人間社会というものは、何らかの組織的ヒエラルキーによる統一的行動というものは必要ではある。
しかし、どのような組織に属するか、或は組織において誰をリーダーと認めるか。その自律的判断というものは必要不可欠なものである。
論語におけるリーダー論というものは理想である。しかし、その理想というものを多くの人は忘れ、現状の権力者への無為な服従によって、理想的リーダーの喪失を招いているのである。
リーダーとしての資質を多くの人が鑑みずに現状体制への迎合による無為無策な体制維持へ結果的加担こそが年功序列封建社会に陥る原因になるのである。
リーダーの資質として人格を重要視するのは理想である。ところが、大衆凡民の多くは目先の権力者、或は傲慢な人間に簡単に服従信頼をしてしまう性質がある。
チンパンジーの群れであれば個体の生存のためには統一的な服従対象を選択することなどできず。単なる結果的なリーダーに服従する以外に選択の余地はない。
生物的な社会形成習性に則れば、目先の結果的リーダーに服従しておくことこそが生存価に適することになる。無論そこに公益倫理も自律判断も存在しない。
ヒトという種の生物は、その習性として傲慢で身勝手な者であっても多数が服従している相手には逆らいたくないのである。その方が、その場は気分的に楽だからである。
だから食肉偽装とかリコール隠しみたいな事件の発覚が遅れるのである。
「仁。」徳としての人間性を、多くのヒトはリーダーとしての資質として「選択。」していないのである。たとえどんなにリーダーとしての資質を具えた優れた人格者がいたとしても、それに従うことを「選択。」する人がいなければ、適性を持ったリーダーは生まれない。
傲慢で私利私欲にまみれたDqnな人物であっても、従順に服従して「社会。」を形成する集団というのは後を絶たない。
多くのヒトは、無意識的に集団のリーダーだけに責任があるものだと思い込む性質があるが。どうにもくだらない人間に服従して忠誠忠実に命令に従う多数の協力者こそが、どうにもくだらない集団「社会。」というものを作り出してしまうのである。
こうした習性こそが個人の自律的判断を鈍らせ、社会を崩壊へと導く原因なのである。
論語も福沢諭吉も、ピーター・ドラッカーも。個人の自律の重要性を説いている。それでも多くの「ヒト。」達は簡単に自律というものを忘れて現状に迎合してしまうことに陥る傾向というものがある。
多くのヒトが陥っていることであれば、多くのヒトは安心して陥ることに何ら疑問すら持とうとはしない。
気分的に安心であれば、多くのヒトは危険性を鑑みることはしない。動物的にはそういうものであるからだ。
それは、すなはち個人が個人であることの論理的価値も存在しないということでもある。
すなはち、サルが他の個体と交換可能な動物であるのと同様、ヒトが他の個体と交換可能な動物でしかないということである。
ヒトという種の生物が、人間としての資質を持つことが可能性とは、そこに本質的合理性に基づく自律思考が存在するかどうかである。
しかし、どのような組織に属するか、或は組織において誰をリーダーと認めるか。その自律的判断というものは必要不可欠なものである。
論語におけるリーダー論というものは理想である。しかし、その理想というものを多くの人は忘れ、現状の権力者への無為な服従によって、理想的リーダーの喪失を招いているのである。
リーダーとしての資質を多くの人が鑑みずに現状体制への迎合による無為無策な体制維持へ結果的加担こそが年功序列封建社会に陥る原因になるのである。
リーダーの資質として人格を重要視するのは理想である。ところが、大衆凡民の多くは目先の権力者、或は傲慢な人間に簡単に服従信頼をしてしまう性質がある。
チンパンジーの群れであれば個体の生存のためには統一的な服従対象を選択することなどできず。単なる結果的なリーダーに服従する以外に選択の余地はない。
生物的な社会形成習性に則れば、目先の結果的リーダーに服従しておくことこそが生存価に適することになる。無論そこに公益倫理も自律判断も存在しない。
ヒトという種の生物は、その習性として傲慢で身勝手な者であっても多数が服従している相手には逆らいたくないのである。その方が、その場は気分的に楽だからである。
だから食肉偽装とかリコール隠しみたいな事件の発覚が遅れるのである。
「仁。」徳としての人間性を、多くのヒトはリーダーとしての資質として「選択。」していないのである。たとえどんなにリーダーとしての資質を具えた優れた人格者がいたとしても、それに従うことを「選択。」する人がいなければ、適性を持ったリーダーは生まれない。
傲慢で私利私欲にまみれたDqnな人物であっても、従順に服従して「社会。」を形成する集団というのは後を絶たない。
多くのヒトは、無意識的に集団のリーダーだけに責任があるものだと思い込む性質があるが。どうにもくだらない人間に服従して忠誠忠実に命令に従う多数の協力者こそが、どうにもくだらない集団「社会。」というものを作り出してしまうのである。
こうした習性こそが個人の自律的判断を鈍らせ、社会を崩壊へと導く原因なのである。
論語も福沢諭吉も、ピーター・ドラッカーも。個人の自律の重要性を説いている。それでも多くの「ヒト。」達は簡単に自律というものを忘れて現状に迎合してしまうことに陥る傾向というものがある。
多くのヒトが陥っていることであれば、多くのヒトは安心して陥ることに何ら疑問すら持とうとはしない。
気分的に安心であれば、多くのヒトは危険性を鑑みることはしない。動物的にはそういうものであるからだ。
それは、すなはち個人が個人であることの論理的価値も存在しないということでもある。
すなはち、サルが他の個体と交換可能な動物であるのと同様、ヒトが他の個体と交換可能な動物でしかないということである。
ヒトという種の生物が、人間としての資質を持つことが可能性とは、そこに本質的合理性に基づく自律思考が存在するかどうかである。