書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○拳銃と少女。

2015年12月06日 16時23分26秒 | 日記


「ふゆの春秋」というイラストレーターさんの絵がかわういのでトミーテックのサイトから画像だけ抜きだして一覧表示させてみた。

リトルアーモリーのイラスト一覧

でも画像だけ抜いているのでは忍びないので一応製品ページへのリンク機能も追加してあるので、画像をクリックするとトミーテックのサイトに跳ぶ。



Ende;
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○自律的な社会的責任判断を抜きに心もすったくれもあったものではない。

2015年12月06日 15時27分58秒 | 意識論関連
文科系大衆観念上のおける「心」という概念についての誤謬(ごびゅう:論理的瑕疵がある誤り)



一般大衆的解釈における「心」とは、その場限りの気分感情を述べている場合がほとんどである。

放送大学における「技術者倫理論」においても、その動機において「元気になる。」だとか「勇気がわく。」などといった気分感情論に話をすり替え、社会安全性を優先する動機について合理的見解には言及できていない。



ヒトという種の生物の行動は、大脳辺縁系が促す動物としての先天的行動バイアスに大きく左右されがちな性質があり。 そのため、気分感情的に「やさしい気持ち。」にさえなりさえすれば人間性が常に発揮されるかのような錯覚に陥る傾向がある。

そして、こうした傾向は非常に強く。また、気分以外の要素である論理検証性といったものへの非合理的な拒絶反応の原因ともなっている。



気分感情というものは、その個体が置かれた状況や環境に大きく左右される性質がある。ナチス政権下のドイツにおいて多くのドイツ人がユダヤ人迫害に荷担、若しくは迫害を傍観放置したことからも、ヒトという種の生物というのは自己が置かれた社会環境に簡単に迎合してしまい、それに抗うことが非常に困難な性質を先天的に持っているのである。

差別排除といった行動は、動物的な社会形成習性的には普通で普遍的行動であると言える。 イヌなどが集団組織的統率行動を採ることによって、より機能的に狩りを行うことが可能であるのも、その先天的な社会形成習性の結果である。

しかし、こうした先天的本能習性が促す機能的な行動は、それ自体に目的が存在するわけではなく。あくまで「その習性を持っていたから生存に適した。」ことにもつながったとは言え、そもそも「生存」自体が結果でこそあれ意識的に選択した目的ですらないという文科系大衆観念上の根源的誤謬に基づいているのである。

振り込め詐欺においても、学校でのイジメにおいても。ヒトという種の生物はその先天的な社会形成習性によって機能的に特定個体や集団への攻撃を行うようになる。 それはイヌの祖先であるオオカミが組織集団として機能的に狩りを行うことが可能であることと無関係ではない。

オオカミが集団組織的な統率行動によって、より高度な狩りを行うことを。文科系大衆観念上では「オオカミが賢いからだ。」などと形容し、あたかもオオカミ達が目的意識に基づいて合理的行動選択をしているかのように勝手に錯覚しているが。「狩り」においての行動合理性が存在するとしても、「狩り」自体が先天的な本能習性に促された行動であって、その結果がたとえ生存に適しているとしても、その目的意識というのは目先の欲望、すなはち気分感情が促す行動バイアスの結果でしかなく。オオカミの脳にはそれ以上の目的意識など存在しないのである。

オオカミも、狩りが成功した後には獲物の奪い合いを行い。また、メスが出産をする際には子供の安全のために集団から離れて出産をしなければならないことからも。狩り以外においてはオオカミが持つ集団組織的統率性が常にプラスに働くわけではない。



文科系大衆観念上では、論理検証性に基づいた合理的行動選択というものを、何が何でも非人間的なものであるかのように解釈しておこうとするバイアスが働いている。

振り込め詐欺は合理的かと言えば。目先の金銭という抽象化された脳への報酬を得るためだけにおいての合理性はあるとしても、自分達が生活する社会への負荷によって全体としては損失となっている事実から目を背けた非合理的行動である。

文科系大衆観念上では、「理性には利己的利益追求の側面がある。」などと称して、論理検証性よりも目先の気分感情を満たすことこそが人間性であるかのように言い張ることが非常に多い。

