§:人が人を殺してはいけない「理由」は必要なのか。
実はそもそも人が生きる理由だって論理的には存在しないんです。ニーチェとか文系生物学者なら「適者生存」だとかいう「結果」論を持ち出すでしょう。でも「結果」というものは自分自身で選択したものではないのです。
人がなぜ生きるのか。先ず一義的には「死にたくない。」という結果的な本能が挙げられます。でも本能というものは個人においては予め自分の脳に組み込まれただけの機械的条件反射であると言えます。
自分の遺伝子配列に関して、自己自身の関与はありません。従って遺伝的に組み込まれたあらゆる本能は自己の選択とは無関係なのです。それは生存本能においても例外ではありません。
結局人が生きる理由とは、個人的な好き嫌いの問題でしかないわけです。
脳内物質ドーパミンは、その常習性によって定常安定への欲望を作り出します。ドーパミンは別名「安心物質」とも言われ、定常安定的なものに「安心」を感じるように促し、逆に定常安定的でないものに「不安」や「恐怖」を感じるように促します。固定観念という思考の呪縛も、このドーパミンが作り出しているわけです。
「馴れる。」「ハマる。」「癖になる。」といった性質は全てこのドーパミンによって作り出された情動行動であり。無意識学習といった「慣れ」に関わるものは全て繰り返し学習によって無意識下に刷り込まれた行動として記憶されたものなのです。
ヒトはこの世に生まれて今までずっと「生存」しているので、「生存」していることが「安心」です。
つまり、個体の生存本能というのは大脳辺縁系によって作り出された結果的「好き嫌い」の範疇に過ぎず。論理的「理由」など最初から存在しないのです。
これを言い出すと、大抵の人は気分を害します。
その「気分」であっても結局は大脳辺縁系によって作り出された固定観念による違和感に過ぎません。いわばシーケンシャルな機械的条件反射であるからこそ多くの人は気分が悪くなるのです。
自分の大脳辺縁系の構造に限らず、自分が生まれた時代や、育った環境としての社会であっても。そこには自分の選択は介在していません。従って今現在自分の脳に刷り込まれた固定観念的なあらゆる価値観の全ては自分自身によって自律的に選択したものではないのです。
しかし、今現在においてのみ選択は可能であり。そこにのみ本質的自己は存在しうるわけです。
この話に気分を害するのであれば、それは今までこうしたことを全く考えてこなかったという「慣れ」の問題でしかありません。慣れないことに不安を感じることは大脳辺縁系の反射としてごく当たり前のものです。
一人の人が生きる「理由」などというものは最初からないのです。でもよく考えれば一人の人が生き続けることに「理由」が必要でしょうか。「理由」のために生き続けないといけないような環境依存的な不自由なものなのでしょうか。
「生存」に「理由」が必要ということは、「理由」の方が優先されているということであり。そこには自由意思としての選択が介在しないということでもあります。言い換えれば「自発的に生きている。」のではなく、「生き続ける理由を自分の自発的ではないものに求めている。」からこそ「理由」を必要になってしまうことになる。
よって私は自殺が違法であるとは考えません。生存によって苦痛以外の一切が得られない状況であるなら尊厳死を選択することは誰しも求めるものであることからも、それは疑う余地はありません。
個人が生存し続けるのはヒトという種の生物に普遍的な「理由」によるものではなく、「生きるに値すると感じる。」から生きているのであって。単に本能的に「死にたくないから、生きている。」などという結果論に依存したPassiveな論拠だけでは不充分なのです。こうした本能だけならサルでもイヌでも持っているものであり、そこには何ら人間としての存在価値など証明不可能な結果論に過ぎないのです。そこには個人が個人であることの根拠もありません。
殺人をしてはいけないことも。それは論理的「理由」によって導き出されるような短絡的なものではないということです。
