ある特殊な状況が発生したとき,それがなければ品薄になることなどあり得ないような商品の在庫が不足してしまうということが,どういった原因causaによって生じるのかということを説明することができました。しかしこれはその原因の一端なのであって,すべてではありません。もちろんこうしたことが人間の現実的本性actualis essentiaから生じるということは,人間の行動によって生じる事態である以上は当然のことなのですが,そのことは僕たちの他人の欲望の表象が,他人の行動の表象imaginatioに依存し,したがって多くの人が同じ行動をしているのを表象すればするほど,それと同じ行動をとりたくなる,いい換えれば表象しているのと同じ欲望cupiditasを自身も抱くという感情の模倣imitatio affectuumだけで説明することができるわけではありません。
僕はかつて羨望について説明したときに,入手の困難性ということが,羨望の度合を強めるということをいいました。僕がいう羨望というのは欲望の一種なのですから,実はこのことは欲望一般にも適用することが可能なのです。つまりもしもその他の条件が同一であるならば,入手することが困難であると認識されるものは,入手することが容易であると認識されるものよりも,強く欲望される,あるいは同じことですが大きな欲望の対象となるのです。このことは僕たちはおそらく経験的に知っているといっていいでしょう。そしてこれを論理的に示すなら,第三部定理三二を広い意味で解するのが適切だと思います。僕はこの定理Propositioの意味のうちに,入手の困難性の度合と,それを他人が入手することを妨害しようとする度合は,比例的な関係にあるということが含まれるといいましたが,僕たちは自身が欲望していないものを他人が入手することを妨害する必要はありませんから,これは入手の困難性の認識と,そのものを入手することへの欲望の度合が比例関係にあるとみることもできます。
品薄になった商品はそれ自体で入手することが困難になったと認識されるでしょう。このために僕たちは単に多くの人間がそれを欲望していると表象するimaginariだけでなく,それを入手することの困難さも高まったと表象するようになるのです。そしてこのために,普段であれば大して欲望しないようなことでもそれを欲望するようになります。
ある商品が品薄になったときには,それを買い占めるという行為も頻繁に発生します。それもこのような人間の現実的本性,いい換えれば第三諸感情の定義一により,欲望の結果effectusであると説明することができるのです。
事物の本性essentiaが神Deusの本性naturaの必然性necessitasに反するというのがどういうことであるのかも,さほど難しく考える必要はありません。もしある事物の本性に矛盾が含まれているならそれは神の本性の必然性に反していることになります。他面からいえば,事物の本性が何ら矛盾を含んでいないのであれば,そうしたものは必然的にnecessario存在することになります。このことは,ある事物の本性に矛盾が含まれていないのであれば,知性intellectusはその事物の本性を概念するconcipereことができるということから明白だといえるでしょう。ある事物が客観的有esse objectivumすなわち観念ideaとして存在するのであれば,その事物の形相的有esse formaleすなわち観念の対象ideatumも存在することになるからです。要するに本性の矛盾が,神の本性の必然性に則しているか反しているかを決定するのです。このことは,第一部定理二五により,事物の本性の起成原因causa efficiensは神であるということから,当然のことといっていいでしょう。
よって,たとえば角のある円とか翼のある馬とかいったものは,本性に矛盾を含んでいるがゆえに存在することは不可能です。そしてこのことからも,神の本性から無限に多くのinfinitaものが生じるとはいえ,どんなものでも生じるというわけではないということが理解できると思います。つまり角のある円が神の本性の必然性から生じるということは不可能ですし,翼をもつ馬が神の本性の必然性から生じるということも不可能なのです。一方,その本性に矛盾が含まれていないのであれば,そうしたものはどんなものであれ,いい換えれば人間には知られていないものであったとしても,それは必然的に存在することになるのです。したがってそうしたすべてのものは,現実的に存在するかどうかはまた別ですが,少なくともその形相的本性essentia formalisが神の属性の中に存在していると解さなければなりません。
