スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産省賞典中山グランドジャンプ&真偽の規準

2017-04-15 19:19:19 | 中央競馬
 第19回中山グランドジャンプ
 最初の障害を飛越してからメイショウヒデタダが単独の先頭に。ラステラとアップトゥデイトが2番手。ルペールノエルとオジュウチョウサンが4番手。タイセイドリーム,ワンダフルワールドと続き,トーセンハナミズキとクリノダイコクテン。ウインヤード,サンレイデューク,ティリアンパープル,アイティテイオーの4頭は控える形で前半は進みました。ペースが上がるところがなく,脱落した馬も不在であったために,2回目の障害コースで大生け垣を飛越すると,馬群が凝縮してかなり短い隊列に。
 最終周回の向正面に入るとオジュウチョウサンが外からアップトゥデイトを交わして単独の2番手に。3コーナーを回ると逃げていたメイショウヒデタダも交わして先頭に立ちました。後方から外を進出してきたサンレイデュークが2番手に上がり,そのまま緩めずにオジュウチョウサンを追い,2頭が並んで直線の入口に。最後の障害まではあまり差がつきませんでしたが,それを飛越するとオジュウチョウサンが内から引き離していき,3馬身半差で優勝。積極的な競馬をみせたサンレイデュークが2着。オジュウチョウサンには向正面で交わされたものの,一杯にはなっていなかったアップトゥデイトが8馬身差で3着。
 優勝したオジュウチョウサン中山大障害以来の大レース3勝目。第18回に続いての中山グランドジャンプ連覇。今年に入って阪神スプリングジャンプも勝っていてこれで障害重賞6連勝。ここはメイショウヒデタダ以外のメンバーとは勝負付けがすんでいて,メイショウヒデタダもここ2戦は連勝していましたがそれ以前の戦績からオジュウチョウサンを負かすほどの力があるとは考えられませんでしたから,どのような勝ち方をするのかということの方が焦点ではないかと思っていました。斤量を課せられないという点を重視すると使うことができるレースは限られますが,よほどの馬の出現がない限り負けることは考えにくいです。父はステイゴールド。母の父はシンボリクリスエス。全兄に2013年のラジオNIKKEI賞を勝ったケイアイチョウサン
 騎乗した石神深一騎手と和田正一郎調教師は中山大障害以来の大レース制覇。中山グランドジャンプは連覇で2勝目。

 真偽の判定は観念ideaの内的特徴denominatio intrinsecaによってなされなければなりません。ただし,第二部定理三二にあるように,すべての観念は神に関係する限り真omnes ideae, quatenus ad Deum referuntur, veraeなのですから,このことは観念が神のうちにあるとみられる場合には意味をもちません。この場合には真偽を判定する必要がないからです。つまり真偽を判定しなければならないのは,観念が有限な知性intellectusとだけ関連付けられている場合です。とくに,現実的に存在するある人間の精神mens humanaとだけ関連付けられる場合,いい換えれば,ある観念が現実的に存在するある人間の精神のうちにあるとみられる場合だけです。
                                     
 こうした場合に,観念が内的特徴によってどのように真偽を判定されるのかということを示したのが第二部定理四〇です。観念が真の観念idea veraといわれるのは,それが外的特徴denominatio extrinsecaすなわち観念されたものideatumと一致するのか一致しないのかという観点から把握される場合でした。この定理Propositioでは内的特徴から観念を把握するために,もはや真の観念とはいわれずに,十全な観念といわれています。すなわち,現実的に存在する人間の精神のうちにある十全な観念から生じる観念が十全な観念であるとされ,これがスピノザの哲学における真偽の規準となるのです。第二部定義四が画期的な定義Definitioであるということの意味の一端がここにもあるといえるでしょう。
 第一部公理四により,結果の認識は原因の認識に依存します。そして第二部定理九により,現実的に存在する個物の観念の原因は,それとは別の個物の観念です。したがって人間の精神のうちにあるある観念が真理veritasであることは,その観念の原因の認識に依存しなければなりません。第二部定理四〇がいっているのは,原因が十全すなわち真であれば結果も真すなわち十全であるということですから,この条件も満たしていることになります。
 この定理には実際には4つの意味が含まれていて,それがすべて成立することは過去に考察した通りです。つまりある観念の真理性は,観念されたものに依存するのでなく,その観念の原因にのみ依存します。すなわち原因が十全ならば結果も十全です。逆に原因が混乱しているなら結果も混乱しているのです。これが真偽の規準です。
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書簡六十七の二&真偽の判定

2017-04-14 19:18:59 | 哲学
 ゲプハルトCarl Gebhardtが1924年に編集したスピノザ全集に,初めて収録された書簡は2通ありました。ひとつが四十八の二でこれはフロイデンタールJacob Freudenthalによって発掘されたもの。もうひとつが別に発表されたもので六十七の二でした。アルベルトAlbert Burghからスピノザに送られた書簡六十七は遺稿集Opera Posthumaに収録されていて,それとの関係が深いのでその後ろに配置されたものです。
                                     
 こちらはステノからスピノザに宛てられたもの。アルベルトから送られたものと同様に,ローマカトリックの正統性を主張する内容です。ただし,書簡の内容だけでいえばアルベルトから送られたものよりステノから送られたものの方がよほど優れた内容になっています。アルベルトはスピノザがローマカトリックに否定的な哲学をもっていることを愚かなことと思い,罵詈雑言を浴びせ掛けているだけで,読みようによってはかえってローマカトリックの信徒の品位を貶めかねません。ですがステノはスピノザの哲学の内容を部分的に尊重していますし,スピノザがカトリックに対する信仰fidesをもたないことについては反感を抱いていたと感じさせますが,同時に,自分がどんなことをいってもスピノザがカトリックを信仰するようになることはないだろうと想定していたようにも感じられ,少なくともアルベルトのような暴言を吐くことは一切ありません。ステノはカトリックの内部で地位を上げていったのですが,それに見合うだけの品位と知性とがステノにはあったということは,この書簡から窺い知ることができます。
 ですから,書簡としていえば,六十八よりは六十八の二の方が,遺稿集に収録されるには相応しいだけの内容を有していたと僕は思っています。ですが遺稿集の編集者たちがそうはせず,アルベルトからの書簡は収録し,ステノからの書簡は収録しなかったのは,単にスピノザがステノには返事を出さなかったけれども,アルベルトには出したからだろうと推測します。もしスピノザからアルベルトに宛てた書簡というのが存在しなければ,どちらも収録されなかったことでしょう。