利己的利益追求というもの自体が、そもそも欲望や感情に基づいた行動であり。どんなにその過程において合理的であるかのように見えたとしても、根源自体が先天的本能欲望が促す感情バイアスに基づく以上、それは本質的には合理性追求でも何でもない。

気分感情という大脳辺縁系が促す行動や思考のバイアスというものは、その場限りの行動や思考には大きな影響を与えるが。それは同時にその場限りの環境や状況における行動にしか影響を与えないということでもある。

環境や状況に左右されている時点において、そうした行動バイアスには自律性が存在しない。



本質的な自律性ということを説明する時に文科系大衆観念上における身勝手な解釈に基づいた思考バイアスについても説明しなければなるまい。

それは「意識」というものの本質に対する誤謬である。

文科系大衆のほとんどは。 というよりもヒトという種の生物におけるアプリオリな観念上においては、目先の気分感情が促す行動こそが、自己の意識の全てであるという錯覚を持っている。




「心」の本質とは何か。

それは目先の気分感情に左右され得ない一貫性を持った自律的で非環境依存的な論理検証性に基づく合理性の追求である。

ところがヒトの多くは目先の気分感情的安心満足こそを短絡的に「心」であると、人間性か何かであるという身勝手な解釈をしがちな思考バイアスを持っている。

畑村洋太郎による国会原発事故調査委員会の報告において、事故回避のために最も重要なこととは「個人が自律的に社会的責任を負うことである。」と結論づけている。

自律的な社会的責任判断選択において、放送大学の技術者倫理論のような「元気」だとか「勇気」といった気分感情バイアスを持ち出していたのでは、その場限りの気分感情のバイアスに左右された結果しか導き出されることはなく。本質的には全く意味を為さないのである。

本来倫理というものは特定の技術者だけに丸投げしておけば社会安全性が保たれるといった安易で短絡的なものでもなく、本来全ての市民全員が持ち続けなければならないものであって。「俺は振り込め詐欺師だから自律的な社会的責任判断なんぞしなくても構わない。」という話にはならず、何か特定の責任ある立場以外であれば自律的な社会的責任判断選択を放棄しても良いわけではない。

子供の教育において、子供自身の自律的判断選択能力を蔑ろにしてしまうからこそテロリストや通り魔といった非合理的行動を採るようになるのであって。更に言えば刑法懲罰制度という社会的に不毛な制度に犯罪や事故を「解決」であると見做(みな)して、懲罰による気分的安心満足によって合理的な原因究明や再発防止策が置き去りにされている現状を認識しないこと自体が、大衆の意識の低さの証明でもある。



懲罰(暴力)は快楽である。

DV男が散々パートナーに暴力を振るうと、脳内でテストステロンを消費した結果セロトニンが分泌されることで、急に優しくなるという行動が見られるという。

これは別にDV男に限った習性ではなく、「空腹になると意味もなくイライラする。」といった普通の人にも見られる一般的な「ヒトという種の生物」全般に当てはまる普遍的性質の一つに過ぎない。

懲罰を与えると、ヒトは満足感を得て、気分的に安心することで、あたかも全てが解決したかのような錯覚を得る習性がある。

ヘイトスピーチのように、怒鳴り散らすことで彼らは快楽を得ているに過ぎず。全く何の解決にも、そもそも問題自体がトンチンカンであることにすら気付くことはない。

なぜ気付かないのか。

それは彼らが怒鳴り散らすことによって得られる脳への快楽が、その行動の合理的価値を検証することよりも遥かに大きいことによってマスキングされてしまっているからである。

こうした意識マスキングというのは、ヘイトスピーチに限ったことではなく。刑法懲罰裁判制度自体が社会的にほとんど不毛であるという事実や、気分感情こそが意識の本質であるという非合理的解釈などの原因でもある。

本来感情的にならなければ見えるもの(理解可能なもの)が見えないのは、こうした意識マスキングによる論理検証性の阻害が生じているからである。

「合理性追求というものには、利己的利益追求の側面もある。」などという嘘を鵜呑みにしたがる大多数の文科系大衆の観念も、合理性追求よりも目先の気分感情が満足することの方が「心」であると、人間性か何かであるという短絡的発想に基づいた思考バイアスが促す意識マスキングによるものである。



