スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

本性としての悪&本性と実在性

2023-03-08 19:11:59 | 哲学
 悪の確知は疑わないというだけであって,疑い得ないということではないと僕はいいました。ただこのことに対しては次のような疑問が生じ得ると思います。
                                   
 第四部定理八により,malumの認識cognitioは意識化された悲しみtristitiaです。第三部定理五九により,現実的に存在する人間が悲しみを感じるのは,その人間の受動passioです。よって第三部定理三により,それは混乱した観念idea inadaequataだけに依存します。ですから僕たちが悪を確知するcerto scimusというときには,あるものを悪であると混乱して認識しているという意味になります。つまりそれは真に認識したものを疑い得ないということはあり得ず,悪を確知するとは,それを悪であることを疑わないという意味に絞られます。これが僕の基本的な立場です。
 悪は意識化されたものなので,たとえばXが自身に悲しみを齎すということを確知すれば,僕たちはXが悪であると確知するということになります。しかるにこの確知は十全な認識であり得るという疑問が生じると僕は思います。なのでこの疑問に対して一定の解答を与えておきます。
 Xが自分に悲しみを齎すという認識が,十全な認識であり得るということ自体については,僕は絶対的には否定しません。ただしこの認識は,Xが自分と関係する上での認識なのであって,Xそのものについての認識ではないのです。いい換えれば,自分に悲しみを齎すものとしてXを十全に認識するということは僕は絶対にないとはいいません。しかしこの場合,Xが悪であるという認識は,Xの本性essentiaに属するわけではないのです。もっともこのことは,善悪というのは認識される事柄なのであって,事物の本性ではないとスピノザ自身がいっていることから明白でなければなりません。つまり悪であるということがXの本性に属するわけではないのですから,Xは悪であるという認識は,Xについても十全な観念idea adaequataではあり得ないのです。なのでXは悪であるというすべての認識は混乱した認識であるといわなければなりません。よって僕が示した論理により,Xを悪と確知するということは,そうであることを疑わないという意味なのであり,そうであることを疑い得ないという意味ではあり得ないのです。

 この部分の國分の指摘を正しく理解するためには,留意しておかなければならないことがいくつもあります。入門書に関係する考察ということもありますので,このことについては初歩的な部分から考察していきます。
 スピノザの哲学で本性essentiaといわれるとき,これはふたつの仕方で考えられなければなりません。なぜなら,第二部定義二の意味から,事物の本性というのはその事物の存在existentiaを鼎立するものであって,事物の存在を排除したり除去したりしないことになっているので,ある事物の本性を考えることは,その事物の存在を考えることと,セットになっていなければならないからです。このことは,國分が本性を力potentiaと等置していることと関係します。すなわち,もしもある事物が存在するあるいは存在し得るとすれば,それはその事物の力を意味するのに対し,ある事物が存在しないとか存在し得ないのであるとするなら,それはその事物の無能力impotentia,力と真逆の意味で無能力を意味するのであり,したがって事物の本性と事物の存在がセットになっているということは,事物の本性がその事物の力とセットになっているというのと同じことなのです。いい換えれば本性は必ず力としてあるのであって,それはどのような事物の本性であっても同じです。
 ただ,本性は力としてみられる場合には,本性と概念されるのではなくて実在性realitasあるいは完全性perfectioとして概念されます。いい換えれば,本性が力としてみられるということは,本性は実在性としてもみられるということです。このことは,事物の本性はその事物の存在を鼎立するものであって,その存在する力が実在性といわれるというように解するのが分かりやすいでしょう。したがってある事物の本性とその事物の実在性ないしは完全性との関係は,知性intellectusがそのことをどのような観点から認識するcognoscereのかという点に還元することができるとさえいえるのであって,もしそれが力という観点から知性によって把握されるのであれば,それは本性として認識されるのではなく実在性あるいは完全性として認識されることになります。ですから本性が力であるという命題は,本性とは実在性であるという命題と同じだということです。

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