 観念ideaの外的特徴denominatio extrinsecaは真偽の源泉とはなり得ません。すなわちある観念が真の観念idea veraであるからといってそれはその観念が真理veritasであることの根拠にはなりません。同様に,ある観念が誤った観念であるからといって,それはその観念が虚偽falsitasであるということの根拠にはならないのです。このためにスピノザの哲学では,観念がそれとは違った仕方で新しく定義され直されることになりました。いうまでもなくその定義Definitioとは,観念を内的特徴denominatio intrinsecaから基礎づけた第二部定義四です。
 ここで示されている十全な観念ideam adaequatamというのは,哲学史の中でも画期的な観念の規定であると僕は思っています。なぜならこの定義は,観念が思惟の様態cogitandi modiであるということを積極的に意味づけていると思うからです。観念が思惟の様態であるとは,観念とは,観念されたものideatumを撮影した写真のようなものではないということです。
 実際のところ,観念が思惟の様態であるということについては異論はないでしょう。しかしその場合でも,実は観念は対象を撮影した写真のようなものであると思われがちなのです。というのも,観念が対象と一致することによって真であり,対象と一致しないのであれば誤っているという見解は,観念を写真のようなものとする見方と同じです。なぜなら,対象が正しく撮影されているならそれは真であり,正しく撮影されていないならそれは誤っていると主張しているのと同じことだからです。この場合には,観念が観念されているものを明瞭判然と写し出しているなら真であり,そうでないなら偽であるということになるでしょう。そして観念は基本的にこのような観点からその真偽を判定されてきたのです。あるいはこの種の判定は,現在でも通用するようなものなのかもしれません。ですがスピノザは観念が思惟の様態であるということを積極的に示すことによって,この見解を真向から否定したのです。だから僕はこの定義は画期的だったと思っているのです。
 思惟する力の源泉が思惟する力それ自体であるということは,思惟の様態は思惟の様態として真偽を判定されなければなりません。あるいは思惟の様態は思惟の様態から真偽を判定されなければならないのです。
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サッポロビール盃マリーンカップ&真偽の源泉

2017-04-13 20:17:22 | 地方競馬
 昨晩の第21回マリーンカップ
 発走後はプリンセスバリュー,ララベル,リンダリンダの3頭が横並びでさらに外からホワイトフーガが追い掛ける形。この中からララベルが単独で先頭に立っての逃げに。2番手にリンダリンダでやや掛かり気味にホワイトフーガもその外に並び掛けていきました。引いたプリンセスバリューはパールコード,ワンミリオンス,タイニーダンサーとの4頭で前の3頭の後ろを追う隊列に。残る4頭はこれら7頭から大きく引き離されました。前半の800mは49秒7のミドルペース。
 3コーナーを回るとリンダリンダがララベルの外に並んでいき,ホワイトフーガもリンダリンダの外をついていったので3頭が雁行に。直線に入ると一番外のホワイトフーガがこの競り合いから抜け出して優勝。逃げたララベルが3馬身差で2着。競り合いからは脱落したリンダリンダも2馬身差の3着には粘りました。
                                 
 優勝したホワイトフーガJBCレディスクラシック以来の勝利で6勝目。ここは折り合いに難があるので距離短縮はプラスだろうけれども斤量は不利という立場。結果的に斤量差を能力で克服したという形。喉にも弱点を抱えているようなので,水分が多い馬場状態もプラスに作用したのだと思われます。ウィークポイントが解消されているというわけではないようなので今後も安定性に欠く面は出るかもしれませんが,斤量よりは距離の方を重視して馬券を組み立てるのがいいのかなという気がしています。父はクロフネ。母の父はフジキセキ。祖母がドバイソプラノ
 騎乗した蛯名正義騎手は第3回以来18年ぶりのマリーンカップ2勝目。管理している高木登調教師はマリーンカップ初勝利。

 第二部定義三が観念ideamの発生を含んでいるといえる理由は,精神が思惟するものであるがゆえに形成されるquem Mens format, propterea quod res est cogitansのが観念であるといわれているからでした。第二部公理三の意味の中には,思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものは観念であることが含まれています。したがって思惟するものはまず観念を形成しなければなりません。思惟する力potentiaの源泉は思惟する力そのものであるというのはこのような意味です。人間の精神mens humanaのうちにある個別の観念について具体的にいえば,その観念もまた思惟するものですから,それとは別の観念を発生させます。第二部定理九がこのことと一致することを確認してください。
 思惟する力の源泉が思惟する力そのものであるということ,あるいは個物の観念の起成原因causa efficiensがそれとは別の個物の観念であるということ,さらに第二部定理五でいわれているように,観念の形相的有esse formaleの起成原因が観念されたものideatumのうちにはないということは,スピノザの哲学のうちでまた別の根拠を要求します。それは,真の観念idea veraが真の観念といわれ,また誤った観念が誤った観念といわれ得ることの根拠です。なぜなら,第一部公理四にあるように,結果の認識cognitioは原因の認識に依存するのです。したがって結果が真の観念であるといわれること,また逆に結果が誤った観念でいわれるということの認識は,それらの観念の原因の認識に依存しなければならないでしょう。ところが,観念の形相的有の起成原因は観念されたものではないのですから,ある観念が観念されたものと一致しているか一致していないかということは,それが真の観念あるいは誤った観念といわれる根拠となり得ないのです。つまり,思惟する力の源泉は何かと問われたときに,それは思惟する力そのものであると答えるならば,今度は真偽の源泉は何であるかということが問われることになるのです。
 観念されたものと一致した観念が真の観念といわれ,一致しない観念は誤った観念といわれることは,第一部公理六から明白です。ですがこのことは真偽の源泉ではあり得ません。こうした特徴は観念の外的特徴denominatio extrinsecaですが,この外的特徴とは別のところに,真偽の源泉が求められなければならないことになります。
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桜花賞・海老澤清杯&思惟する力

2017-04-12 19:25:01 | 競輪
 被災地支援競輪として行われた昨晩の川崎記念の決勝。並びは菅田‐永沢の北日本,渡辺‐郡司‐小原の南関東,浅井に中川,稲垣‐椎木尾の近畿。
 浅井が飛び出して前受け。3番手に稲垣,5番手に渡辺,8番手に菅田で周回。残り3周のバックを出るあたりから菅田が上昇。途中で止まらなかったので渡辺はそのラインの外に自転車を出し,永沢の後ろには稲垣が切り替え,ホームでは横3列に。ホームの出口で菅田が浅井を叩くのを見届けて渡辺がコーナーから発進。そのまま全開で駆けていき打鐘。4番手に菅田,6番手に稲垣,8番手に浅井の一列棒状でホームを通過。郡司が早くも渡辺との車間を開け始めました。バックから稲垣が発進。これはいいスピードでしたが前で待ち構えていた郡司が合わせるように出て牽制。コーナーで外に浮いてしまった稲垣は失速。そのまま踏み込んだ郡司が優勝。マークの小原が半車身差の2着に続いて地元のワンツー。郡司は牽制のためかなり外に膨れたのですが小原は内を閉め続けたので踏むところがなく,小原追走のまま流れ込むような形で菅田が1車身差の3着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は前回出走のウィナーズカップから連続優勝。記念競輪は昨年の小田原記念以来の3勝目。このレースは郡司は自力でも優勝候補の一角。それが渡辺という援軍を得て,渡辺も何をすればいいのかはよく心得ているでしょうから相当に有利だろうと考えていました。菅田が浅井をきちんと抑えた後で駆けていったタイミングもばっちりで,渡辺もいい仕事をしたと思います。郡司も安易に番手捲りを放つのではなく,車間を開けて稲垣を牽制する走行をしたので,渡辺も直線入口は先頭で回ってきました。結果的には9着だったのですが,二段駆けでありがちな大差の9着ではなく,着順争いにはなっての9着だったので,レース全体としても見事なものであったと思います。

 原因と結果の間には共通点がなければなりません。共通点を構成するのは属性attributumです。したがって原因と結果は同じ属性に含まれます。このことを一般的な形として示したのが第二部定理六です。そしてこれをとくに観念ideaについて示しているのが第二部定理五になります。とくにこの定理Propositioでいわれているように,観念は観念されたものideatumを起成原因causa efficiensと認めないという点が,現在の考察においては重要です。
                                     