意識マスキング、すなはち論理検証性における情報の狭窄や変偏の原因とは。見たくない、認識したくない事実をなかったことにしてしまうという気分感情のバイアスによって生ずるものである。

「心」とか人間性といったものを論じようとすると、大衆の多くは宗教的な観念に頼る傾向が見られるが、宗教などの非合理的思想自体がそもそもヒトという種の生物の先天的な気分感情バイアスにとっての満足感や安心感を得ることが目的であって。 社会安全性や持続可能の源となる個人の自律的な社会的責任判断にとって、宗教というのは何の意味も持ち得ない。

そもそも宗教というのは気分感情という先天的本能習性の「結果」でこそあれ、そこに「目的」意識というものは最初から存在しないのである。

その意味において「宗教はアヘン。」に過ぎないわけだが、それは宗派に依るものではない以上に、むしろ社会主義や資本主義に過剰な価値を見出だそうとするイデオロギーにおいても同様である。

「これさえやっときゃ、全ては解決。」という短絡的発想は、ヒトの脳から論理検証性を剥ぎ取るのに極めて効率的である。ヒトの脳というのは大脳新皮質が肥大することによって論理検証が可能にはなっているとは言え、それは可能なだけであって常に機能するとは限らず。むしろ日常生活のほとんどは自律的論理検証とは無縁であり、その場限りに気分的満足安心を求めた行動がほとんどである。

いや、別に気分的に嫌なことを常にし続けなければ人間性が発揮できないというわけではないが。その重要度については予め検証しておく必要性はある。 宗教における説話や物語がその一助になる場合もないことはないが。大抵の場合は自分にとって気分の悪い話は無視して、気分が良くなる話だけを都合良く解釈するためだけに利用しているに過ぎない。

なぜなら社会安全性や持続可能性を目的として宗教を信じている人などいないからである。



本質的に「心」ある行動選択や、人間性といったものは何から導き出されるのかと言えば。それは社会の安全性や持続可能性を追求する自律的で環境依存的ではない論理検証性から導き出されるものであり。それは工学分野における危険学や失敗学を一般化した先にある概念と言える。

現在の危険学や失敗学というものは工学分野に特殊化されたものであり、ヒトという種の生物が持つ先天的危険性についてはあまり言及しておらず。結果的に刑法懲罰の不毛さについても論理的に言及はあまりしていない。それは畑村洋太郎にとっては「専門外」だからということなのであろうが、逆に言えばそこまで言及しても大衆のコンセンサス(気分的動機づけ)が得られないことから公的には研究が進められないという事情もあるのだろう。

だが、その結果として通り魔やテロリスト組織といったものの発生についての論理的原因究明も、当然それに伴う再発防止策についても全く研究が進まないという事態も招いているのである。

通り魔やテロリストの目的は、暴力を振るうことによる気分的満足感である。 この満足感に伴って生ずる「解決」の錯覚というものは、刑法懲罰制度のそれと全く同根であり。社会安全性についてほとんど何の意味も為さない。

刑法懲罰の判決は、裁判制度上も社会的(多数決的)にも「解決」であるとみなされており。それ以上の原因究明も再発防止策にも一切言及することはない。

残虐な通り魔が発生したとして、通り魔を死刑にする判決を下したことによって。「なぜ通り魔などという非合理的な行動を彼が採ったのか?。」という疑問に対しての研究は一切行われることがない。

ISILに対する空爆攻撃も、その場限りの対処療法としての意味しか存在せず、根本的には意味を持たない。

学校教育における心理分析においては賞罰による他律強制的な行動抑圧こそが、生徒個人の自律判断能力の欠如を招き、結果として後に社会的に重大な結果にもつながることが取り沙汰されているにも関わらず。 犯罪者に対しては多数大衆の気分的満足感の追求としての刑法懲罰の重罰化ばかりが追求されているというのは、合理性に欠けているだが、その社会的無責任さについての認識は大多数の人達には存在しない。