僕の基本的な考え方はこのようなものではありますが,同時に僕は次のようなことも認めた上でそういっているのだと解してください。
第二部定理四九から分かるように,スピノザは個別の意志作用というのを,観念に含まれている肯定affirmatioないしは否定negatioであるといっています。つまりどんな観念にも固有の意志作用が含まれているのです。
僕はかつて羨望について説明したときに,入手の困難性ということが,羨望の度合を強めるということをいいました。僕がいう羨望というのは欲望の一種なのですから,実はこのことは欲望一般にも適用することが可能なのです。つまりもしもその他の条件が同一であるならば,入手することが困難であると認識されるものは,入手することが容易であると認識されるものよりも,強く欲望される,あるいは同じことですが大きな欲望の対象となるのです。このことは僕たちはおそらく経験的に知っているといっていいでしょう。そしてこれを論理的に示すなら,第三部定理三二を広い意味で解するのが適切だと思います。僕はこの定理Propositioの意味のうちに,入手の困難性の度合と,それを他人が入手することを妨害しようとする度合は,比例的な関係にあるということが含まれるといいましたが,僕たちは自身が欲望していないものを他人が入手することを妨害する必要はありませんから,これは入手の困難性の認識と,そのものを入手することへの欲望の度合が比例関係にあるとみることもできます。
品薄になった商品はそれ自体で入手することが困難になったと認識されるでしょう。このために僕たちは単に多くの人間がそれを欲望していると表象するimaginariだけでなく,それを入手することの困難さも高まったと表象するようになるのです。そしてこのために,普段であれば大して欲望しないようなことでもそれを欲望するようになります。
ある商品が品薄になったときには,それを買い占めるという行為も頻繁に発生します。それもこのような人間の現実的本性,いい換えれば第三諸感情の定義一により,欲望の結果effectusであると説明することができるのです。
事物の本性essentiaが神Deusの本性naturaの必然性necessitasに反するというのがどういうことであるのかも,さほど難しく考える必要はありません。もしある事物の本性に矛盾が含まれているならそれは神の本性の必然性に反していることになります。他面からいえば,事物の本性が何ら矛盾を含んでいないのであれば,そうしたものは必然的にnecessario存在することになります。このことは,ある事物の本性に矛盾が含まれていないのであれば,知性intellectusはその事物の本性を概念するconcipereことができるということから明白だといえるでしょう。ある事物が客観的有esse objectivumすなわち観念ideaとして存在するのであれば,その事物の形相的有esse formaleすなわち観念の対象ideatumも存在することになるからです。要するに本性の矛盾が,神の本性の必然性に則しているか反しているかを決定するのです。このことは,第一部定理二五により,事物の本性の起成原因causa efficiensは神であるということから,当然のことといっていいでしょう。
よって,たとえば角のある円とか翼のある馬とかいったものは,本性に矛盾を含んでいるがゆえに存在することは不可能です。そしてこのことからも,神の本性から無限に多くのinfinitaものが生じるとはいえ,どんなものでも生じるというわけではないということが理解できると思います。つまり角のある円が神の本性の必然性から生じるということは不可能ですし,翼をもつ馬が神の本性の必然性から生じるということも不可能なのです。一方,その本性に矛盾が含まれていないのであれば,そうしたものはどんなものであれ,いい換えれば人間には知られていないものであったとしても,それは必然的に存在することになるのです。したがってそうしたすべてのものは,現実的に存在するかどうかはまた別ですが,少なくともその形相的本性essentia formalisが神の属性の中に存在していると解さなければなりません。
僕の基本的な考え方はこのようなものではありますが,同時に僕は次のようなことも認めた上でそういっているのだと解してください。
第二部定理四九から分かるように,スピノザは個別の意志作用というのを,観念に含まれている肯定affirmatioないしは否定negatioであるといっています。つまりどんな観念にも固有の意志作用が含まれているのです。
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