書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ダウンタウン。

2011年10月23日 23時31分16秒 | 日記
 ダウンタウンって時折怒鳴り散らすコントみたいのをやりたがるんだけど。これがまたダダスベリ。

 何かツボを間違えている感じ。

 笑いに限らずこうしたエンターテイメントでは緩急が必要なんだけど、ふざけた話を必死になるか、或は真面目な話をゆるーくやるか。どちらか一方でないとグダグダになる。

 「ガキの使い」は何をしたいのかわからん。

 一本グランプリでも松本の解答はイマイチだったな。壁か。松本は壁に突き当たっているのか。子供が出来て「普通」になったのか。「大人」になったのか。「常識」的な常識人になったのかも知れない。

 本当のモンスターっていうのを知らないのかも。不条理性を追求しないとシュールコントっていうのは成立しません。

 いままで天性の不条理思考という才能任せにしておけば良かったんだろうけど、これからは理詰めで組み立ててゆかないとダメかもね。
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挨拶の価値。

2011年10月23日 15時30分10秒 | 意識論関連
 無思考な大衆観念として、やたらと挨拶を徹底したがる傾向というものがあるが。これは実質を伴うものではない。

 連続殺人犯の多くは挨拶だけはキチンとできるものであり。子供でも大人の前だけ元気にハツラツとした挨拶をすることで「良い子」を演じる奴も少なくない。

 挨拶をするなとは言わないが、挨拶に異常なまでに執着することには全く意味がないのである。

 個人の性格として、他人との表面的「コミュニケーション能力」が欠けている場合。こうした動物的に相手の大脳辺縁系を安心させることに固執すること自体これは本能的な「習性」に過ぎず、正直どうでも良い話なのである。

 重要なのは挨拶などの表面的、外見的な安心感ではなく。個人の自律的な善悪の選択が重要なのであり。これは外見とは全く無関係である。「安心」という気分の問題ではなく、「安全」という実質を無視するべきではない。

 大脳辺縁系の活動が先天的に活発で、挨拶が苦手であることに観念的な「不安」を抱く者も多いかも知れないが。むしろ観念的「安心」ばかりに意識が働いていることの方が「安全」性をおろそかにする危険性を招くのである。

 もしかすると挨拶に固執する人の方が振り込め詐欺にひっかかりやすいとか、そういった傾向性もあるかもしれない。詐欺被害者の個人情報は一般には公開されないものなので私には検証のしようもない仮説ではある。

 それはさておき、個人が自律的に公益倫理的な判断をするかどうかは、最終的には個人の個人的な存在価値に依存するものである。

 粘土細工であろうと、ケーキ作りであろうと。それが多数他人からの評価報酬に関わらず、純粋に個人的に価値を持っていることによって、初めて自律的に自己と自己が存在する社会の公益性にも意識が働くようになるのである。

 しかし、多数他人からの評価報酬にしか自己存在の価値を求められない者であるならば、多数他人という自分が置かれている社会環境に依存した行動選択判断以外は原理的にされることはないのである。

 純粋に個人的価値観に基づいた純粋行為というものには、多数他人からの評価報酬には左右されない自律判断というものが養われる芽となる。

 「他山の石。」の例え話とは、一見社会的には無駄な行為であるとしても、個人にとっては徳を積むことにつながる重要なものであることを意味する。おいらが聞いた話ではそういう解釈をされていた。間違っていたらゴメン。

 とにかく、純粋に個人的価値観を持った行動というものには多数他人からの評価報酬という不純な動機が含まれないということは確かなのである。また、純粋であるがゆえに固定観念もなく他人とは全く異なる新しいものを作り出すことにもつながるのである。

 田中耕一が実験バカであったからこそ、それまで誰もが不可能であると「思い込んでいた。」ことを成し遂げたと言えるのである。事実、多くの研究者は社会的功績が動機であったために、勝手に不可能だと決め付けることしかできなかったのである。

 別に社会的に役に立つ発見や発明に結びつかなくても構わない。重要なのは個人が自律的に行動判断を行うための素養として純粋行為は必要不可欠なものなのである。

 小柴昌俊が純粋行為を勧めるのは、別にノーベル賞が取れるからではなくて、個人の人徳の素地として純粋行為は必要であるからなのである。だから別に科学者だけに言えるような話ではなく、普遍的に全ての「人」に必要なものであるからこそ、判で押したように同じことを繰り返すのである。

 残念なのは小柴の爺さんは大衆にウケの悪い話には言及しないので、おいらの話を薦めたりは一切しないであろう大衆迎合性である。

 「了見」とは、「分別」のことであり。論理的思考によって公益倫理判断を行えるという人徳を意味するものである。カントの純粋理性批判を鵜呑みにして、理性こそが絶対悪であると勝手に思い込んでいれば愚鈍な者には快楽を与えるのであろうが、カントの純粋理性批判には、そもそも論理整合性がなく、理論ですらないのである。

 カントが意図した批判というのは、実際には特定の利己的欲望に染まった理性的判断を批判しているのであり。理性自体の批判にはなっていないのである。そもそも生物学における「結果」と「目的」が明確に区別できていない考えに基づいて書かれた話であり。生存価絶対という観念こそが根本的に間違いなのである。

 振り込め詐欺師にとってみれば、詐欺は生存に価する絶対的正義であろう。無論詐欺というビジネスモデルに持続可能性があるはずもなく、社会的には破壊活動にしかならない「甘え。」に過ぎない。

