『罪と罰』のミコールカの場合のように,あまりよく分からないような形でドストエフスキーの小説に当時のロシアのキリスト教との関係が含まれているというのを,『カラマーゾフの兄弟』から見つけ出すなら,それはかつて紹介した,スメルジャコフの場合ということになるでしょう。
僕は『カラマーゾフの兄弟』を読み進めるうちに,スメルジャコフが性的不能者であるとしか考えられなくなっていきました。彼の性的事柄への無関心さ,無関心さというより忌避感というのが,あまりに度を越しているように感じられたからです。そしてこれについて,江川卓は『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』において,スメルジャコフは去勢していたのではないかという説を唱えているのです。
この去勢は,もちろん宗教的,キリスト教的な意味における去勢です。この当時,去勢派というのもロシアのキリスト教の異端派の一角を占めていて,同じ異端派である鞭身派といわれる,文字通りに自分の身体に鞭を打つことを教義とする派と,勢力争いを繰り広げていたようです。
もちろん,スメルジャコフが去勢していたとか,そもそも去勢派に属していたということも,『カラマーゾフの兄弟』の中で直接的に言及されているというわけではありません。だからこの場合にも,ドストエフスキーがスメルジャコフをそうした人物として明確に組み立てていたのかどうかは不明ではあります。ただ,ドストエフスキーの『女主人』という小説は,下宿先の女主人であるカテリーナが,去勢派に加わるという内容の物語になっています。『女主人』は小説家としてのドストエフスキーとしては初期の頃、1847年のもので,遺作であり,1880年に完成した『カラマーゾフの兄弟』よりも30年以上も前に書かれたものです。つまりドストエフスキーはかなり前から去勢派を知っていて,しかもそれを小説として書いたのですから,関心もあったと考えるのが妥当です。ですからドストエフスキーが,スメルジャコフを去勢派の人間として描こうとしていたという可能性は,けして小さなものではなかっただろうと思います。
スピノザがわざわざその冒頭の部分で断りを入れているように,第二部定理九というのは現実的に存在するある個物res singularisの観念ideaについての言及です。個物の観念というのは,要するに神Deusの思惟の属性Cogitationis attributumの個物のことです。したがって,第二部定理九というのは,個物が現実的に存在するという場合のことを説明していると考えなければなりません。したがってここでいわれている個物,すなわち個物の観念といわれているもののことですが,その本性essentiaにはその個物の持続duratioが含まれているということが,僕自身が個物の本性という観点から第二部定理九をみた際の結論ということになります。いい換えればそれは,永遠aeterunusという観点から説明されているのではなく,持続という観点から説明されているということになりますから,第二部定理九の無限連鎖のどの一部分を抽出したところで,この様式での認識cognitioというのは,第二部定理四四系二により,理性ratioの本性に属するというわけではないと僕は理解します。
しかし一方で,スピノザがわざわざこうした断りを入れているということ自体に,僕は何らかの意味があるのだろうとも思うのです。すなわち,これは個物の観念に限ったことではなく,すべての個物に該当することなのですが,スピノザの哲学,とくに『エチカ』においてある個物が存在するといわれる場合には,それは直ちにその個物が現実的に存在する,いい換えれば一定の持続のうちに存在するという意味にはならないと,僕は考えているのです。実際,『エチカ』には明らかにそのことを示唆しているとしか考えられないような定理Propositioがあるのです。それは第二部定理八です。
「存在しない個物ないし様態の観念は,個物ないし様態の形相的本質が神の属性の中に含まれていると同じように神の無限な観念の中に包容されていなければならぬ(Ideae rerum singularium, sive modorum non existentium ita debent comprehendi in Dei infinitia idea, ac rerum singularium, sive modorum essentiae formales in Dei attributis continentur.)」。
この定理Propositioは一読して理解できるように,ある何らかの観念,存在しないものの観念についての言及です。しかし現在の考察との関連で重要なのは,むしろ個物の形相的本質essentiae formalesが神の属性Dei attributisのうちに含まれているという点ですので,定理そのものに関しては言及しませんし,よって証明Demonstratioも省略します。ただ,ここで存在しないといわれているのは,存在し得ない,存在が不可能であるという意味ではなく,現実的に存在しないという意味であることにはご注意ください。