 次に,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにある観念があるというとき,その観念の起成原因が何であるのかということを具体的に示しているのが第二部定理九になります。つまり第二部定理九で示されているような様式の下に人間の精神のうちに観念が発生してくるのです。精神が自動機械automa spiritualeであるといわれるのは,この様式の下に観念が自動的に発生してくるからにほかなりません。同じように,認識が純粋な受動passioといわれる場合にも,それはこの様式の下に自動的に観念が発生するということを意味しているのです。観念されるものが起成原因となって自動的に発生してくるのではありませんから,この点を間違えてはならないのです。
 第二部定理四九備考は,人間の精神のうちに観念があるというとき,それが真の観念idea veraであろうと誤った観念であろうと,同じようにそれは思惟する力potentiaとみなされなければならないという解釈を必要としていると僕は考えます。第二部定理九の様式は,それが人間の精神のうちにある場合には,真の観念とだけ関連するのではなく,誤った観念とも関連します。なぜなら誤った観念というのはその人間の精神とだけ関連付けられる限りにおいて誤った観念なのであって,第二部定理三二に示されている通り,それは神と関連付けられればDeum referuntur真の観念であるからです。よって,思惟する力とみなされる観念の起成原因は,同様に思惟する力とみなされなければならない観念そのものです。要するに思惟する力の源泉は思惟する力そのものなのです。
 第二部定義三は,スピノザが定義Definitioの条件のひとつとして掲げる,定義されるもの,この定義でいえば観念の発生を含んでいるということを僕は以前に考察しました。そのこととこれは関係します。
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マイナビ女子オープン&思惟する力の源泉

2017-04-11 19:17:57 | 将棋
 鶴巻温泉で指された第10期マイナビ女子オープン五番勝負第一局。対戦成績は加藤桃子女王が4勝,上田初美女流三段が2勝。
 振駒で加藤女王の先手。序盤に駆け引きがありましたがごきげん中飛車①-Aと同じ形に進みました。32手目に飛車交換となり後手が龍を作る将棋に。
                                     
 ここで☗5九金左と形にとらわれずに寄るのが龍の侵入を許さない受け方。後手は☖5六歩☗同歩と突き捨ててから☖4五龍と引きました。
 ☗3七桂☖6五龍とさらに龍を追って7六の歩を守るために☗5五歩。ここで☖3一角と引いたのは新手だったようです。
 先手は龍を追い払うために☗4八金直と上がり☖5三銀☗5七金☖6四銀☗6六金とこの金を前進させていきました。ここでは後手の対応が間に合っていない感じです。
 ☖8五龍と逃げたのに対して☗2四成銀と進出。☖5三角に☗7七桂☖8四龍とさらに龍を後退させて☗2三成銀と進めました。
                                     
 第2図はすでに後手が窮しているようです。後手の新手がうまくいかなかったという一局だったのではないでしょうか。
 加藤女王が先勝。第二局は20日です。

 認識cognitioが純粋な受動passioであるといういい方は,知性intellectusの外に,すなわち形相的にformaliter何事かがあって,それが自動的に知性のうちに,すなわち客観的に観念ideaとして形成されるというイメージを抱かせるかもしれません。いい換えるなら,人間の知性の思惟する力potentiaの源泉は,知性の外にある事物であるというイメージを抱かせるかもしれません。しかしスピノザはそのような主張をしているのではありません。
 これは一般に人間が事物を表象するimaginariという場合にも妥当しています。第二部定理一六にあるように,人間の知性による表象作用imaginatioは,その人間の身体corpusの本性と外部の物体corpusの本性の両方を含んでいます。このとき,身体というのは物体としてみるなら知性の外に形相的に存在するものですが,第二部定理一三にあるようにそれは同時にその人間の精神を構成する観念idea, humanam Mentem constitutensの対象ideatumです。すなわち同一個体です。よって第二部定理七により秩序と連結ordo, et connexioが一致します。このためにそれに応じた表象像imaginesが知性のうちには発生しなければならないのであり,この事態は何らの因果関係も説明しません。つまり形相的なものとしてみられるような人間の身体は,その人間の精神の事物の表象の源泉であるとはいえないのです。
 そもそも,スピノザの哲学の形而上学が,形相的なものが客観的なものの力の源泉あるいは原因であるということを許容しないようになっています。第一部公理五により,AとBに共通点が存在しなければ,AによってBを認識することはできませんし,BによってAを認識することができません。ところが第一部公理四は,結果の認識が原因の認識に依存しなければならないことを示しています。したがってこれらの公理Axiomaから,第一部定理三にいわれているように,共通点がないものは一方が他方の,他方が一方の,原因であったり結果であったりすることはできないということが出てきます。この定理Propositioはこのことを消極的な命題として示していますが,積極的にいうならば,原因と結果の間には共通点が存在しなければならないのです。しかし形相的なものと客観的なものの間には共通点がありません。つまり形相的なものが思惟する力の源泉であるということは不可能なのです。
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裕福な男と困窮した男&新たな問題

2017-04-10 19:13:43 | 歌・小説
 『それから』で表面的に語られている物語は,代助が平岡の妻である三千代と三角関係になり,最終的に平岡から三千代を奪うということです。このとき,三千代を挟んで争うふたりの男は経済的には対照的な関係にあります。すなわちその時点での代助は金銭には何不自由していませんが,平岡は困窮にあえいでいるのです。つまりこの物語には,裕福な男と困窮した男がひとりの女を巡って争い,裕福な男が勝利するという内容が含まれていることになります。
                                     
 こうした関係は,『こころ』にも受け継がれているのだと解釈することができます。『こころ』では先生とKがを巡っての三角関係で争い,最終的に先生が勝利します。先生は親の遺産によって働かずとも食べていかれる男です。これに対して寺の次男として産まれ,養子に出されたKは,自身で選択した学問のことで実家からも養家からも仕送りを断たれ,きわめて貧しい学生生活を送っている男であるからです。
 ただ,平岡とKの間には,もしかしたら相違点があるといえるかもしれません。平岡は間違いなく自分が経済的困窮に陥っているということに自覚的です。ですから代助に対して脅迫まがいのことまでして金銭を要求します。だから平岡は『明暗』の小林の前身たり得る存在です。しかし,Kがそれに自覚的であったとはいえないかもしれません。Kは確かに先生と同居するようになり,その家賃は先生が支払っていましたが,これは先生の方から提案したものであり,Kがそれを望んでいたわけではありません。また,家賃を支払ってもらっているということについて,Kは感謝をしているようなふしもありませんし,かといって負い目があるというような態度で先生と接することもありません。むしろ同居以前の困窮生活について先生が遺書に書いているテクストから読解すれば,Kはその生活をむしろ喜んでいるように思えるのです。
 Kが自身の貧困についてどのように思っていたのか。遺書のテクストから少し考えてみることにします。