バカな西洋哲学カブれ達は真理の追求によってあらゆる物事に「理由」を付けることにばかり固執しますが。真理の追求や、それによって導き出される「理由」というのは、それ自体が「目的」ではないことを忘れているのです。
「目的」とは、平和な社会を構築することであって、真理や「理由」はその「手段」でしかありません。
西洋哲学カブれがなぜ「理由」に固執するのか、それは彼らの目的が「理由」を発見することによって社会的功績を得ることが「目的」であって。個人的欲望に囚われているからこそ思考が固定化されて、具体的な「考え」に及ばなくなっているからなのです。哲学者であることに固執していて、その前に社会の中の一人の人間であることを忘れていると言えるでしょう。
バカ学生相手に「ニーチェは素晴らしい。」だとか吹聴していれば生活には困らないというのであれば、わざわざ「理由」なんぞ発見しなくても良いということもあるでしょう。どちらにせよ現在の哲学界は怠慢という他ありません。
§:理由以外の根拠
人が人を殺すなどの危害を加えるのはなぜでしょう。現実的事例としても「理由」などありません。ただ「ムシャクシャしたから。」とか「ムカついた。」といった気分。すなはち大脳辺縁系が促す情動反射によるものです。
他人に対しての嫌悪という、好き嫌いによる感情が他人への危害を加える基礎的原理です。
しかし、嫌悪したからといって多くの人は原理構造のままに危害を加えたりはしないものです。大抵は嫌な奴とは付き合わなければ良いだけのことだからです。
通り魔が論ずる「社会が悪い」という話も、具体的にどこがどのように悪いのかには全く言及していませんし。極めて抽象的な話しか出てきません。
詳しく追求しても「俺のような人間は、死刑になったらいいんじゃ。」などとはぐらかすのは、最初から論理的根拠や具体的論拠は全くなく、ただ気分的に「他人に危害を加えたら気分が良くなるような気がした。」だけに過ぎないからです。
秋葉原の通り魔が一部の人達には人気があるそうですが。ニーチェ同様に抽象短絡的に「社会が悪い」的に正義を振り回すことは、無思考な凡民にとっては大脳辺縁系に快楽を与えるようです。養老孟司の人気も似たような理由だと思われます。具体的にどうすれば人気が得られるのかにはここでは言及しません、そこには普遍性というものがなく、特定の時代とか社会に依存した結論しか導き出されないことが明らかだからです。
個人が生きる個人的理由とは、生きるに値する社会であることが前提です。しかし、この「生きるに値する社会。」という基準自体は個人によって大きく異なるものです。通り魔とか振り込め詐欺師であれば、本能のおもむくままに他人からあらゆるものを略奪破壊できることが「生きるに値する社会。」であると言い出すでしょう。
シエラレオネなら、妊婦を殺害して腹の中の子供が男か女かを賭けて殺害するような残虐性こそが、「生存」に値する基準となる社会も存在しうるのです。
しかし、残虐なゲリラしかいない社会に持続可能性があるでしょうか。残虐性を競争し続けなければならないような恐怖が支配する社会こそが望みであるというのであれば、今すぐシエラレオネでもアンゴラでも行けば良いのです。でも本当に望んでゲリラになる日本人は全くいません。通り魔に同意している者であってもです。
残虐性と破壊が正義の社会が望みであると言いながら、実際には多くの人がそれを望まない日本で通り魔を行うというのは、そこに全く選択可能性が働いていないことの証明でもあります。要するに社会の平穏に「甘えて」いるということなのです。
持続可能性がない社会を求めること自体、そもそもが論理的合理性を持たない、その場限りの気分に由来する欲望に過ぎません。
そもそも、本能欲望といったもの自体が自己自身が意識的に選択したものではないことは既に述べました。
ニーチェのような雰囲気重視の大衆迎合であれば、本能と理性はバランス問題にでもしておけば簡単でわかったような気分にでも誘うことができるでしょう。それは単なる思考停止によって大脳辺縁系が楽になっているだけのオカルトでしかなく、真理を途中放棄した怠慢でしかありません。
持続可能性を持った社会を求めない時点で、そもそもが論理矛盾に過ぎないわけです。