実際に犯罪を既に犯した犯罪者に限らず、重要なのは、あくまで「個人の自律的な社会的責任判断。」であり。これは犯罪者予備軍に限らず、あらゆる「個人」が持たなくてはならないものであって。先天的学習障害などがない限り拒絶する権利はない。




養老孟司は、「ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかけてきた。」という事実に対し、「ヒトとはそういうものである。」などと、あたかも「ヒトという種の生物の先天的本能習性は変えることの出来ない普遍的に迷惑なものであるから、諦めて受け入れてしまえば何も論理的には考えずに済むので気分的に楽になれる。」かのような意識誘導を用いて読者を思考停止に陥れ、文科系大衆観念的な解釈によって宗教などの非論理的解決策でどうにかなるかのような錯覚を読者に促し人気を得た。

畑村洋太郎らによる論理的な解決策にはコンセンサスが得られない一方、非論理的な文科系大衆観念に迎合した不毛な観念には人気が得られるのである。

それはなぜか。

当然ながら大多数の大衆は、その場限りの気分的安心満足感を追求するだけで、社会安全性を論理的に追求するつもりが一切ないからである。 「大衆とは、そういうものである。」と頭ごなしに決め付けてしまうこともまた、養老孟司のような意識誘導による思考停止と全く同じ「思考の罠」である。

思考停止による満足感を多数で共有していれば、論理検証性が社会全体から欠如してゆくのは必然的結果であろう。当然ながら社会安全性も持続可能性も高まることはない。



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○騙されるという無責任。

2015年12月06日 15時25分47秒 | 意識論関連
「嘘しか言わない人。」と形容すると、大抵の人はとんでもない極悪詐欺師のような人物を想像するかも知れない。

だが、実際に嘘以外を絶対に言わないのであれば、それはある意味とんでもない正直者なのでもある。

実際の詐欺師というのは、嘘と真実を織り交ぜ、嘘と真実との境界線を曖昧にすることで相手の判断力を奪うのであって、決して嘘しか言わないわけではない。

もし、形而上絶対嘘以外の真実を一切言わない、若しくは言えない人物がいた場合。その人物は常に、誰にでも間違いなく嘘であることが明白に判るような嘘であっても、絶対に嘘以外の真実を言わない、若しくは言えないので。その嘘というのはそもそも他人を騙すことが目的ですらないのである。

それに対して詐欺師というのは。相手を騙すことが目的であって。嘘を言う行為自体は手段であって目的ではない。

ヒトという種の生物の脳というのは。一度に大量の情報を記憶し、把握し、理解することに限界というものがある。

ヒトの脳というものの限界、いうなれば自分の脳には限界があるという現実すらも、ヒトの多くは忘れてしまっている場合が少なくない。

振り込め詐欺の被害者のほとんどは、実際に自分が騙されるまでは「自分だけは絶対に大丈夫。」だと信じ込んでいるのだという。

普段の生活の中では、自分の脳の限界まで物事を記憶し、理解し、判断するといったことはあまりない。だから大抵の場合は自分の脳で判断可能な範疇だけで判断しているため、自分の判断力はどんな状況においても常に正常であると錯覚してしまうことが少なくない。

経験則などの断片的な統計数値というものは、論理的な絶対性の証明にはならないにも関わらず、ヒトの多くは「いままでずっと大丈夫だった。」というだけで気分的に安心し、満足し、大丈夫ではない可能性についての意識を簡単に喪失するものなのである。

例えば、とある見通しの悪い交差点において、一時停止や直交する道路からの往来がないことを全く確認せずに通過しても事故が起きなかったとしよう。 それが一回や二回ではなく、100回、200回通過しても全く事故が起きなかった場合に、「この交差点は、左右確認をしなくても事故には遭わない。」という経験則を鵜呑みにするのと同じことである。

おそらく、飲酒運転を繰り返す者の多くも、「酒の一杯くらい呑んでも事故は起こさない。」という経験則に基づくことで。安心して飲酒運転をすることが平気になってしまっているのだろう。

ヒトはそもそも生物であるため、その行動は気分感情によって支配されがちであり。 「結果的に生存してさえいれば、結果的には生物として成立し続けられる。」ということでこそあれ。 しかし、「生存を目的として合理的に選択した最適な行動。」である証明にはならない。

