぜ吉田がそのようにいうのかといえば,私が考えつつ存在するというのであれば,考えている私というのは他と何らの関係も有さないような私ではなく,現に存在し,多くのものと刺激し合っているような私が,考えつつ存在しているということになるからです。これはどこか分かりにくいような説明に感じられるかもしれませんが,僕には正しい指摘であると思えます。これはデカルトがそのことによって考えていたことと比較すれば,容易に明らかにできるでしょう。
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