持続可能性を持った社会を求める人と、そうでないヒトとの相違はどこにあるのでしょう。それは論理的な考えに基づいて統合的な観点から「生きるに値する社会。」を想像しているかどうかの違いと言えるでしょう。
暴力団とか通り魔同士、或は振り込め詐欺師同士で考えが共通しているのであれば、こういった人達だけで閉鎖空間で自給自足生活でもさせればよろしいわけです。果たして社会生活が成立できるでしょうか。ありていに言って不可能なのは検証する必要もないでしょう。破壊とか搾取する対象が存在しないところで自立的に社会を構築することなど最初からする意欲すら存在しない人達だからです。
必ずしも持続可能性を持った社会を望む人達の全てが、その論理的な理由を言語で述べられるとは限りません。むしろ、自分が生きる理由などというものは常日頃考えて生活しているようなものではありませんから、何となく漠然と望んでいる人の方が多いのは当然であるとも言えるでしょう。それはそれで何ら問題はありません。
問題なのは理由をいちいち説明しないと自発的には持続可能性を求めないような「甘え」のひどいヒトの短絡思考が問題なのです。
単に生存だけを論ずれば、生物種としての「ヒト」でありさえすれば構わないわけです。それこそ暴力や破壊を伴った「力」だけに依存した自然淘汰の結果論だけを優先すれば、ニーチェのような超人だの、フランシス:ゴルトンの優生学が正当化されることになります。
その超人とかいうヒトは、さぞかし丈夫な身体と高い身体能力を持ち、他人を騙すことに長け、狡猾で繁殖力が高く「生存」だけに特化した生物に違いありません。それこそ宇宙空間でも生存可能なそういう生物ならシガニー:ウイバーさんにM40マシンガンで抹殺して頂くことを私は望みます。
単に生存価だけを論ずれば、先天的疾患によって繁殖不能な子供であれば殺しても構わないという理屈も成立しうることになります。そんな理屈を本気にするような奴は「ヒト」ではあるかも知れないですが「人間」とは言えないでしょう。
ところが生物学者のほとんどは、生存価万能主義を貫こうとするキチガイしかいないのが現状なのです。
生存も生存本能も、これらは全て「結果」であって意識的論理的に選択した意思に基づく行動選択ではありません。それこそスペースシャトルチャレンジャー号の固体燃料ロケット技術者であれば、乗組員の安全と引き換えに自己の保身を優先するような選択をするべきではなかったと論じます。
それがたとえ生存に適さないとしても、人間としては正しい行動選択であったからです。
「人が人を殺すような社会に生存し続ける理由。」もまた普遍的には存在しない個人的な主観によるものに過ぎず、個人の意識の広さや思考の深さに依存します。
必要なのは「理由」ではなく、個人の意識の広さによる統合的な論理思考に基づく自律判断こそが「ヒトが人間である所以。」であり、それによって築かれる社会の平穏なのです。
いうなれば「ヒトとして普遍的な理由はない。」が「人間として普遍的な個人的要望。」は存在しうるということです。
ジョン:レノン曰く、「戦争は終わる、全ての人が望めば。」ということです。
持続可能な社会を求めないという論理矛盾は、そこに論理的思考が働いていないからであり。固定観念や意識狭窄によって思考が拘束されているからです。
「ニーチェは偉大な哲学者である。」などというのは虚構であり、単なる振興宗教の教祖に過ぎないのです。それを多数派同調バイアスという錯覚に惑わされて危険なものに気分的に安心し続けるというのは愚かと言う以外ありません。実害が及んでからでは遅いのです。
先ずは自らの愚かさを認識し、既に行った選択判断を事後正当化するなどというバカの上塗りを重ねないことが肝要です。自己が自己足りうる証明とは、今現在における選択可能性にこそ存在するというのは。既に存在するあらゆる価値観の全ては必ずしも本当に自分自身では選択したものではないということに基づく帰結です。
ヒトは長く続くことは永遠に続くと錯覚しがちです。錯覚を錯覚であると認識するのは意識の役割であり、認識できなければ間違った認識に基づいて行動判断を下すことに陥るのは当然のことです。
End;
