第85回菊花賞。川田将雅騎手が昨日の東京の3レースの終了後に落馬をして頭部を負傷したためメリオーレムは藤岡佑介騎手に変更。
ピースワンデュック,ビザンチンドリーム,コスモキュランダの3頭は発馬で1馬身ほどの不利。エコロヴァルツが逃げて2馬身ほどのリード。ノーブルスカイが2番手で3番手にミスタージーティーで発馬後の向正面を通過。発馬で不利があったピースワンデュックが徐々に上昇していき,2周目の正面に入るところで先頭に。ついていったメイショウタバルとノーブルスカイが2番手で4番手にシュバルツクーゲル。5番手にミスタージーティーという先行集団に。2馬身差で控えたエコロヴァルツとウエストナウとアーバンシック。9番手にアドマイヤテラ。10番手にショウナンラプンタとメリオーレム。12番手にダノンデサイルとヘデントール。14番手にハヤテノフクノスケとビザンチンドリームとコスモキュランダ。2馬身差でアレグロブリランテ。2馬身差の最後尾にアスクカムオンモア。最初の1000mは62秒0の超スローペース。
向正面からアドマイヤテラが外を上昇したので先行集団から前に出たシュバルツクーゲルとアドマイヤテラが並んで3コーナーへ。アーバンシックが3番手に上がり内からショウナンラプンタで外からはヘデントール。直線に入るとアドマイヤテラが単独の先頭に。それを追っていたアーバンシックが差して前に出るとそこからは抜け出して快勝。内目を回ったショウナンラプンタ,一旦先頭のアドマイヤテラ,外を回ったヘデントール,大外を伸びたビザンチンドリームの4頭で2着争い。ヘデントールが2馬身半差の2着。アドマイヤテラがハナ差の3着でショウナンラプンタがクビ差の4着。ビザンチンドリームがクビ差で5着。
優勝したアーバンシックは前哨戦のセントライト記念から連勝。重賞2勝目で大レース初制覇。デビューから連勝した後,京成杯で2着に入ってクラシックへ。皐月賞は4着,ダービーは11着でした。休養明け初戦となったのが前走のセントライト記念で,これが鮮やかな勝利。春よりも力をつけているのは明白で,ローテーションや過去の菊花賞の傾向から最有力ではないかと思っていました。接戦となった2着争いを尻目にしての快勝で,これは距離適性の分もあったかもしれません。今後も大崩れはなく走れる馬だと思います。父はスワーヴリチャード。3代母がウインドインハーヘア。桜花賞を勝ったステレンボッシュは従姉,昨年のホープフルステークスを勝ったレガレイラは従妹になります。Urban Chicは洗練された。
騎乗したクリストフ・ルメール騎手は先週の秋華賞に続く大レース制覇。第77回,79回,84回に続き連覇で菊花賞4勝目。管理している武井亮調教師は2016年の全日本2歳優駿以来の大レース2勝目。
みっつのプロットの共通点として示しましたが,これは『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の全体を貫いているといってもそれほど遠くありません。つまりこの作品は,真実とは思えないような多くのプロットと,そのディテールとして確かな史実という組み合わせで構成されているのです。そしてここが重要なのですが,このプロットの大筋が真実らしく思われないのが,そのプロットに対する細かい説明に含まれているのです。『蛙Βάτραχοι』の場合は,同じところに滞在しなければならなかったので,『蛙』の劇めいたものを同行者で行ったということならあり得そうですが,それを本格的な劇として,金は取らなかったものとは思いますが,本格的な劇として客を呼んで見せたと書かれているから,かえって信憑性を失わせています。アメリカの場合は,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelが,アメリカにはユダヤ人がいるというくらいであれば,そのように言うこともあり得そうだと思えるのですが,それがまだアメリカが陸続きの時代のことだなどと言うから,信憑性を失ってしまうのです。そして模型のプロットは,金に困窮したファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenが,砲火装置の新しいアイデアをもってきたというなら,あってもおかしくないと思えますが,船の模型まで創作していたなどと加えられているので,信憑性が失われることになっています。
これら細かい部分が書かれていること自体は,不自然ではありません。ウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaの部分はファン・ローンJoanis van Loonがその場にいたわけではないので,その場での会話があまりに詳しく書かれているのは,作品として不自然といわなければならないかもしれませんが,これらみっつの部分は,いずれもファン・ローンが同席していたわけですから,ファン・ローンが書いたものであるという設定を崩すようなものとはなっていないからです。つまり文学評論という観点からすれば,これらの部分は創作であったとしても不自然なものとはなっていないがゆえに,作品として成立しているということになります。よってこのことは,むしろ吉田がいっているように,この作品が完全な創作であるということを補強しているように見えるかもしれません。
