書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

被災写真。

2011年10月18日 23時28分47秒 | ネタ帳
 被災地での写真検索システムをリコーが作ったらしいんだけど、被災者の多くがPCの操作に馴れていないので縦スクロールだけで見られるようにしたらしい。

 やっぱり普通のPCっていうのはとっつきにくい。とにかくキーの数が異常。

 単純にタブレットPCで閲覧させればいいのではないか。ソフトバンクがマシンと通信システムを提供すればいいんでないのかね。



 え?。大江麻里子がトレたま?。違った、白石小百合さんでした。大江麻里子さんに似てる。

 トレたまは採血をしなくても血液検査ができる装置の紹介。そのうち医師や看護師がいない簡易健康診断とかできるようになるかな。(どんだけ人嫌いなんだ。)



 そういえば、草刈り機の回転刃に櫛状のカバーを着けたら草が逃げたり、足に当たっても切れなかったりして良いのではないかとおもた。


 世田谷の瓶入りラジウムだけど、3.11の震災で家ごと倒壊しなくてよかた。解体にユンボとかで引っかき回したりしたらと思うと背筋が寒い。(゜Д゜;)


End;
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初めから壊れている。

2011年10月18日 17時03分51秒 | 意識論関連
 ニーチェの言っていることっていうのは、とにかく「~ではないのか。」「~かもしれない。」「~らしい。」っていうあやふやな予測予言が多すぎる。

 論理的根拠に基づいた証明とか、普遍「的」に見られる傾向性とか、そういうものに基づいて論証しておらず、ただひたすら抽象的な憶測を並べて格言風味を装っているだけである。

 にも関わらず多くの西洋哲学かぶれ達は「なるほど」だとか「鋭い」だとか形容する。ちっとも鋭くないし、具体性がないので糞の役にも立たない話でしかない。要するにわかったような気分に陥って気分的に満足しているだけであって、批判精神も論理的検証性も何にもないのである。

 もっとも顕著なのが「できそうにないことを自分に要求するな。」っていう話。

 できそうかどうかっていうのは、主観的な予測、気分によって左右されうる基準であって。気分的にできそうにないことを権威者に「やめとけ」って言われて安心して諦めることで満足したいだけなんですね。

 一方で「自分を度外視することも必要。」だとか言い出す。

 これらは読み手が自分の気分に応じて勝手な解釈をすることによって、その場限りに気分的満足を得ることで「元気が出る。」とか「勇気がわく。」だけのことでしかない。気分とは大脳辺縁系の反射的反応に過ぎず、それ自体は本質的には自己選択ですらないのである。

 基本的に勝ち負けという結果論だけを基準にした権力欲至上主義に基づいた、社会的成功だけが「目的」であり。ニーチェには本質的自己意思とか自律選択っていうものへの言及が全くない。

 ニーチェ読んで喜んでいる時点で、かなりイタいことを認識すべきである。できないんだろうな、100万部超っていう多数派同調バイアスが強力に働いているからね。それがかつてのドイツでは虐殺炎上という悲劇を引き起こしたことは意識から外して。

 結局哲学者と呼ばれる学者のほとんど全員は、精神の救済だとか言って、気分的に救われること、大脳辺縁系が楽になることにしか興味はない。

 最初から「考え」たくない人達なんですね。

 だから思考停止して満足するための屁理屈ばっかり探している。「文系」の奴っておしなべてそう。哲学っていうのは文系に属するもんだから論理的検証とか誰もしないので簡単に体制腐敗を招くんだろう。

 マスコミもね。



生きることはなんのことか、 生きるとは、 死にかけているようなものを、絶えず自分から突き放していくことである フリードリヒ・ニーチェ ドイツの哲学者・古典文献学者
由佳 2010年10月2日 かっこいい
銘無き石碑 2010年11月28日 ニーチェの言葉の刄は、鋭く人の心の奥底をえぐり、生き方を考えさせられる。


 「かっこいい」っていうのは外見上の雰囲気しか述べていない。「生き方を考えさせられる。」だとか言っても実際には何ら善い影響など全く及ぼすことはない。なぜなら具体的な内容が全くないカッコつけでしかないからだ。考えたような錯覚に陥って満足しているに過ぎない。少しでも「考え」が伴えば意味がないことに気付くはずである。その場限りに感慨にふけって、それで考えたつもりに陥って「あぁ、自分は何て思慮深いのだろう。」と勝手に思い込んでいるだけの変態西洋かぶれに過ぎない。文系の者というのはこんな奴ばっかりである。

あなたがたは、父と祖父の国を追われた者でなければならない。 あなたがたは、あなたがたの子供たちの国を愛さなくてはならない。

 何で「追われた者でなければならない。」のか意味不明。なぜ国を愛さなければならないのか、論理的根拠が全くない。

善悪において一個の創造者となろうとする者は、まず破壊者でなければならない。そして、いっさいの価値を粉砕せねばならない

 見境なく破壊していれば単なるテロリストに過ぎない。

いっそ、あなたの悪魔を育てて大きくしたほうがいい!

 短絡思考の典型である。「いっそ。」って何が基準なのか。

蝿どもはすこしも悪意なく、あなたの血を欲しがっているのだ。 かれらの血のない魂が血を渇望しているのだ。 だから、かれらが刺すのも、まったく罪はない。

 本能こそが正しいというニーチェ特有の勝手な観念に基づく御託宣である。欲望によって導かれた行動の全ては正当化されるかのような解釈を可能とする危険思想である。

悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪に勝るものではない。

 こんなものは程度問題であって、別に悪人の害悪が問題にならないわけでもない。そもそも悪意を持っていたら善人ですらない。結局何の意味も最初からないのである。こんな稚拙な内容で酔っている時点で、かなりイタいのである。



 養老孟司とかもそうだけど、社会的成功とか社会的認知が得られなければ、いないも同然という、多数他人からの評価だけが自己存在価値の全てという基準自体が、そもそも本質的自己の欠落を示すのであり。本質的自主性、自発性の欠落の現れである。

 他人ありきの自己でしかないのであれば、それこそ他人任せという環境依存的な存在価値観であり。本質的自己はそこには存在しないのである。

 バカ学生であれば「だって、他人から認められないとやる気がおきないじゃないですか。」などと酒の席で「本音」を漏らすのである。

 この場合の「本音」とは、気分の問題であり。短絡的な感情論に過ぎない。


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