 これでスピノザがなぜ第二部定理四九備考のような主張をすることができたかが明らかになります。もし観念ideaの集積である知性intellectusが,真の観念idea veraだけを意味するのであれば,意志voluntasは観念より広くわたることになります。なぜなら現実的に存在する人間の知性は真の観念だけの集積であることはあり得ず,真の観念と誤った観念の両方の集積なので,誤った観念を肯定ないしは否定する意志作用volitioの分だけ意志の範囲は知性の範囲を上回るからです。しかし真の観念を肯定ないしは否定する意志も,誤った観念を肯定あるいは否定する意志も,その観念がなければあることも考えることもできません。よってある人間の知性のうちに観念が発生することを一般的に思惟する力potentiaと見る限り,その思惟する力を超越する意志は存在し得ません。つまり超越的意志は存在し得ないのであり,それがこの備考のこの部分における主眼であることになります。
 ところで,観念と意志の関係をこのようなものとして規定する場合には,別の問題が発生します。それは,上述の文脈に照合していうならば,人間の思惟する力の源泉がどこにあるのかということです。もしも観念を超越した意志があるというのであれば,その意志が思惟する力すなわち人間の知性が観念を形成する力の源泉となり得るでしょう。『スピノザ 共同性のポリティクス』に示されていた,意志の行使と理性ratioの間に関係があるという哲学的伝統は,このような見解に則しています。つまり人間が理性を行使する力の源泉として,人間の知性の意志する力を該当させているのです。ところがスピノザの哲学においては知性と意志が同一とみなされるのですから,このように規定することはできません。なので人間が理性を行使するならその源泉がどこにあるのかということ,そしてもっと一般的に,人間が思惟するというときの思惟する力の源泉がどこにあるのかということが,規定され直さなければならないのです。
 スピノザは『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』では認識cognitioは純粋な受動であると規定していて,この考え方が基本的に変化していないというのが僕の見方でした。ただし,これを正しく解するためには注意しなければならないことがあります。
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桜花賞&知覚の場合

2017-04-09 19:15:23 | 中央競馬
 第77回桜花賞。サロニカは左の後ろ足に跛行を生じたため出走取消で17頭。
 発走直後に先頭に出たのはベルカプリでショーウェイが2番手。この後ろにミスエルテ,ジューヌエコール,レーヌミノル,ヴゼットジョリー,カワキタエンカ,リスグラシューが集団を形成していましたが,この中からカワキタエンカが外をぐんぐんと進出。向正面でハナを奪い後続に5馬身ほどの差をつける大逃げに。集団の直後にいたのがソウルスターリングとライジングリーズン。ゴールドケープ,アロンザモナ,ミスパンテールの3頭が続き,この後ろはやや離れてアエロリット,カラクレナイ,アドマイヤミヤビ,ディアドラ。前半の800mは46秒5のハイペース。
 差は縮まっていたもののカワキタエンカが先頭で直線に。ヴゼットジョリーが2番手でしたが少し外に出たレーヌミノルの伸び脚がよく内の2頭を交わして先頭に。これをマークするように外から追ってきたのがソウルスターリングで後方から大外を回って追い上げてきたのはアエロリット,アドマイヤミヤビ,カラクレナイの3頭。レーヌミノルは最後は一杯になっていましたがそれ以上の脚を使えた馬がなく優勝。ソウルスターリングとカラクレナイの間から差してきたリスグラシューが半馬身差で2着。ソウルスターリングがクビ差の3着。カラクレナイがクビ差の4着でアエロリットがクビ差の5着でした。
 優勝したレーヌミノルは昨年9月の小倉2歳ステークス以来の重賞2勝目で大レース初制覇。小倉2歳ステークスは6馬身差の圧勝で,かなりの能力があるとみていました。ですがその後は距離が伸びて惜敗続き。前走,1400mのフィリーズレビューに出走したとき,桜花賞のことは考えずに全力で勝ちにくるのではないかとみていましたがカラクレナイに差されて2着。さらに距離が伸びるここでは苦しいだろうと見立てていたのですが,強気な競馬で制してみせました。さすがにこれ以上の距離延長はマイナスでしかないと思います。本質はスプリンターとみていて,短距離路線では大活躍を期待していい馬だと思っています。父はダイワメジャー。祖母は1987年にラジオたんぱ杯3歳牝馬ステークスを勝ったプリンセススキー。Reineはフランス語で女王。
 騎乗した池添謙一騎手は昨年のオークス以来の大レース制覇。第62回以来15年ぶりの桜花賞2勝目。管理している本田優調教師は開業から約9年10ヶ月で大レース初勝利。

 真の大きさの月の観念ideaと月をその大きさとして肯定する意志作用volitioは同一です。この関係が僕たちが月を知覚する場合にも妥当するのです。つまり真の大きさより小さいものと知覚される月の表象像imagoは,その大きさとして月を肯定する意志作用なしにあることができません。一方,そういう大きさとして月を肯定する意志作用は,その大きさの月の観念がなければあることができないのです。
 この場合,意志作用が観念なしにあり得ないということはそれ自体で明らかなのであり,とくに説明する必要はないでしょう。一方,観念が意志作用なしにあり得ないということについては,そのように月を知覚する人間の精神mens humanaのうちに,月の大きさについての真の観念があるという場合で考えてみればやはり明白ということができます。第四部定理一の意味から,月の大きさの真の観念は,月に関する誤謬errorは妨げますが,虚偽falsitasは妨げられませんから,実際にこうした事態は発生します。もっともこのことは論理的にそう示さずとも,経験的に明らかでしょう。
                                     
 実際の月の大きさを肯定する意志作用は,実際の大きさを有する月の観念だけを肯定する意志作用です。いい換えればそれは,僕たちが知覚する月の誤った観念を肯定することはできません。しかし僕たちはそうした意志作用を有していても,他面からいえば月の大きさについての真の観念idea veraを有していても,月を誤って知覚するのです。よってこの知覚は,月の真の大きさを否定する意志作用なしにあることができないことになります。月を実際より小さいものとして肯定する意志作用と,月が実際の大きさであることを否定する意志作用というのは同じことです。なので僕たちが月を知覚するという場合にも,それと同一の何らかの意志作用が存在していて,その意志作用なしに月の表象像があり得ないということは明白だと結論できます。
 表象の種類のうち,想像の場合において観念と意志作用が同一であるということはすでに示してありました。知覚の場合にもそれは同様であるということがここで明らかになりました。想起memoriaは想像の想起か知覚の想起なので,やはり同様です。つまり表象全般にこのことが妥当します。
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印象的な将棋⑬-4&第四部定理一の意味

2017-04-08 19:18:59 | ポカと妙手etc
 ⑬-3の第2図に至っては先手は受けることは難しくなりました。なのでまずは☗7四桂と王手。
                                    
 後手は☖7三王と上に逃げ☗6二歩には☖5一金寄。ここで先手は☗2四歩と突きました。
 これは相手にせずに☖7七馬と取ってしまい,先手が何で取っても☖7六歩と追撃して攻め合っていくのもあったかと思います。しかし2筋の歩を取ったところで何かあるようにも思えません。なので☖2四同歩と取りました。先手が何を指すかが注目でしたが☗同飛。
                                    
 ただですけど☖同角と取ってくれるなら☗7六金と取れますから損をするわけではありません。むしろ狙いとしていえば勝負手といえるでしょう。
 後手もこの順を予測していたわけではないと思います。しかし第2図で落ち着いて☖8五馬と引かれてみると先手には飛車取りだけが残った形。すぐに飛車を逃げずに☗6一歩成としましたがこれは無視されて☖7六歩と攻め合われ,仕方のない☗2三飛成に☖7七歩成以下,後手の快勝に終わりました。