実はそもそも人が生きる理由だって論理的には存在しないんです。ニーチェとか文系生物学者なら「適者生存」だとかいう「結果」論を持ち出すでしょう。でも「結果」というものは自分自身で選択したものではないのです。
人がなぜ生きるのか。先ず一義的には「死にたくない。」という結果的な本能が挙げられます。でも本能というものは個人においては予め自分の脳に組み込まれただけの機械的条件反射であると言えます。
自分の遺伝子配列に関して、自己自身の関与はありません。従って遺伝的に組み込まれたあらゆる本能は自己の選択とは無関係なのです。それは生存本能においても例外ではありません。
結局人が生きる理由とは、個人的な好き嫌いの問題でしかないわけです。
脳内物質ドーパミンは、その常習性によって定常安定への欲望を作り出します。ドーパミンは別名「安心物質」とも言われ、定常安定的なものに「安心」を感じるように促し、逆に定常安定的でないものに「不安」や「恐怖」を感じるように促します。固定観念という思考の呪縛も、このドーパミンが作り出しているわけです。
「馴れる。」「ハマる。」「癖になる。」といった性質は全てこのドーパミンによって作り出された情動行動であり。無意識学習といった「慣れ」に関わるものは全て繰り返し学習によって無意識下に刷り込まれた行動として記憶されたものなのです。
ヒトはこの世に生まれて今までずっと「生存」しているので、「生存」していることが「安心」です。
つまり、個体の生存本能というのは大脳辺縁系によって作り出された結果的「好き嫌い」の範疇に過ぎず。論理的「理由」など最初から存在しないのです。
これを言い出すと、大抵の人は気分を害します。
その「気分」であっても結局は大脳辺縁系によって作り出された固定観念による違和感に過ぎません。いわばシーケンシャルな機械的条件反射であるからこそ多くの人は気分が悪くなるのです。
自分の大脳辺縁系の構造に限らず、自分が生まれた時代や、育った環境としての社会であっても。そこには自分の選択は介在していません。従って今現在自分の脳に刷り込まれた固定観念的なあらゆる価値観の全ては自分自身によって自律的に選択したものではないのです。
しかし、今現在においてのみ選択は可能であり。そこにのみ本質的自己は存在しうるわけです。
この話に気分を害するのであれば、それは今までこうしたことを全く考えてこなかったという「慣れ」の問題でしかありません。慣れないことに不安を感じることは大脳辺縁系の反射としてごく当たり前のものです。
一人の人が生きる「理由」などというものは最初からないのです。でもよく考えれば一人の人が生き続けることに「理由」が必要でしょうか。「理由」のために生き続けないといけないような環境依存的な不自由なものなのでしょうか。
「生存」に「理由」が必要ということは、「理由」の方が優先されているということであり。そこには自由意思としての選択が介在しないということでもあります。言い換えれば「自発的に生きている。」のではなく、「生き続ける理由を自分の自発的ではないものに求めている。」からこそ「理由」を必要になってしまうことになる。
よって私は自殺が違法であるとは考えません。生存によって苦痛以外の一切が得られない状況であるなら尊厳死を選択することは誰しも求めるものであることからも、それは疑う余地はありません。
個人が生存し続けるのはヒトという種の生物に普遍的な「理由」によるものではなく、「生きるに値すると感じる。」から生きているのであって。単に本能的に「死にたくないから、生きている。」などという結果論に依存したPassiveな論拠だけでは不充分なのです。こうした本能だけならサルでもイヌでも持っているものであり、そこには何ら人間としての存在価値など証明不可能な結果論に過ぎないのです。そこには個人が個人であることの根拠もありません。
殺人をしてはいけないことも。それは論理的「理由」によって導き出されるような短絡的なものではないということです。
バカな西洋哲学カブれ達は真理の追求によってあらゆる物事に「理由」を付けることにばかり固執しますが。真理の追求や、それによって導き出される「理由」というのは、それ自体が「目的」ではないことを忘れているのです。
