初日,2日目は暑く,昨日と今日は寒いということで,対応しなければならなかった選手たちは大変であったろうと察せられる西武園記念の決勝。並びは藤田ー岡田ー芦沢の関東,海老根ー武井ー林の南関東,村上に萩原で吉田は単騎。
スタートは武井が取って海老根が前受け。4番手に村上,6番手に藤田,最後尾に吉田の周回に。残り2周のホームの入口から藤田が動き出し,芦沢までが続いてバックで海老根を叩くと,続いた村上が打鐘から発進して先行。吉田はこちらのラインに乗っていきましたが,3番手を内の藤田と競る形に。置かれた海老根も動きましたが,バックの入口で藤田と吉田の競りのあおりで外に浮いてしまい失速。藤田を見切った岡田がコーナーから動いていくと,車間を開けて後ろの様子を窺っていた萩原が対応して発進。直線はそのまま突き抜けた萩原の優勝。岡田が4分の3車身差の2着で岡田に続いた芦沢が4分の3車輪差で3着。
優勝した静岡の萩原孝之選手はこれが記念競輪初優勝。南関東とは別れる形で村上の後ろを回ったのですが,この選択が最良の結果をもたらすことになりました。2車で後ろが別地区の選手であるにも関わらず果敢に先行した村上の走りもさすがだったと思います。
第一部定理二五備考についてやや詳しく説明したのは,後に今回の考察において触れる予定があるからです。ただ,現時点ではまだ考察の入口であり,すぐに関係してくるというわけではありませんから,その対象を,第一部定理二六証明に戻すことにします。
この論証は,確かにそれで成立していると僕は考えています。しかしこの訴訟過程については,いくつかの疑問点を提示することも可能であると思えるのです。それは,分解した3ヶ所にそれぞれひとつずつです。
まず,①に関していうなら,事物が作用に決定されているといわれるとき,それは積極的なもののためでなければならないとスピノザはいっていますが,なぜそうであるといえるのかということに,疑問の余地がまったくないとはいえないのではないかと思えます。
次に②に関していうなら,①で主張されていることは自明な事柄であるということで,いわばスピノザは上に提出した疑問に回答しているといえるでしょうが,しかし本当にそれが自明であるのかどうかには疑問が残ります。①と②をセットと考えた場合には,事物が作用に決定されるといわれるならば,それはある積極的なもののためであるということは自明であるということになりますが,これをそれ自体で明らかであるといっていいのかどうか,疑問であるという主張は,いっかな無理がない主張であると僕には思えます。したがって①の疑問と②の疑問は,合わせてひとつの疑問であるといういい方もできそうです。
③はこの論証の結論に該当する部分です。しかしここでいわれている内容については,その全体に疑問を呈するということがやはり可能であると思えます。すでに①と②に関して疑問点を提出したわけですが,仮にそのことを無視して,①の部分と②の部分が十全に成立していると理解したとしても,なぜこれらのことから,事物が作用に決定されるといわれるとき,その決定の原因は神であると帰結するのでしょうか。あるいはその原因となり得るものについて,それは神だけであって,神以外の何ものでもないということを導き出すことができるのでしょうか。この点も,やはり疑問として成立し得ると僕には思えるのです。
スタートは武井が取って海老根が前受け。4番手に村上,6番手に藤田,最後尾に吉田の周回に。残り2周のホームの入口から藤田が動き出し,芦沢までが続いてバックで海老根を叩くと,続いた村上が打鐘から発進して先行。吉田はこちらのラインに乗っていきましたが,3番手を内の藤田と競る形に。置かれた海老根も動きましたが,バックの入口で藤田と吉田の競りのあおりで外に浮いてしまい失速。藤田を見切った岡田がコーナーから動いていくと,車間を開けて後ろの様子を窺っていた萩原が対応して発進。直線はそのまま突き抜けた萩原の優勝。岡田が4分の3車身差の2着で岡田に続いた芦沢が4分の3車輪差で3着。
優勝した静岡の萩原孝之選手はこれが記念競輪初優勝。南関東とは別れる形で村上の後ろを回ったのですが,この選択が最良の結果をもたらすことになりました。2車で後ろが別地区の選手であるにも関わらず果敢に先行した村上の走りもさすがだったと思います。
第一部定理二五備考についてやや詳しく説明したのは,後に今回の考察において触れる予定があるからです。ただ,現時点ではまだ考察の入口であり,すぐに関係してくるというわけではありませんから,その対象を,第一部定理二六証明に戻すことにします。
この論証は,確かにそれで成立していると僕は考えています。しかしこの訴訟過程については,いくつかの疑問点を提示することも可能であると思えるのです。それは,分解した3ヶ所にそれぞれひとつずつです。
まず,①に関していうなら,事物が作用に決定されているといわれるとき,それは積極的なもののためでなければならないとスピノザはいっていますが,なぜそうであるといえるのかということに,疑問の余地がまったくないとはいえないのではないかと思えます。
次に②に関していうなら,①で主張されていることは自明な事柄であるということで,いわばスピノザは上に提出した疑問に回答しているといえるでしょうが,しかし本当にそれが自明であるのかどうかには疑問が残ります。①と②をセットと考えた場合には,事物が作用に決定されるといわれるならば,それはある積極的なもののためであるということは自明であるということになりますが,これをそれ自体で明らかであるといっていいのかどうか,疑問であるという主張は,いっかな無理がない主張であると僕には思えます。したがって①の疑問と②の疑問は,合わせてひとつの疑問であるといういい方もできそうです。
③はこの論証の結論に該当する部分です。しかしここでいわれている内容については,その全体に疑問を呈するということがやはり可能であると思えます。すでに①と②に関して疑問点を提出したわけですが,仮にそのことを無視して,①の部分と②の部分が十全に成立していると理解したとしても,なぜこれらのことから,事物が作用に決定されるといわれるとき,その決定の原因は神であると帰結するのでしょうか。あるいはその原因となり得るものについて,それは神だけであって,神以外の何ものでもないということを導き出すことができるのでしょうか。この点も,やはり疑問として成立し得ると僕には思えるのです。
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