 現実的に存在するある人間の精神mens humanaのうちにある月の真の観念idea veraは,その人間の精神のうちにある月の誤った観念を排除することはできませんし,誤った観念が発生することを妨害することもできません。ただ,これをいう場合には,虚偽と誤謬は異なるという点に注意してください。すなわち,現実的に存在する人間の精神のうちに月の大きさに関する真の観念が存在しない場合には,この人間が月を知覚することによって,月の大きさについて単に虚偽falsitasの認識cognitioをするばかりでなく,それについて誤謬errorを犯す可能性があります。しかし月の大きさについての真の観念がある場合には,月を知覚することによって虚偽の認識をすることは妨げられませんが,誤謬を犯すことはあり得ないのです。つまり月の真の観念が月の誤った観念を排除することができないといっても,それは虚偽を排除することができないという意味であって,誤謬は排除します。つまりXの誤謬に対してXの真の観念は常に有益であることになります。と同時に,このことを知っているなら,虚偽の認識をすることは人間の精神の力potentiaであるとスピノザがみなしていることも,第二部定理一七備考から明らかです。
 月の知覚は身体の変状corporis affectiones,affectiones corporisでした。よって人間の身体が外部の物体corpusに刺激を受ける場合には,月の大きさの例と同じ事柄が一般的に生じます。つまり一般的に真理veritasは虚偽を排除することができないということになるのです。第四部定理一がいっているのはそういうことになります。
 今度はこれを意志作用volitioとの関係で考察しましょう。
 人間の精神が月の真の大きさを認識するとき,いい換えれば月の大きさについての真の観念を有するとき,月がその大きさであることを肯定する意志作用が存在しなければなりません。これは僕たちが月を知覚する場合には存在し得ない意志作用ですから,真に認識する場合にその意志作用が存在するということは経験的にも明白であることが理解できると思います。一方で,そういう意志作用というのは,現にその大きさである月の観念がなければ存在し得ないことも明白でしょう。よって観念なしには意志作用が,意志作用なしには観念が,あることはできません。
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三沢光晴&月の大きさ

2017-04-07 19:11:17 | NOAH
 『全日本プロレス超人伝説』の第10章は三沢光晴。三沢についてはいろいろと書いていますので,ここではタイガーマスク以前について記しておきましょう。
                                     
 三沢は小学生のときにはすでに将来はプロレスラーになることを志していました。その準備として中学時代に器械体操部に入部。プロレスラーになるために格闘技ではなく器械体操を選択するというところに,すでに三沢にはある種のプロレス的才能があったのではないかと僕には思えます。
 中学卒業と同時に入門したかったようですが,周囲の勧めもあって高校には進学。ここでも将来のためにとレスリング部に入部。1年後輩として入部してきたのが川田利明で,谷津の雑感④にあるように,ふたりは谷津の指導を受けています。
 谷津は指導したときは三沢は2年生だったといっていますが,このときにも三沢は入門しようと全日本プロレスの事務所を訪ねました。その場にはジャンボ・鶴田もいたようですが,高校を卒業しても心変わりしなければそれからでも遅くないと諭され,このときは入門を断念。3年生のときに国体で優勝しています。この実績があったため大学からの勧誘もありましたが,1981年の3月27日に後楽園ホールで馬場の面接を受け,入門を許されました。
 同年8月21日にデビュー。入門してから5ヶ月弱でのデビューは全日本プロレスでは異例の早さで,素質は見込まれていたと考えてよさそうです。国際プロレスの崩壊はこの後,9月のことですので,サムソン・冬木はプロレスのキャリアでは三沢の先輩になりますが,冬木が全日本に移籍した時点で三沢はすでにデビューしていたという時系列になります。
 1982年度にプロレス大賞の新人賞を受賞。1983年の春にルー・テーズ杯争奪リーグ戦が行われ,優勝したのは越中。三沢は決勝で越中に敗れて準優勝でした。このリーグ戦で優勝した選手には海外遠征の切符が与えられることになっていたのですが,これが三沢にも与えられ,1984年3月に越中と共にメキシコへ。7月に三沢だけが呼び戻され,二代目タイガーマスクとなりました。

 ここでは月の大きさを考察の対象とします。
 僕たちは月の大きさを正しく知ることができます。いい換えれば,僕たちの精神mensの現実的有actuale esseを構成する観念ideaのうちに,月の大きさに関する真の観念idea veraが存在可能です。これに異論はないでしょう。
 しかし,僕たちの精神のうちに月の大きさの真の観念が存在している場合でも,僕たちは月を知覚するpercipere,表象の種類の場合でいう知覚するとき,月を真の大きさより小さいものと知覚します。このことは目が不自由である場合には妥当しないかもしれませんが,そうでない限りにおいてはやはり異論はないものと思います。
 次に,この月の知覚perceptioは,月の大きさについての真の観念が,それを知覚する人間の精神mens humanaのうちにある場合でもない場合でも同じです。月の大きさについての真の観念がある人間の精神のうちにあるとしても,それはその人間の精神のうちに所与のものとしてあるのではありません。そうではなくてその人間が生きている過程において形成される観念です。したがって,月の大きさに関する真の観念が精神のうちに存在しないという状態を,すべての人間が経験します。これも異論のないところでしょう。
 その人間の精神のうちに,月の大きさの真の観念が形成されたからといって,月の知覚に変化が生じるわけではありません。むしろ真の観念がまだ存在していなかった時と同じように,その人間は月を知覚するのです。月の大きさに関する真の観念があろうとなかろうと,人間は同じように月の大きさを知覚するというのは,具体的にはこのようなことを意味していると理解してください。
 なぜこのようなことが起こってしまうかといえば,前者は月の本性essentiaあるいは月の本性に属する事柄を反映する観念であるのに対し,後者は月ないしは月光によって刺激されるaffici限りにおける僕たちの身体corpusの本性を反映する観念であるからです。他面からいえば後者は月の観念というより,このブログでいうところの身体の変状affectiones corporis,すなわち身体の刺激状態の観念であるからです。
 ここから理解できるように,月の大きさの真の観念は,月の大きさの誤った観念idea falsaを同じ精神のうちから排除することができません。
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アドマイヤムーン&月

2017-04-06 19:26:35 | 名馬
 先週の高松宮記念セイウンコウセイが優勝しました。父はアドマイヤムーンです。
 祖母がケイティーズファースト。2歳7月に函館でデビュー。本田優騎手の手綱で新馬を勝つと札幌のオープンも連勝。さらに札幌2歳ステークスも制して重賞ウイナーに。休養して出走した暮れのラジオたんぱ杯2歳ステークスは2着でした。
                                     
 3歳になると武豊騎手にスイッチ。共同通信杯で重賞2勝目を挙げると弥生賞も勝ちました。皐月賞は当然の1番人気でしたが4着。距離不安が囁かれ3番人気になったダービーは7着でした。
 夏の札幌記念で復帰して古馬を相手に重賞4勝目。距離適性から天皇賞(秋)に向かってダイワメジャーの3着。香港に遠征した香港カップが2着で3歳での競馬は終了。
 4歳初戦は京都記念でこれを勝って重賞5勝目。ドバイに遠征したドバイデューティフリーを見事な末脚で快勝して大レース制覇も達成しました。そのまま香港にわたってクイーンエリザベスⅡ世カップに出走するも後方から届かずの3着。このときのレースぶりが関係者の不評を買い,岩田騎手にスイッチされることになりました。
 岩田騎手での初戦となった宝塚記念を勝って大レース2勝目。この後,ドバイでの快勝が印象的であったためでしょう,ダーレージャパンファームに買われてオーナーが変更。その初戦となった天皇賞(秋)は不利もあって6着でしたが,続くジャパンカップは距離延長の課題を克服して優勝。大レース3勝目を手にして引退となりました。この年のJRA賞で年度代表馬に選出されています。
 2009年産が初産駒で,この世代からは4頭の重賞勝ち馬が出ました。ところがそれ以降の産駒は重賞制覇を果たせず,2013年産となるセイウンコウセイが久々の重賞勝ち馬世代になり,一気に大レースを優勝。アドマイヤムーンの父はエンドスウィープで,これはサウスヴィグラスと同じ。自身は中距離を中心に走りましたが,短距離を得意とする産駒が多いのはその影響でしょう。自身もそうですしサウスヴィグラスもそうだったように,エンドスウィープの仔はいいスピードをもっていても早熟傾向にはありません。その血を受け継ぐセイウンコウセイもまだ4歳ですから,長く活躍することができるのではないかと思われます。

