スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

チャンピオンズカップ&ステノ

2024-12-01 19:12:22 | 中央競馬
 大井から1頭が遠征してきた第25回チャンピオンズカップ
 ミックファイアは発馬で立ち上がり1馬身の不利。逃げたのはレモンポップで2番手にミトノオー。2馬身差でクラウンプライドとペプチドナイル。3馬身差でハギノアレグリアスとペイシャエスとグロリアムンディ。8番手はドゥラエレーデとウィルソンテソーロとスレイマンとサンライズジパング。12番手にテーオードレフォンとセラフィックコールとガイアフォース。2馬身差でアーテルアストレア。最後尾にミックファイアという隊列。最初の800mは48秒2のハイペース。
 逃げたレモンポップのリードは1馬身で直線に。ここで外からペプチドナイルが進出してきて単独の2番手に上がったのですが,レモンポップとの差は開いてしまいました。大外からウィルソンテソーロが伸びてきてペプチドナイルを差し,単独の2番手に上がってフィニッシュに向かってレモンポップを追い詰めましたが僅かに届かず,一杯に逃げ切ったレモンポップが優勝。ウィルソンテソーロがハナ差で2着。直線で一番内を突いたドゥラエレーデが1馬身半差の3着。ドゥラエレーデとペプチドナイルの間に進路を取ったハギノアレグリアスが4分の3馬身差の4着でペプチドナイルがハナ差で5着。
 優勝したレモンポップ南部杯以来のレースで大レース6勝目。第24回からのチャンピオンズカップ連覇。このメンバーでは能力が上ですので,優勝自体は順当なもの。逃げを身上とする馬なので,ペース次第で着差が開いたり縮まったりますが,やや厳しめのペースでも勝ちを譲らないのは能力の証明といえます。着差は変じたものの上位の3頭は昨年と同じですから,この路線は今年はそれほど勢力図に変化がなかったということになるでしょう。この馬はこれで現役を引退します。
 騎乗した坂井瑠星騎手は南部杯以来の大レース12勝目。チャンピオンズカップは連覇で2勝目。管理している田中博康調教師は南部杯以来の大レース6勝目。チャンピオンズカップは連覇で2勝目。

 この講義の中で吉田はステノNicola Stenoについては多くを語っています。これがステノの経歴と大きく関係していますので,これまでより詳しくそれを説明しておきます。
                            
 ステノは1638年にデンマークで産まれました。スピノザは1632年産まれですから,スピノザよりは6つ年下になります。元々はプロテスタントのルター派で,これはコレルスJohannes Colerusと同じです。スペイクの一家はその説教を聞きにいっていたのですから,おそらくルター派の信者だったのでしょう。オランダで優勢だったのは同じプロテスタントでもカルヴァン派ですから,ルター派は少数派であったと推測されます。
 ステノの前半生は自然科学の研究者です。オランダに来て医学や解剖学を学びました。人間の耳下腺の研究でも後世に名を残しています。耳下腺と口を繋ぐ管,かつて僕の唾石ができた部分と思いますが,この管はステノン管といいます。名前の由来がステノです。
 科学史的な観点から大きく注目されているのはこちらではなく,地質学の研究だとされています。ステノはオランダを離れてイタリアに移ったのですが,地質学の研究はイタリアに移ってから始めたようです。その研究の成果は『固い地面の中に自然に含まれている固い物体についての先駆的論考De solido intra solidum naturaliter contento dissertationis prodromus』という本にまとめられました。この本はスピノザの死後に作成された蔵書録の中に残されていました。またステノの処女作だった『解剖学的所見集Observationes anatomicae』も蔵書録の中にありました。後者は1662年に出されたもので,このときはステノはオランダにいました。なのでステノが直接スピノザに渡したものだったかもしれません。前者は1669年のもので,これはステノがイタリアにいたときのものです。スピノザがどういう本を好んで求めていたかは分かりませんが,たぶんステノの方からスピノザに送ったものだったのではないかと思われます。つまりスピノザとステノは友人だったのです。

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