ピースワンデュック,ビザンチンドリーム,コスモキュランダの3頭は発馬で1馬身ほどの不利。エコロヴァルツが逃げて2馬身ほどのリード。ノーブルスカイが2番手で3番手にミスタージーティーで発馬後の向正面を通過。発馬で不利があったピースワンデュックが徐々に上昇していき,2周目の正面に入るところで先頭に。ついていったメイショウタバルとノーブルスカイが2番手で4番手にシュバルツクーゲル。5番手にミスタージーティーという先行集団に。2馬身差で控えたエコロヴァルツとウエストナウとアーバンシック。9番手にアドマイヤテラ。10番手にショウナンラプンタとメリオーレム。12番手にダノンデサイルとヘデントール。14番手にハヤテノフクノスケとビザンチンドリームとコスモキュランダ。2馬身差でアレグロブリランテ。2馬身差の最後尾にアスクカムオンモア。最初の1000mは62秒0の超スローペース。
向正面からアドマイヤテラが外を上昇したので先行集団から前に出たシュバルツクーゲルとアドマイヤテラが並んで3コーナーへ。アーバンシックが3番手に上がり内からショウナンラプンタで外からはヘデントール。直線に入るとアドマイヤテラが単独の先頭に。それを追っていたアーバンシックが差して前に出るとそこからは抜け出して快勝。内目を回ったショウナンラプンタ,一旦先頭のアドマイヤテラ,外を回ったヘデントール,大外を伸びたビザンチンドリームの4頭で2着争い。ヘデントールが2馬身半差の2着。アドマイヤテラがハナ差の3着でショウナンラプンタがクビ差の4着。ビザンチンドリームがクビ差で5着。
優勝したアーバンシックは前哨戦のセントライト記念から連勝。重賞2勝目で大レース初制覇。デビューから連勝した後,京成杯で2着に入ってクラシックへ。皐月賞は4着,ダービーは11着でした。休養明け初戦となったのが前走のセントライト記念で,これが鮮やかな勝利。春よりも力をつけているのは明白で,ローテーションや過去の菊花賞の傾向から最有力ではないかと思っていました。接戦となった2着争いを尻目にしての快勝で,これは距離適性の分もあったかもしれません。今後も大崩れはなく走れる馬だと思います。父はスワーヴリチャード。3代母がウインドインハーヘア。桜花賞を勝ったステレンボッシュは従姉,昨年のホープフルステークスを勝ったレガレイラは従妹になります。Urban Chicは洗練された。
騎乗したクリストフ・ルメール騎手は先週の秋華賞に続く大レース制覇。第77回,79回,84回に続き連覇で菊花賞4勝目。管理している武井亮調教師は2016年の全日本2歳優駿以来の大レース2勝目。
みっつのプロットの共通点として示しましたが,これは『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の全体を貫いているといってもそれほど遠くありません。つまりこの作品は,真実とは思えないような多くのプロットと,そのディテールとして確かな史実という組み合わせで構成されているのです。そしてここが重要なのですが,このプロットの大筋が真実らしく思われないのが,そのプロットに対する細かい説明に含まれているのです。『蛙Βάτραχοι』の場合は,同じところに滞在しなければならなかったので,『蛙』の劇めいたものを同行者で行ったということならあり得そうですが,それを本格的な劇として,金は取らなかったものとは思いますが,本格的な劇として客を呼んで見せたと書かれているから,かえって信憑性を失わせています。アメリカの場合は,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelが,アメリカにはユダヤ人がいるというくらいであれば,そのように言うこともあり得そうだと思えるのですが,それがまだアメリカが陸続きの時代のことだなどと言うから,信憑性を失ってしまうのです。そして模型のプロットは,金に困窮したファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenが,砲火装置の新しいアイデアをもってきたというなら,あってもおかしくないと思えますが,船の模型まで創作していたなどと加えられているので,信憑性が失われることになっています。
これら細かい部分が書かれていること自体は,不自然ではありません。ウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaの部分はファン・ローンJoanis van Loonがその場にいたわけではないので,その場での会話があまりに詳しく書かれているのは,作品として不自然といわなければならないかもしれませんが,これらみっつの部分は,いずれもファン・ローンが同席していたわけですから,ファン・ローンが書いたものであるという設定を崩すようなものとはなっていないからです。つまり文学評論という観点からすれば,これらの部分は創作であったとしても不自然なものとはなっていないがゆえに,作品として成立しているということになります。よってこのことは,むしろ吉田がいっているように,この作品が完全な創作であるということを補強しているように見えるかもしれません。
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