 ペガサスは現実的に存在しません。したがって人間の精神mens humanaがペガサスを表象するimaginari場合には,表象の種類でいう想像に該当します。知覚や想起memoriaの場合にも同じように,たとえば知覚されるものを肯定ないしは否定する意志作用volitioがなければその表象像imagoがあることも考えることもできず,逆にその表象像はそれを肯定あるいは否定する意志作用なしにあることも考えることもできないとすれば,一般的に誤った観念とそれを肯定ないしは否定する意志作用は同一であることが帰結します。これを確認しておきましょう。
 ただし,知覚と想起に関しては,別個に検証する必要はありません。というのは,想起というのは,かつて知覚したものを想起するか,そうでなければかつて想像したものを想起するかのどちらかでしかあり得ないからです。すでに想像の場合は確かめられているのですから,あとは知覚の場合だけ考察すれば十分です。
 これについては月の表象像を例材とします。月が現実的に存在するということは疑い得ないので,人間の精神のうちにある月の観念ideaは,真の観念idea veraでもあり得るし誤った観念でもあり得るということが理由です。この理由というのはこの考察にあたってはとても大事です。知覚されるXの観念は,知覚される限りにおいては誤った観念ですが,Xの観念としてみた場合には,単に人間の精神と関連付けられる場合,すなわち現実的に存在するある人間の精神の本性を構成する限りでXの観念が神Deusのうちにあるとみられる場合にも,真の観念であるということが可能です。想像の場合にも,何が想像されるかということに注視すれば真の観念であることも可能ではあるのですが,例として示したペガサスの場合にはそれが不可能でした。よってここではそれと異なった関係にある月を観念の対象ideatumとして措定するということです。
 現実的に存在する人間の精神のうちにXの観念があるとみられるとき,そのXの観念が真の観念でもあり得るし誤った観念でもあり得るということは,第四部定理一を経験的に論証する際にまず有益です。Xの真の観念を有していても,Xを誤って認識することが現実的に存在する人間の精神のうちには発生するからです。
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東京中日スポーツ賞クラウンカップ&ペガサス

2017-04-05 20:45:17 | 地方競馬
 羽田盃トライアルの第20回クラウンカップ。パッショノンが感冒のため出走取消で13頭。
                                     
 まずバンドオンザランが先頭に立ちましたがローズジュレップが交わしてこの馬の逃げに。控えたバンドオンザランが2番手で3番手にサイバーエレキング。この後ろはかなりの差が開いてマルボルクシチーとマルヒロナッツオーが併走。単独の6番手にブルーマネー。前半は前にいたものの向正面で早くも後退し始めたナルカミをセイジーニアスが交わしていき,この後ろにラッキーモンキー。サヴァルジャンが続いて後方にキャッスルクラウンとセイファルコン。クラールハーモニーが最後尾。前半の800mは49秒6のハイペース。
 前の3頭からサイバーエレキングが脱落。3コーナーを回ると2番手と3番手以降は大きな差。バンドオンザランもコーナーでは手を動かして一杯一杯の追走。逃げたローズジュレップは直線でも後続を引き離していき7馬身差の圧勝。先行馬は総崩れとなり,早めに進出を開始したセイジーニアスが2着。外からキャッスルクラウンと並んで伸びてきたラッキーモンキーが2馬身差で3着。キャッスルクラウンがクビ差の4着。
 優勝したローズジュレップ兵庫ジュニアグランプリ以来の勝利で南関東重賞は初勝利。転入初戦となった前走は4着でしたがこれは落鉄があってのもので参考外。ここは57キロを背負っていましたがほかの馬とは能力の差が歴然としていて,まともならば負けられないレース。その実力を示す圧勝であったと思います。能力が高いのでクラシックでも軽視は禁物だと思いますが,距離が長くなるのは課題になる馬だという印象ももっています。祖母の半弟にタニノギムレット
 騎乗した金沢の吉原寛人騎手金盃以来の南関東重賞制覇。第16回以来4年ぶりのクラウンカップ2勝目。管理している浦和の小久保智調教師はクラウンカップ初勝利。

 スピノザが第二部定理四九備考でいっているのは,ある観念ideaが現実的に存在するある単独の人間の精神mens humanaに関連付けられる場合には,その観念が真の観念idea veraであろうと誤った観念であろうと,その観念と同一とみられる意志作用volitioがあるのでなければならないということです。このことを主張するためには,第二部定理四九証明は必ずしも十分だとはいえないことになるでしょう。
 スピノザはこのことを主張するためにペガサス,すなわち翼のある馬の観念を例示します。ペガサスは現実的には存在しませんから,その観念が人間の精神のうちにある場合には,第一部公理六により,真の観念であることはあり得ず,したがって誤った観念です。これは問題ないでしょう。
 翼がある馬を人間の精神が想像するとき,それは馬に対して翼を肯定する意志作用なしにあり得ないとスピノザはいいます。これはその通りであると僕は考えます。別のいい方をすると,人間は馬と翼とを別個に表象するimaginariことができますが,これら別個の観念を結合したのがペガサスの観念であると考えられ,これを結合するためにはその結合を肯定する意志作用が必要だと僕は考えるのです。説明の仕方は異なりますが,スピノザがいわんとしていることと僕がいっているところは,観念と意志作用の関係については何ら変わるところがないと僕は考えるのです。
 一方,馬に対して翼を肯定する意志作用,僕の説明の仕方でいえば馬と翼の結合を肯定するような意志作用というのは,実際に馬と翼が結合した存在,すなわち翼のある馬の観念なしにはあることも考えることもできません。この点に関しては異論を提出することはできないでしょう。
 こうしたことが翼のある馬の観念に限らず,人間の精神のうちに誤った観念があるといわれる場合の,すべての誤った観念について妥当するなら,一般に誤った観念もまた真の観念と同じように,それを肯定ないしは否定する意志作用なしにあることも考えることができず,逆に誤ったものを肯定する意志作用は肯定される誤った観念がなければあることも考えることができないということになります。つまり観念と意志作用は同一であることになります。
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第五部定理三九&人間の精神の場合

2017-04-04 19:10:48 | 哲学
 スピノザは第五部定理三九備考で,人間の身体corpusがきわめて多くのことに有能な物体corpusであるという主旨のことをいいました。その備考の直前にある第五部定理三九では,次のことが示されています。
                                     