僕は『カラマーゾフの兄弟』を読み進めるうちに,スメルジャコフが性的不能者であるとしか考えられなくなっていきました。彼の性的事柄への無関心さ,無関心さというより忌避感というのが,あまりに度を越しているように感じられたからです。そしてこれについて,江川卓は『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』において,スメルジャコフは去勢していたのではないかという説を唱えているのです。
この去勢は,もちろん宗教的,キリスト教的な意味における去勢です。この当時,去勢派というのもロシアのキリスト教の異端派の一角を占めていて,同じ異端派である鞭身派といわれる,文字通りに自分の身体に鞭を打つことを教義とする派と,勢力争いを繰り広げていたようです。
もちろん,スメルジャコフが去勢していたとか,そもそも去勢派に属していたということも,『カラマーゾフの兄弟』の中で直接的に言及されているというわけではありません。だからこの場合にも,ドストエフスキーがスメルジャコフをそうした人物として明確に組み立てていたのかどうかは不明ではあります。ただ,ドストエフスキーの『女主人』という小説は,下宿先の女主人であるカテリーナが,去勢派に加わるという内容の物語になっています。『女主人』は小説家としてのドストエフスキーとしては初期の頃、1847年のもので,遺作であり,1880年に完成した『カラマーゾフの兄弟』よりも30年以上も前に書かれたものです。つまりドストエフスキーはかなり前から去勢派を知っていて,しかもそれを小説として書いたのですから,関心もあったと考えるのが妥当です。ですからドストエフスキーが,スメルジャコフを去勢派の人間として描こうとしていたという可能性は,けして小さなものではなかっただろうと思います。
スピノザがわざわざその冒頭の部分で断りを入れているように,第二部定理九というのは現実的に存在するある個物res singularisの観念ideaについての言及です。個物の観念というのは,要するに神Deusの思惟の属性Cogitationis attributumの個物のことです。したがって,第二部定理九というのは,個物が現実的に存在するという場合のことを説明していると考えなければなりません。したがってここでいわれている個物,すなわち個物の観念といわれているもののことですが,その本性essentiaにはその個物の持続duratioが含まれているということが,僕自身が個物の本性という観点から第二部定理九をみた際の結論ということになります。いい換えればそれは,永遠aeterunusという観点から説明されているのではなく,持続という観点から説明されているということになりますから,第二部定理九の無限連鎖のどの一部分を抽出したところで,この様式での認識cognitioというのは,第二部定理四四系二により,理性ratioの本性に属するというわけではないと僕は理解します。
しかし一方で,スピノザがわざわざこうした断りを入れているということ自体に,僕は何らかの意味があるのだろうとも思うのです。すなわち,これは個物の観念に限ったことではなく,すべての個物に該当することなのですが,スピノザの哲学,とくに『エチカ』においてある個物が存在するといわれる場合には,それは直ちにその個物が現実的に存在する,いい換えれば一定の持続のうちに存在するという意味にはならないと,僕は考えているのです。実際,『エチカ』には明らかにそのことを示唆しているとしか考えられないような定理Propositioがあるのです。それは第二部定理八です。
「存在しない個物ないし様態の観念は,個物ないし様態の形相的本質が神の属性の中に含まれていると同じように神の無限な観念の中に包容されていなければならぬ(Ideae rerum singularium, sive modorum non existentium ita debent comprehendi in Dei infinitia idea, ac rerum singularium, sive modorum essentiae formales in Dei attributis continentur.)」。
この定理Propositioは一読して理解できるように,ある何らかの観念,存在しないものの観念についての言及です。しかし現在の考察との関連で重要なのは,むしろ個物の形相的本質essentiae formalesが神の属性Dei attributisのうちに含まれているという点ですので,定理そのものに関しては言及しませんし,よって証明Demonstratioも省略します。ただ,ここで存在しないといわれているのは,存在し得ない,存在が不可能であるという意味ではなく,現実的に存在しないという意味であることにはご注意ください。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます