書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

残念。

2011年07月30日 13時29分15秒 | 日記
 イオンの店舗検索が残念なことに。




 東芝LEDレグザだとアナログ放送も見ることができました。ニュースによればアナログ放送終了から3万件の問い合わせがあったそうです。

 見られない人がいたら、とにかく総務省に電話をって、地デジが見られないならこのブログだって見られないだろうね。ううむ。



 gooブログの編集ページにノートンのクソゲーエントリーが掲載されていたので入ろうとしたら2分くらい待たされたのでESCした。




 YouTubeを開くと、YouTubeの方で接続しているおいらのAndroidPCをスマートフォンだと勝手に認識して「モバイルでは再生できません。」とか言ってくる。

 実際にはPCページに切り換えれば見れる。だからこれは特に残念ではない。

大河津分水路。

2011年07月30日 12時44分45秒 | 日記



 大河津分水路ってのがあるのに、その下流の燕三条で洪水が起こっているのね。ややこしいわー。

 でもgoo地図をブログに貼付けるのって、何か直感的じゃないのよね。本当は一つ前の記事に貼りたかった。Orz...。



望遠レンズの三脚座。

2011年07月30日 11時35分41秒 | 日記
 昔、それこそCanonがNew-FDレンズとか作ってた頃に三脚座付属の望遠レンズを使ったことがある。

 んで、三脚座を開いてレンズを取り付けようとするときに、三脚座がパタンと閉まってレンズの鏡筒を直撃して傷になったことがある。

 今の三脚座はどうなのか知らないけど、当時は亜鉛合金ダイキャストだったので結構な重さがあって、衝突の衝撃が結構あった。

 でも、たとえマグネシウムで出来ていてもぶつければ傷になりそう。

 三脚座のヒンジ(ちょうつがい)に弱いスプリングとか組み込んで、勝手に閉まらないようになっているといいと思う。

 既になってるのかな。あ、お店のサンプル触ればわかるのか。でも最近はあんまり長いレンズを使わなくなったので縁がないかな。

湿度計。

2011年07月30日 10時55分06秒 | 日記
 アナログの湿度計って、すぐにダメになっちゃう。

 だから電子式の湿度計って製品化すればいいなって思ってたのね。秋葉原の部品屋さんとかで¥3000ーくらいでキットは売っている。

 そしたら近所のお店で電波時計に温度計と湿度計がついて¥970ー(税込み)で売っていました。

 これ良いなーって思ったんですけど、電波時計は既に持っているので、これを買うってことは湿度計を¥970ーで買うことになっちゃう。

 温度計に関してはアナログでも壊れたりしないので、湿度計だけが壊れるのです。

 湿度計って何でアナログ式が異常に普及しているんだろう。電波時計にオマケで付けられるくらなら、テレビに付いていてもいいじゃんかとか思っちゃう。

 温度計に関してはテレビはふんわり温まっているのでダメそうだけど。

 デジタル湿度計って壊れないのかな。アナログ式よかはもつと思うんだけどね。

 スマートフォンのmini-B端子に挿す温度湿度計って作れないかな。




 
 ニュースで洪水で避難していた人が「プロパンガスは浮いちゃって。」みたいなことを言っていた。

 プロパンガスのボンベって水に浮いちゃうんですね。

 んで、ホースが抜けたり、ちぎれたりして大惨事になっちゃう。

 ボンベのバルブに流量で働く安全バルブが内蔵されていると安全なのかな。


とてもうまくできている。

2011年07月30日 00時36分08秒 | 意識論関連
 脳に限らず、生物というものは非常に高度な機能を持っている。だがそれは、高度な機能を持つことのできなかった種が淘汰された「結果として獲得してしまったもの」であって。そこに意図的、或は「意識的な選択による獲得」は介在していない。

 生物学者というのは論理的な思考が苦手な奴が大変多いので、淘汰の結果と意識的選択の違いを理解することができないバカが異常に多い。

 生物が「とてもうまくできている。」のは、うまくできていなかった種が生存に適していなかったという結果として「とてもうまくできている。」のである。

 どうも生物学者の多くに見られる「文系」の者の思考パタンとして、「自分は生物として優秀であるから、生存するに価するはずだ。」的な自己の事後正当化をこじつけることで気分的な安心を得ようとする習性が見られる。

 生物として優秀であることと、人間としての価値とは全く別のものである。通り魔がどんなに生物として優秀であることを立証しても、それは「ヒト」としての価値、生物学上での価値しか存在しないのである。



 ネズミの行動にそううつ状態がみられるとしても構わないであろう。ネズミは自己の大脳辺縁系が作り出す感情以外に行動を選択することは不可能であるからだ。

 認知行動療法によって「ヒト」では鬱状態を克服可能であるのは、自己の感情に由来する気分的な落ち込みが、単なる錯覚に過ぎないことを自己自身で認識することが可能であるからに他ならない。

 ネズミにそんな芸当は不可能である。従ってネズミ用のそううつ薬を開発しても、それがヒトの人格自体に影響を及ぼすことにはならない。たとえ行動が「正常」になったとしても、それは平均的な行動としての「普通」になっただけであり、その「普通」というのはアイヒマン実験において「普通」に他人に危害を及ぼす行動をとるヒトであることに何ら変わりはないからである。そんな「普通」に意味などない。

 気分が行動に影響を及ぼすことにおいて、ネズミと同等というのはトンデモない話である。それが正当化されるのであれば、通り魔の屁理屈である「ムシャクシャしたから。」などという気分=行動が正当化されることになるのである。

 ペリカンが、ヒトからエサをうまく貰えなかったことに「ムシャクシャ」して、傍にいたハトを飲み込んだりする。感情というのはこうした猟奇性を常にはらんでいる。

 こうした猟奇性というものは、単なる生物学上での「高等」さとは無関係であり、チンパンジーであっても他の群れの子供を噛み殺したりするものである。

 これは、たとえ「ヒト」であっても同じことが言える。

 同じ種の「ヒト」でありながら、感情=行動という短絡的行動原理に忠実に従ってしまうことこそが、本当の「頭の悪さ。」に他ならないのである。

 従って、従来の生物学のパラダイムを温存したまま「人間とは何か。」を論ずることは構造原理的に不可能であり。また不毛なのである。

 生物学者のほとんど全員が不毛なパラダイムを捨てられないのは、前述したような自己の存在の事後正当化が根源にあるからであり。その原因は「気分。」の問題、すなはち大脳辺縁系の問題なのである。

 「ヒト」という種の生物が、従来の生物学において「生存に価しない。」としても。そんなものに意味など最初から存在しないのである。

 先天的疾患によって子孫すら遺すことが不可能な人がいるとしても、それは生物学上では存在価値がないのかも知れないが。尊厳としての人の価値が存在しないことにはならないのである。

 先程も述べたが、どんなに生物として「健康。」な「ヒト」であっても、人間として出来損ないな通り魔には存在価値などないのである。


 なぜ、こんな下らないことが生物学者のほとんど全員には理解できないのか。それこそが本当の「謎」なのである。

 自分達の頭の悪さの原因は、頭の悪い当人達には理解できないであろう。それなら「バカがバカ足りうる所以。」には永遠に言及できないのである。

 「脳科学者」などという肩書がついていると、あたかも高尚な科学者のような錯覚を抱いてしまうヒトは多いであろう。だが、実際には従来の生物学のパラダイムの間違いすら気付くことのできない単なるバカに過ぎない。

 単に「脳についての科学的な研究に従事している。」というだけであるならば、その研究内容自体がどんなに無意味であっても「脳科学者」なのである。

 それは奈良林直が「原子力研究者」であることと同じで、学会全体がオカルト状態ならば、むしろマトモな研究者ほど排除されるものなのである。


 そういえば、原子力保安院が電力会社にヤラセを求めたというニュースがあった。

 これは明らかに「犯罪」である。一体誰の頭がおかしいのかを公に明らかにすべきである。このままでは北朝鮮と何ら違いがないではないか。このまま自国を尊ぶことなど絶対にできない。愛国心というものは、愛するに値する国であれば自然と育まれるものであり。石原慎太郎から強制されて植え付けられるようなものではないのである。

 誰が「非国民」であるのかを明らかにしなくてはならない。無益に研究費を浪費しているバカ学者達も含めて。絶対にうやむやにしてはならない重大問題であること認識すべきである。