 「きわめて多くのことに有能な身体を有する者は,その最大部分が永遠であるような精神を有する」。
 スピノザは第五部定理二三において,現実的に存在する人間の精神mens humanaの中には永遠なものがあるのであり,そのあるものaliquidはその人間の身体が破壊されても残存するといっていました。要するに現実的に存在する人間が死んでしまっても,精神の中にはそれと共には死なないものがあるのだといっているわけです。しかし,現実的に存在する人間の精神が破壊されるのは,現実的に存在するその人間の身体が破壊される場合に限定されます。したがってそれと共に破壊されずに残存するものは,もはや破壊されることがありません。よってそれは永遠aeterunusであることになります。つまり一定の持続duratioのうちにのみ存在する精神のうちに,永遠であるものも含まれているということになります。
 第五部定理二三は,現実的に存在する人間の精神に一般的に妥当する定理Propositioです。これに対して第五部定理三九は,それを個別の現実的に存在する人間の精神に該当させれば,個々の人間の精神によって相違があるということを示しているといえます。いい換えれば,現実的に存在する人間の精神のうちに含まれている,永遠であるあるものというのは,現実的に存在するすべての人間の精神において,等しく同じだけの部分を占めているというわけではないということです。そしてこの定理から理解できるように,もし現実的に存在しているその人間の身体が有能であればあるほど,その人間の精神のうちに含まれる永遠であるものの含まれる割合もそれだけ大きくなるのです。
 身体が有能である度合は個々の人間によって差があります。なので精神のうちの永遠な部分も個々の人間によって相違するのです。

 個々の観念ideaと個々の意志作用volitioが同一の思惟の様態cogitandi modiであることについて,第二部定理四九証明が示していることは,以下の二点に依拠します。
 第一に,第一部定理一五により,存在するものはすべて神のうちにありますQuicquid est, in Deo。したがってある観念もある意志作用も,神のうちにしか存在することはできません。
 第二に,第二部定理三二により,すべての観念は神に関係する限りでは真の観念ですomnes ideae, quatenus ad Deum referuntur, verae sunt。いい換えれば神のうちにあるのは真の観念だけであり,誤った観念は存在しません。
 この二点から理解できるように,もし個々の真の観念にはそれを肯定ないし否定する意志作用が含まれているのであり,真の観念はそういう意志作用なしにあることも考えることもできず,また逆に各々の意志作用はそれを正しく肯定あるいは否定する真の観念なしにあることも考えることもできないということが論証できるのなら,第二部定理四九は論証されたことになります。実際にスピノザの証明は,三角形の真の観念と,三角形に特有の特質proprietasを肯定する意志作用の関係を例示しています。だからこれはこれで正統な証明だといえるのです。
 しかし,人間の精神mens humanaの意志作用について探求しようという場合には,これでは不十分です。第二部定理一一系にあるように,確かに人間の精神は神の無限知性の一部Mentem humanam partem esse infiniti intellectus Deiではあるのですが,この系Corollariumの意味から明らかなように,人間の精神のうちには真の観念だけがあるのではなく,誤った観念もあるといわれなければならないからです。
 ある人間の精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りでXの観念が神のうちにあるといわれるとき,その人間の精神のうちにはXの誤った観念があります。このとき,神と関連させた場合にはXの観念は真の観念ですから,そのXの観念に固有の意志作用が必然的に含まれています。しかし,だからといってこのXの観念が単にこの人間の精神のうちに,誤った観念としてあるといわれる場合にも,それと同じように固有の意志作用が含まれているということにはなりません。同じ意志作用が含まれていたら,それは真の観念でなければならないのですからこのことは明白といえるでしょう。
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将棋大賞&ふたつの帰結

2017-04-03 19:35:26 | 将棋トピック
 3月31日に2016年度の将棋大賞が発表されました。
 最優秀棋士賞は佐藤天彦名人。名人奪取,叡王戦優勝。最優秀棋士賞は初めての受賞です。
                                     
 優秀棋士賞に羽生善治三冠。棋聖防衛,王位防衛,王座防衛。羽生三冠は最優秀棋士賞の常連で,優秀棋士賞は2006年度,2012年度,2013年度に続き3年ぶり4度目になります。
 敢闘賞は久保利明王将。王将挑戦,奪取,A級へ再昇級。2000年度と2008年度に受賞があり,8年ぶり3度目の受賞。
 新人賞は矢代弥六段。朝日杯将棋オープン優勝。将棋大賞初受賞です。
 最多対局賞は千田翔太六段と佐々木勇気五段で65局。
 最多勝利賞は千田翔太六段で48勝。
 勝率1位賞は斎藤慎太郎七段と青嶋未来五段が.750で分け合いました。斎藤七段はこの部門で2015年度に続く連続受賞です。
 連勝賞は豊島将之八段と青嶋未来五段の12連勝。青嶋五段は12連勝を2度達成しています。
 最優秀女流棋士賞は里見香奈女流名人。女流王位防衛,女流王座挑戦,奪取,女流王将防衛,倉敷藤花防衛,女流名人防衛2009年度,2010年度,2011年度,2012年度,2013年度,2015年度に続き2年連続7回目の受賞。
 女流棋士賞は上田初美女流三段。女流名人挑戦,マイナビ女子オープン挑戦。2012年度以来4年ぶり2度目の受賞。
 女流最多対局賞は室谷由紀女流二段の40局。2年連続2度目の受賞。
 升田幸三賞は千田翔太六段。
 名局賞はA級順位戦8回戦の佐藤康光九段と深浦康市九段の一戦。AbemaTVの将棋チャンネル開局当日に生中継されたA級順位戦一斉対局4局のうち一局。僕も観戦していましたがあまりにも面白くて終局の1時17分まで視聴してしまいました。深浦九段は2007年度と2010年度に受賞していて3度目,佐藤九段は2009年度に受賞があり2度目の受賞となります。
 名局賞の特別賞は女流名人戦第五局。
 近いうちに現役引退となるであろう加藤一二三九段が特別賞と升田幸三賞の特別賞をダブル受賞しています。

 第二部定理四九証明の内容から,ふたつのことが理解できます。
 ひとつは,観念ideaが存在するとき,その観念の内容を肯定したり否定したりする思惟作用が同時に存在するのですが,そうした思惟作用をスピノザは意志作用volitioというということです。つまりスピノザの哲学でいう意志voluntasとは,精神mensをして何かを希求させたり忌避させたりするような決意のことをいうのではありません。観念が観念である限りにおいて必然的に含んでいなければならないような,何事かを肯定しまた否定する力potentiaのことが意志といわれるのです。
 このような思惟の様態cogitandi modiのことを意志というのは不自然と思われるかもしれませんが,僕は必ずしもそうは思わないです。たとえば本を読むという観念を肯定することと本を読むことを希求することは同じことですし,逆に本を読むという観念を否定することと本を読むことを忌避するということは同じことだと考えるからです。ただ一般にはそうした決意が行動の原因であると思われているのに対して,スピノザはそうした決意は観念そのものを異なった観点から把握したものであり,したがって決意と行動の間には因果関係は存在しないといっているだけなのです。つまり意志という思惟の様態を,それ以外の事柄との因果関係を捨象してそれだけでみるなら,その様態が有している力というのは,一般的にそうみられている力と何ら変わるところはないといえます。
 もうひとつ,個々の観念と個々の意志作用が同一の思惟の様態を異なった観点から把握しただけにすぎないのであれば,一般的に知性intellectusと意志もまた同一であるいうことが帰結します。よってスピノザは第二部定理四九系としてこのことを示しているのです。これはその証明Demonstratioにもあるように,知性というのが個々の観念の集積であり,意志というのが個々の意志作用の集積であるということから明白だといえるでしょう。したがって,人間の精神mens humanaが自動機械automa spiritualeであるということと,知性と意志が同一であるということは,個別の事柄を示しているようでいながら,何ら関係を有していないというわけではないことになります。
 この証明のうちにはもう少し検証を要することも含まれます。
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大阪杯&第二部定理四九証明