たくさんの様々な行動傾向を持ったネズミがいて、その中から特定環境下において死なずに済むような行動を採った個体が生き残ることになったとする。

しかし、それらのネズミの行動傾向というのは、先天的に遺伝などの要因によって決定されているものであって。ネズミ自身に自己の行動傾向を選択することは原理的に不可能である。

自己の行動傾向を自発的に選択することが不可能であることにおいては、ネズミに限ったことではなく。それはヒトにおいても全く同じことが言える。

詐欺でも暴力でも、どんな手段を用いてでも生存に適した行動を採った個体が生き遺りさえすれば、それがあたかも「生物としての目的」であるかのように、従来の進化生物学は論じてきた。 だが、論理的には「生存は生物の目的。」などではなく、「結果的に生存しているものを生物と分類している。」に過ぎないのである。

「ある特定環境下において死なずに生存し続けることが出来た。」としても、その行動が単に先天的な行動傾向の結果に過ぎない場合。 その行動選択というものにおいては自己の自律的な合理的判断とは無関係であり、単なる「結果」でこそあれ、「目的」のために合理的判断力を持ち合わせている優秀さの論証には全くならないのだ。

たとえ自己の生存価にとっては不利な選択であったとしても、社会全体にとっての損害を回避するための選択を採ることは「愚か」だと言えるだろうか。

その選択というものが自己の生存価にとって不利益になる原因が、多数の愚かさに起因する場合の方が圧倒的に多いはずのなのだが。 多数の愚か者は、その多数派であるという根拠だけで多数派こそが「正常」であるとみなすことによる錯覚を認識することなく、自己犠牲すらも「愚かさ故の結末」であることにしてしまうことも珍しくはない。

「自分だけは絶対に大丈夫。」であるという自信は、時に人から自己検証という謙虚さを喪失させ、既に受け入れてしまった常識の中に存在している大きな間違いに対しての検証性を失わせるのである。

130年以上にも渡ってフランシス:ゴルトンの優生学に対しての論理反証すら誰もしてこなかった原因はここにある。

ヒトの多くは、自分の脳が先天的に優秀ではない愚かさを持ち合わせている事実を認識すると、それがあたかも存在価値の喪失か何かと勝手に妄想錯覚する傾向もあるため。 その気分の悪さから逃避するための嘘の合理性を求めて拒絶反応を示し、「自分だけは絶対に間違えない。」という身勝手な全能感覚を優先し、現実認識から逃避するのである。

理工学系の論理的な考え方が苦手な、いわゆる文科系大衆の多くが陥る合理性の欠落した身勝手な解釈こそが、ヒトという生物の脳の不都合な真実からの逃避を支えているのである。

だが大衆迎合は金が儲かる。 「脳化」だとか「品格」といった抽象的な話で大衆を撹乱して満足させ、あたかも何か有用な理論であるかのように錯覚させるような書籍の方が販売部数は伸びるのは事実である。 その販売部数に基づいた「世間的成功」を評価にすり替えるという手口も、文科系マスコミは平気でやる。

こういった詐欺をマスコミが平然とやらかしておきながら、振り込め詐欺が減らないのもむしろ必然であろう。






テロリストが暴力を用いて人々を恐怖によって服従させようとする考え方は、刑法懲罰を用いた強制的法令遵守と全く同じものである。 こうした手法には、個人の自律的な社会的責任判断選択の重要性が最初から抜け落ちており、一方的に服従させ支配しておくことだけが目的化してしまっている。

「怖いから従う。」というのは、ほとんど幼稚園児の判断基準であり、「従ってさえおけば全ては解決。」という為政者の短絡性に基づくものでもある。

社会を構成する個人が、なぜ自律的に社会的責任判断選択を優先せずに利己的な感情論に基づいた行動を採ってしまうのかについての合理的な原因究明や再発防止策が刑法裁判には全く欠落しているという、国家権力にとって不都合な真実についても、文科系大衆の多くは様々な屁理屈を陳列枚挙して隠蔽するのである。

こうした文科系特有の愚かさを全く認識せずにISILなどのオカルト集団の原因究明にもつながらないのも必然と言える。




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