「目的」とは、平和な社会を構築することであって、真理や「理由」はその「手段」でしかありません。
西洋哲学カブれがなぜ「理由」に固執するのか、それは彼らの目的が「理由」を発見することによって社会的功績を得ることが「目的」であって。個人的欲望に囚われているからこそ思考が固定化されて、具体的な「考え」に及ばなくなっているからなのです。哲学者であることに固執していて、その前に社会の中の一人の人間であることを忘れていると言えるでしょう。
バカ学生相手に「ニーチェは素晴らしい。」だとか吹聴していれば生活には困らないというのであれば、わざわざ「理由」なんぞ発見しなくても良いということもあるでしょう。どちらにせよ現在の哲学界は怠慢という他ありません。
§:理由以外の根拠
人が人を殺すなどの危害を加えるのはなぜでしょう。現実的事例としても「理由」などありません。ただ「ムシャクシャしたから。」とか「ムカついた。」といった気分。すなはち大脳辺縁系が促す情動反射によるものです。
他人に対しての嫌悪という、好き嫌いによる感情が他人への危害を加える基礎的原理です。
しかし、嫌悪したからといって多くの人は原理構造のままに危害を加えたりはしないものです。大抵は嫌な奴とは付き合わなければ良いだけのことだからです。
通り魔が論ずる「社会が悪い」という話も、具体的にどこがどのように悪いのかには全く言及していませんし。極めて抽象的な話しか出てきません。
詳しく追求しても「俺のような人間は、死刑になったらいいんじゃ。」などとはぐらかすのは、最初から論理的根拠や具体的論拠は全くなく、ただ気分的に「他人に危害を加えたら気分が良くなるような気がした。」だけに過ぎないからです。
秋葉原の通り魔が一部の人達には人気があるそうですが。ニーチェ同様に抽象短絡的に「社会が悪い」的に正義を振り回すことは、無思考な凡民にとっては大脳辺縁系に快楽を与えるようです。養老孟司の人気も似たような理由だと思われます。具体的にどうすれば人気が得られるのかにはここでは言及しません、そこには普遍性というものがなく、特定の時代とか社会に依存した結論しか導き出されないことが明らかだからです。
個人が生きる個人的理由とは、生きるに値する社会であることが前提です。しかし、この「生きるに値する社会。」という基準自体は個人によって大きく異なるものです。通り魔とか振り込め詐欺師であれば、本能のおもむくままに他人からあらゆるものを略奪破壊できることが「生きるに値する社会。」であると言い出すでしょう。
シエラレオネなら、妊婦を殺害して腹の中の子供が男か女かを賭けて殺害するような残虐性こそが、「生存」に値する基準となる社会も存在しうるのです。
しかし、残虐なゲリラしかいない社会に持続可能性があるでしょうか。残虐性を競争し続けなければならないような恐怖が支配する社会こそが望みであるというのであれば、今すぐシエラレオネでもアンゴラでも行けば良いのです。でも本当に望んでゲリラになる日本人は全くいません。通り魔に同意している者であってもです。
残虐性と破壊が正義の社会が望みであると言いながら、実際には多くの人がそれを望まない日本で通り魔を行うというのは、そこに全く選択可能性が働いていないことの証明でもあります。要するに社会の平穏に「甘えて」いるということなのです。
持続可能性がない社会を求めること自体、そもそもが論理的合理性を持たない、その場限りの気分に由来する欲望に過ぎません。
そもそも、本能欲望といったもの自体が自己自身が意識的に選択したものではないことは既に述べました。
ニーチェのような雰囲気重視の大衆迎合であれば、本能と理性はバランス問題にでもしておけば簡単でわかったような気分にでも誘うことができるでしょう。それは単なる思考停止によって大脳辺縁系が楽になっているだけのオカルトでしかなく、真理を途中放棄した怠慢でしかありません。
持続可能性を持った社会を求めない時点で、そもそもが論理矛盾に過ぎないわけです。
持続可能性を持った社会を求める人と、そうでないヒトとの相違はどこにあるのでしょう。それは論理的な考えに基づいて統合的な観点から「生きるに値する社会。」を想像しているかどうかの違いと言えるでしょう。