 イヌだのサルだのであれば、それでも構わないのであろう。しかし、自然界においても環境との調和がとれない異常繁殖などは環境との心中につながることになるので、結局は持続可能性を失うことになるのである。

 自然界、生物学的な正義を振り回せば結果こそが全てである。だから生物学では何が起きてものらりくらりと言い逃れができるのである。それこそNHKの室山解説委員みたいに「人類は絶滅する。」などと断言しておいて構わないのである。こんな生物学の正義が絶対信仰されていれば、何が起きても無責任でいられるであろう。事実NHKは無責任である。

 論理的議論を避けておいて科学も哲学も普遍性など追求されることはない。普遍性がないということは、その場限りに言い逃れをしているのと同じなのである。だから今の生物学には公金を投入する価値はないのである。

 普遍性の価値というのは、同じ過ちを繰り返さないための指標となるからであり。それ自体もまた「手段」であって目的ではない、ということは既に述べたはずである。「指標」自体は目的ではなく、「指標」に基づいて安全性とか持続可能性を求めることが可能となることに価値があるのだ。

 ヒトという種の生物における普遍「的」な性質。普遍っぽい多数抽出結果をいくら枚挙しても。それはある程度の指標にはなるとしても、目的自体とは無関係である。人が必ず死ぬからといって、死ぬことだけを目的にするというのは意味不明であろう。血液が血栓を作って毛細血管を詰まらせる結果をいくら枚挙しても、血液とは血栓を作って死に至らしめることが目的であることを証明しない。

 それと同じで戦争や犯罪がなくならないことを枚挙しても、戦争や犯罪がなくすことが論理的に不可能であることを証明しない。循環器医が脳梗塞の予防を訴えるのと同じように、戦争や犯罪の予防を訴えることは夢想でもなんでもない当然の話なのである。

 諦めてしまえば簡単だ、ニヒリズム、虚無を訴えておけば何も考えずに済むからである。それはヒトの大脳辺縁系に組み込まれたシーケンシャルな思考パタンであるからだ。

 「自分はバカだから、絶対にわからない。」などと言うのも言い逃れである。自己の愚かさを知っているのであれば、それは改善可能ということであり。むしろ「わかりたくない。」ことを正当化するための言い逃れに過ぎず、単なる子供の駄々に過ぎない。こうした言い逃れ、取り繕いこそが本当の「愚かさ」の原因であり、認知症の初期症状では取り繕いにしか意識が働かなくなるのも、逆に取り繕いや言い逃れしか考えていないから認知症に陥るのである。

 自らの愚かさを認識し、それを改善する「意思」こそが本質的自己であり。個人が個人であることの価値でもある。それを放棄するためのあらゆる言い訳、言い逃れ、取り繕い、の全ては気分に基づく本能的な逃避に過ぎない。



 最近、時折賛同コメントを戴くことがあるのですが、反論とか「ここが説明不足。」といった指摘の方が有り難いです。おいら的には当たり前のことを論じているだけなので、皆さんが何を理解できないのか、どこを理解できないのかがよくわからないことの方が重要だからです。

 別に匿名で構わないですし、素朴でも構わないので、むしろ素朴で素直な疑問を持つことの方が重要なんだと思います。

 小柴の爺さんも「疑問に思うことがあったら、ずっと大事にしておきなさい。」って言ってますから。本当に大事な疑問であるなら、それは言われなくても大事にしておくものなんですけどね。大抵の場合は「どうせ、俺にはわからんわ。」と諦めてしまうことで気分的に満足してしまうことが多いんですね。それが一番良くない。

 「どうしてわからないんだろう。」それを楽しむくらいの純粋さが謎を解明する素地になるんです。

 養老なら「わからないなら、わからないなりに、わかった。」などと、意味不明な話で丸め込むんでしょうけど。そういう大衆迎合こそが「実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかける。」原因となるのです。

 人それぞれ興味を持つ事柄には違いがあります。だからといって論理的に意味不明な話を鵜呑みにして良いということにはなりません。本当に興味があるなら、キチンと論理的追求をすべきであり。そもそも鵜呑みにするだけで論理的追求をしていない時点で本当は興味などなかったということでもあるのです。

 ヒトは関係性の生物です。ですから他人からの評価というものに非常に敏感な性質があります。しかし、それもまた「結果」であって、既に存在していただけの自己でしかなく。本質的自己とは無関係なのです。

 誰も論じないことに言及することを、多くの人は忌避しがちです。「恥ずかしい。」という強迫観念がそれを促すためです。しかし、「恥ずかしい。」というのは単なる恐怖心であり「習性」に過ぎません。

 おいらが子供の頃にはヲタクはキモいと言われていました。しかし現在ではむしろ草食系だとか言って人気があったりします。こうした時代とか社会に依存した価値観には普遍性がなく、指標としての価値すら存在しません。

 世間による多数他人の評価というものには、必ずしも論理的根拠や実質的価値が存在するわけではありません。

 それこそ倉田真由美とかなら、「私だけじゃなかったんだ。」と、安心して愚かになることを正当化するのでしょう。しかし、こういうのは言い逃れとか取り繕いといった、バカになるための最も近道でしかありません。多くのヒトはこうしたバカになる近道、それは楽に転げ落ちるような下り坂に身を委ねておけば「安心」なのです。

 養老は「人生は崖登りだ。」と形容しました。おいらは「地道に一歩ずつ登る緩やかな坂道。」だと思っています。一足飛びに答に到達しようとするから崖から落ちたりすることになる。安全第一で丹念に一歩ずつ地道に確実に歩むことが大切なんだと思います。「等身大」とは、そういうことだと思います。



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