2017-04-02 19:19:50 | 中央競馬
 第61回大阪杯
 逃げて結果を出していたマルターズアポジーがここも先手。向正面では5馬身程度の差をつける大逃げになりました。単独の2番手にロードヴァンドール。この後ろはまた差が開いてキタサンブラックとサクラアンプルールが併走。1馬身半ほどでステファノスとサトノクラウン。また1馬身半ほどでスズカデヴィアスとモンドインテロとディサイファの3頭。1馬身ほどでヤマカツエースが追走という隊列。前半の1000mは59秒6のスローペース。
 直線に入るところで隊列は短くなっていましたが,マルターズアポジーはまだ先頭。しかし徐々に追い上げていたキタサンブラックが交わして先頭に立つとそのまま後続の追い上げを凌いで優勝。勝ち馬マークのようなレースになったステファノスが4分の3馬身差で2着。3コーナーを回ってから馬群の中を進出し,直線では前にいたサトノクラウンの外に出して差し込んできたヤマカツエースが半馬身差で3着。
 優勝したキタサンブラックジャパンカップ以来の勝利で大レース4勝目。逃げても競馬をする馬で,ここは2頭が前に行くことが予想されたので,それを負かしにいくような競馬になった場合には差し込まれる危険性があるかもしれないと思っていました。ただ,ライバルは末脚を生かしたいというタイプの馬が多く,逃げ馬を除けば超スローペースの競馬を自身のリズムで進出するという展開になったため,マークされた2着馬に対しても着差以上の楽勝という印象に映りました。精神面が安定しているので長距離でも走っていますが,自身の本質はこのくらいの距離の適性が高いのでしょう。先行できるのは大きな強みであり,今年も活躍が期待できると思います。父は2004年のスプリングステークスを勝ったブラックタイド。母の父はサクラバクシンオー
                                     
 騎乗した武豊騎手はジャパンカップ以来の大レース制覇。第32回,34回,37回,41回,42回,58回と勝っていて3年ぶりの大阪杯7勝目。管理している清水久詞調教師もジャパンカップ以来の大レース制覇。大阪杯は初勝利。

 観念ideaという思惟の様態cogitandi modiは,異なった観点からみるなら意志voluntasという思惟の様態であるということの具体的な意味は,第二部定理四九の証明Demonstratioの中に示されています。何度か援用したことがありますが,意志という思惟の様態を解するにあたって重要な部分ですから,改めて考察しておきましょう。
 スピノザはここでは,三角形の観念と内角の和を二直角であると肯定する思惟作用volitio,この思惟作用が意志といわれるのですが,その意志を例示します。厄介な問題が起こるのを避けるために,各々の図形は平面上にあると考えてください。
 三角形の真の観念idea veraがある知性intellectusのうちにあるとき,この知性は同時に,その三角形の内角の和が二直角であることを肯定します。いい換えればその肯定がないなら,その観念は三角形の真の観念ではなく誤った観念であることになります。したがって三角形の真の観念はその内角の和が二直角であることを肯定する意志なしにはあることができません。
 次に,何らかの図形に対して,内角の和が二直角であることを肯定する意志がある知性のうちにあるとします。このように肯定される図形は三角形でなければなりません。これは図形としては三角形だけが有する特質proprietasであるからです。よって,この意志作用が知性のうちにあるとき,三角形の真の観念がその精神のうちに存在しないのであれば,それは誤った観念であることになります。ことばの上では四角形の内角の和は二直角であるとか,内角の和が二直角である図形は四角形であるということはできますが,そのことばがある知性の状態を正しく説明しているのであれば,その知性は単に四角形の誤った観念を有しているにすぎません。ことばと観念は異なるということは,こうした場合にも注意を要することになります。
 したがって,内角の和が二直角であるということをある図形に対して正しく肯定する意志というのは,三角形の真の観念がなければあることはできません。よって観念というのは意志がなければあることも考えることもできず,意志も観念がなければあることも考えることもできないことになります。こうした関係がすべての観念と意志の間に成立するからです。
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棋王戦&第二部公理三の意味

2017-04-01 19:20:21 | 将棋
 3月27日に指された第42期棋王戦五番勝負第五局。
 振駒渡辺明棋王の先手。矢倉模様から千田翔太六段が趣向を凝らした駒組をし,力戦風の相居飛車戦になりました。
                                     
 後手が☖5九角と打ったのに対して先手が角を打って桂馬を受けた局面。後手は☖3四歩と催促しました。ここから☗4四銀☖同銀☗同角までは一直線。後手は☖3三金と角に当てて受けました。
 先手は当初は角を引く予定だったようですが,それでは拙いと気付きました。後手としても先手が角を引けるなら☖3四歩と打ったりはしないでしょうから双方の読み筋がここでは一致したのだと思います。
 ☗3三同角成☖同桂☗4八銀は予定変更ですが,最善の進行を選択できました。
                                     
 ここで☖8六角成が指したかった手であったそうですが,無理とみて断念。ほかに☖同角成と取って☗同飛にまた☖5九角と打つ順もあり得たようには思えます。
 実戦は☖8六歩と突きました。これを☗同歩だと☖同角成もあるでしょうし☖4八角成~☖5九角もあるかもしれません。ですから☗5九銀と角を取り☖8七歩成☗同金☖8六歩☗同金☖同飛☗8七歩と一直線の進行になりました。ここで☖7九銀と打てなければいけないのですがやはり無理と判断して☖8一飛と引くことに。
                                     
 この局面で飛車を逃げているのでははっきりと苦しいでしょう。この後,少しだけ危ないところもあったようですが先手が押し切っています。
                                       
 3勝2敗で渡辺棋王が防衛第38期,39期,40期,41期に続く五連覇で5期目の棋王。同時に永世棋王の称号も獲得しました。

 僕自身の解し方についていえば,観念ideaと意志voluntasの関係は,事物とその事物の本性essentiaの関係に類比的とみるより,本性と実在性realitasの関係と類比的であるとみる方が的確であると思っています。ただ,どちらの場合であれ,一方がなければ他方が,他方がなければ一方が,あることも考えるconcipereこともできないという関係にあるという点は同じです。そして今は,スピノザの哲学における意志というのがどのような思惟の様態cogitandi modiであるかということを示すことが目的です。ですから観念と意志の関係をどう類比的に解するべきであるのかということの僕自身の見解を改めて説明し直すことはここではしません。
 観念と意志が,一方がなければ他方が,他方がなければ一方が,あることも考えることもできない思惟の様態であるということを示しているのが第二部定理四九です。したがって,第二部公理三は,思惟の様態のうち第一のものは観念であるといっているのですが,その観念は意志なしにはあることも考えることもできない思惟の様態なのです。よって見方を変えれば,意志もまた思惟の様態のうち第一のものでなければなりません。他面からいえば,意志とは,観念という思惟の様態を,それを観念とみなすのとは別の観点からみた場合の思惟の様態であることになります。スピノザはこの公理Axiomaでは,感情affectusと観念とを比較した上で,感情は観念がなくては存在することができないけれども,観念はほかの思惟の様態がなくても存在することができるといういい方をしています。確かに観念は思惟の様態としての感情が存在しなくても存在することができる思惟の様態です。つまりこのように解する限り,この公理は誤ったことを示しているわけではありません。しかし一方で,観念は意志がなければあることも考えることもできないのだとスピノザはいっているのですから,厳密な意味でいうなら,観念はほかの思惟の様態が存在しなくても存在し得るというのは誤りだといわなければなりません。ただし,意志もまた観念がなければあることも考えることもできないのですから,思惟の様態のうち第一のものは観念であり,観念が存在するなら同時に意志も存在すると解するのがよいでしょう。
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