暴力団とか通り魔同士、或は振り込め詐欺師同士で考えが共通しているのであれば、こういった人達だけで閉鎖空間で自給自足生活でもさせればよろしいわけです。果たして社会生活が成立できるでしょうか。ありていに言って不可能なのは検証する必要もないでしょう。破壊とか搾取する対象が存在しないところで自立的に社会を構築することなど最初からする意欲すら存在しない人達だからです。
必ずしも持続可能性を持った社会を望む人達の全てが、その論理的な理由を言語で述べられるとは限りません。むしろ、自分が生きる理由などというものは常日頃考えて生活しているようなものではありませんから、何となく漠然と望んでいる人の方が多いのは当然であるとも言えるでしょう。それはそれで何ら問題はありません。
問題なのは理由をいちいち説明しないと自発的には持続可能性を求めないような「甘え」のひどいヒトの短絡思考が問題なのです。
単に生存だけを論ずれば、生物種としての「ヒト」でありさえすれば構わないわけです。それこそ暴力や破壊を伴った「力」だけに依存した自然淘汰の結果論だけを優先すれば、ニーチェのような超人だの、フランシス:ゴルトンの優生学が正当化されることになります。
その超人とかいうヒトは、さぞかし丈夫な身体と高い身体能力を持ち、他人を騙すことに長け、狡猾で繁殖力が高く「生存」だけに特化した生物に違いありません。それこそ宇宙空間でも生存可能なそういう生物ならシガニー:ウイバーさんにM40マシンガンで抹殺して頂くことを私は望みます。
単に生存価だけを論ずれば、先天的疾患によって繁殖不能な子供であれば殺しても構わないという理屈も成立しうることになります。そんな理屈を本気にするような奴は「ヒト」ではあるかも知れないですが「人間」とは言えないでしょう。
ところが生物学者のほとんどは、生存価万能主義を貫こうとするキチガイしかいないのが現状なのです。
生存も生存本能も、これらは全て「結果」であって意識的論理的に選択した意思に基づく行動選択ではありません。それこそスペースシャトルチャレンジャー号の固体燃料ロケット技術者であれば、乗組員の安全と引き換えに自己の保身を優先するような選択をするべきではなかったと論じます。
それがたとえ生存に適さないとしても、人間としては正しい行動選択であったからです。
「人が人を殺すような社会に生存し続ける理由。」もまた普遍的には存在しない個人的な主観によるものに過ぎず、個人の意識の広さや思考の深さに依存します。
必要なのは「理由」ではなく、個人の意識の広さによる統合的な論理思考に基づく自律判断こそが「ヒトが人間である所以。」であり、それによって築かれる社会の平穏なのです。
いうなれば「ヒトとして普遍的な理由はない。」が「人間として普遍的な個人的要望。」は存在しうるということです。
ジョン:レノン曰く、「戦争は終わる、全ての人が望めば。」ということです。
持続可能な社会を求めないという論理矛盾は、そこに論理的思考が働いていないからであり。固定観念や意識狭窄によって思考が拘束されているからです。
「ニーチェは偉大な哲学者である。」などというのは虚構であり、単なる振興宗教の教祖に過ぎないのです。それを多数派同調バイアスという錯覚に惑わされて危険なものに気分的に安心し続けるというのは愚かと言う以外ありません。実害が及んでからでは遅いのです。
先ずは自らの愚かさを認識し、既に行った選択判断を事後正当化するなどというバカの上塗りを重ねないことが肝要です。自己が自己足りうる証明とは、今現在における選択可能性にこそ存在するというのは。既に存在するあらゆる価値観の全ては必ずしも本当に自分自身では選択したものではないということに基づく帰結です。
ヒトは長く続くことは永遠に続くと錯覚しがちです。錯覚を錯覚であると認識するのは意識の役割であり、認識できなければ間違った認識に基づいて行動判断を下すことに陥るのは当然のことです。
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