①で歌い手はバスを降りて自動販売機のコーヒーを買って飲みました。このサービスエリアには長距離トラックが何台か並んでいました。そのトラックの運転手に歌い手は話し掛けられます。
どこまで行くの 何しているの
これに対して歌い手はこう答えます。
歌を歌っているんです
ここで歌い手が歌手であるということが分かります。よってバスに乗っているのは,前回の興業の地から次回の興業の地へと移動するためであって,このバスにはこの歌い手の一行,たとえばスタッフやバンドのメンバーなどが同乗しているのだろうと推定することができます。
そうかい、 おいらは歌は知らねえな 演歌じゃねえんだろ、 そのなりじゃあな
歌手であるということを知った運転手はこのように答えます。歌は知らない,と言っていますが,演歌なら分かるというようにも受け取れますから,まったく知らないというわけでもなさそうです。普段の身なりで演歌歌手であるかどうかを確定することができるのかということは僕には疑問ですが,この歌い手が演歌歌手でないことは間違いないのでしょう。
どのような観念ideaにも固有の意志作用volitioが含まれているということについて,スピノザは第二部定理四九備考の中で,馬に対して翼を肯定すること,観念としていうなら,翼のある馬の観念を例材として説明しています。スピノザがこの例材によっていいたかったことは,どのような観念にも固有の意志作用が含まれているということは,十全な観念idea adaequataだけに妥当するわけではなく,混乱した観念idea inadaequataにも妥当するということです。そのことはこの直前の部分でいわれていることからはっきりします。
「私は,人間が知覚する限りにおいて何ものも肯定していないということはこれを否定する」。
人間が何かを知覚するpercipere,いい換えれば人間が何事かを認識するcognoscereということは,その何事かの観念がその人間の精神mens humanaのうちにあるという意味です。つまり,人間は何事かを認識するそのたびごとに,その何事かについて何らかのことを肯定しているのです。したがって,こうした肯定affirmatioすなわち意志作用は,その観念が十全な観念であるか混乱した観念であるかを問わずに,すべての観念の中に含まれているのでなければなりません。
第二部定理七系の意味から,神Deusのうちにある客観的有esse objectivumすなわち観念はすべて十全です。他面からいえば,ある観念が適切に神と関連付けられるのであれば,その観念は十全な観念です。ですからこの場合には,混乱した観念に意志作用が含まれているかいないかということは問題とする必要がありません。ではなぜスピノザが,混乱した観念にも固有の意志作用が含まれているということを強調するかといえば,もしある観念が神と関連付けられず,単に人間の精神とだけ関連付けられる場合には,混乱した観念というものがあるといわなければならないからです。いい換えれば,混乱した観念というのは,もしそれがあるというのであれば,たとえば人間の精神のような,有限な精神のうちにだけあるのです。これを神と関連付けると,神がある人間の精神の本性naturaを構成するとともに,ほかのものの観念を有する限りでXの観念があるといわれます。このとき,Xの観念は神のうちでは十全な観念ですが,人間の精神のうちでは混乱した観念であることになるのです。
どこまで行くの 何しているの
これに対して歌い手はこう答えます。
歌を歌っているんです
ここで歌い手が歌手であるということが分かります。よってバスに乗っているのは,前回の興業の地から次回の興業の地へと移動するためであって,このバスにはこの歌い手の一行,たとえばスタッフやバンドのメンバーなどが同乗しているのだろうと推定することができます。
そうかい、 おいらは歌は知らねえな 演歌じゃねえんだろ、 そのなりじゃあな
歌手であるということを知った運転手はこのように答えます。歌は知らない,と言っていますが,演歌なら分かるというようにも受け取れますから,まったく知らないというわけでもなさそうです。普段の身なりで演歌歌手であるかどうかを確定することができるのかということは僕には疑問ですが,この歌い手が演歌歌手でないことは間違いないのでしょう。
どのような観念ideaにも固有の意志作用volitioが含まれているということについて,スピノザは第二部定理四九備考の中で,馬に対して翼を肯定すること,観念としていうなら,翼のある馬の観念を例材として説明しています。スピノザがこの例材によっていいたかったことは,どのような観念にも固有の意志作用が含まれているということは,十全な観念idea adaequataだけに妥当するわけではなく,混乱した観念idea inadaequataにも妥当するということです。そのことはこの直前の部分でいわれていることからはっきりします。
「私は,人間が知覚する限りにおいて何ものも肯定していないということはこれを否定する」。
人間が何かを知覚するpercipere,いい換えれば人間が何事かを認識するcognoscereということは,その何事かの観念がその人間の精神mens humanaのうちにあるという意味です。つまり,人間は何事かを認識するそのたびごとに,その何事かについて何らかのことを肯定しているのです。したがって,こうした肯定affirmatioすなわち意志作用は,その観念が十全な観念であるか混乱した観念であるかを問わずに,すべての観念の中に含まれているのでなければなりません。
第二部定理七系の意味から,神Deusのうちにある客観的有esse objectivumすなわち観念はすべて十全です。他面からいえば,ある観念が適切に神と関連付けられるのであれば,その観念は十全な観念です。ですからこの場合には,混乱した観念に意志作用が含まれているかいないかということは問題とする必要がありません。ではなぜスピノザが,混乱した観念にも固有の意志作用が含まれているということを強調するかといえば,もしある観念が神と関連付けられず,単に人間の精神とだけ関連付けられる場合には,混乱した観念というものがあるといわなければならないからです。いい換えれば,混乱した観念というのは,もしそれがあるというのであれば,たとえば人間の精神のような,有限な精神のうちにだけあるのです。これを神と関連付けると,神がある人間の精神の本性naturaを構成するとともに,ほかのものの観念を有する限りでXの観念があるといわれます。このとき,Xの観念は神のうちでは十全な観念ですが,人間の精神のうちでは混乱した観念であることになるのです。
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