腰痛がDLPFC(背外側前頭前野)の不活性による幻の痛みが原因で、認知行動療法で改善するケースが多いという。
幻の痛みというのは、観念的な恐怖心が産み出すものなんだそうで。痛みが幻であることを認知させることで恐怖心を解くことで無駄な恐怖心をなくすことで大部分の人は腰痛の改善が見られるらしい。
幻というのは、要するに錯覚の一種であると言える。
何度か経験した痛みによる恐怖体験が、脳に恐怖心を「学習」させてしまうことによって、本当は痛くないにも関わらず「痛いはずだ。」という恐怖心によって、かえって悪い姿勢をとってしまうために、筋肉痛などの関係のない痛みが生じて、さらに姿勢が悪くなってしまうというスパイラルに陥ってしまうのだろう。
「学習」というと、文科系大衆観念的には「頭が良くなること。」だと短絡的に思われているようだが。薬物依存なども脳が快楽を「学習」してしまうことなのである。
刑法懲罰を「解決」であると安心して、それ以上何も考えなくなってしまう性質も、ある種の「学習」による行動バイアスが作り出した思考停止である。
ISILやヤクザなどのオカルト暴力集団に対する盲目的に信頼してしまう構成員の行動というのも、一種の「学習」によって作り出されているのであって、「学習」というものは、一般的に思われているような「絶対的に頭が良くなること」だけを指しているわけではないのである。
学力偏差値が高い割には、教えられたこと以外何も気付かない人というのは珍しくはない。ISILや通り魔の中にも学生時代に学力偏差値が高かった人というのは少なくなく、そもそも学力偏差値を短絡的に知能の絶対基準か何かだと信じ込んで全く疑わない思考停止も、文科系大衆観念上における「学力偏差値=頭が良い。」という認知科学的にも根拠のない話を鵜呑みにしている結果である。
ヒトの多くは、長い間一度も疑うことなく受け入れて来てしまった事柄に対して。それを疑うことを全くしてこなかった自己を事後正当化する形で、無意識に現実認識を拒絶してしまう性質があります。
これこそが「洗脳」状態の盲目性の基本原理です。
ですから、洗脳状態というのは、あからさまなオカルトを信じ込んでいる人に限ったことではなく。むしろ一般大衆の多くは何らかのオカルト性や盲目性を持っており、軽い洗脳状態は誰もが程度の差こそあれ陥っているものであると考えるべきなのです。
振り込め詐欺の被害者の大半が、自分が騙されるまでは「自分だけは絶対に大丈夫。」だと、合理的な根拠もなく盲目的に過信しているというのも、ある種の洗脳状態が作り出した盲目性であり。その盲目性のスキを振り込め詐欺は突いてくるのです。
「長い間自分は騙されたことがない。」という経験則に基づいた過信というのは、科学的な立証にはなっていません。それこそがカールライムンドポパーの提唱した「白いスワン」の例えに他ならないからです。
白いスワンをどんなにたくさん集めて来ても、それは「スワンの全ては白い。」ことの論理証明には全くなっていないという例えです。
経済心理学の分野においても、「人は長く続くことは、永遠に続くものであると信じてしまう性質がある。」ために、危険な金融商品やギャンブルにハマってしまい、抜け出すことが出来なくなってしまう原因として挙げられています。
しかし、そもそもなぜ、いちいちポパーが「白いスワン」を例えなければならないのでしょうか。それこそがヒトという種の生物の脳が先天的に持つ思考バイアスによる錯覚が存在するからなのです。
刑法懲罰を「解決」であるという、社会的合理性のない社会制度に依存している現代人の多くの盲目性こそが。ISILや暴力団などのオカルト暴力集団を産みだしている原因であると言えます。
刑法懲罰というのは、構造的に罪に対する罰という暴力の応酬でしかありません。
言い換えれば、「悪い奴には圧倒的暴力による罰を与えて抑圧しておけば安心だ。」という、ヒトという種に普遍的に見られる短絡的かつ最終的解決方法への依存性を「学習」してしまっているが故の結果であり。
こうした短絡性を絶対正義であると仮定すれば、「それなら、圧倒的暴力を用いて自分が権力者の立場になれば、全ては欲望のままに行動可能である。」という結論に至ってしまいます。
こうした一般人が持っている短絡性が暴走したものが、ISILとか暴力団、通り魔の行動原理なのです。
◇
自律的な社会的責任判断が喪失する原因として、虐待の連鎖を例に挙げてみましょう。
虐待をされて育った人が、自分の子供にも無意識条件反射的に虐待を繰り返してしまうのが「虐待の連鎖」ですが。無意識に「虐待をしてしまう。」という行動の原因は、その人の成育環境に原因があるとも言えるわけであって、実際に子供に物理的被害が及んでから「自己責任」だとして全てを個人の責任に丸投げしていたのでは、虐待の連鎖は一向に改善することはありません。
「社会の中で虐待が放置されていた。」というのは、法律上は違法性がありませんが。それによって被害が減らないとか拡大してしまうという事態において、法律上違法ではないから、全ての責任が一切存在しないという話にはならないはずです。
法律さえ守っておけば、人間性が証明されるわけでも。社会安全性や持続可能性が保証されるわけでもありません。
ブラック経営者や脱法ドラッグなどの、社会的に無責任な行動というものも、合法的な反社会的行動であると言えるのであって。それと同じで虐待の連鎖も虐待を放置した社会にも一定の責任は存在すると言えるのであり、それを短絡的に刑法懲罰だけで「解決」であると見なしてしまうことは、社会的無責任さに目をつぶっていることになるわけです。
先天的に物事を冷静に考えることが出来ず、どうにも手に負えないような個体差があるというのであれば、これは精神病棟にでも入れておかなければならないでしょうが。ISILとか暴力団の異常性や病理というものは、現在の医学の範疇には入っておらず。むしろ現在の進化生物学上では本能的な社会形成習性による「コミュニケーション能力の高さ」を発揮することで、彼らの組織集団内部においては「うまく機能している。」とも言えるわけです。
こうした集団組織の利益を追求するメカニズムというのは、オカルト暴力集団に限ったことではなく、ナチス政権下のドイツでも、終戦前の日本帝国においても、東京電力や東芝社内においても発揮されていたものであり。ヒト全般に普遍的に存在する傾向性に因るものなのです。
文科系大衆観念的には、「時代が悪かった。」などという、反証不可能な非科学的帰結でごまかそうとしますが。そもそも時代に左右されてしまうという意識の低さ、意思薄弱こそが社会を崩壊へと導いたのであって。それを時代や社会のせいにしてしまうこと自体が無責任極まりないのです。
大衆の多くがこうした無責任で無為な行動を採ってしまうのは、無力性を「学習」してしまった故の結果です。
文科系大衆観念的には、先天的習性や後天的に「学習」されてしまった無意識な行動には短絡的に「逆らえない。」などという、バカげた言い逃れ、取り繕い、はぐらかし、ごまかし、嘘を、ほとんど条件反射的高速に言い出す人が大半です。
その原因こそが、大多数の大衆の意識の低さ(自律的論理検証性の欠落)に由来するものなのです。
なぜ高速なのか、それは実質的には「何も考えていない。」からこそ高速に反論可能なのです。
言語発話機能などと同様に、無意識条件反射な運動機能と同じで、口や喉の形や息の量などをいちいち考えなくても話が出来ることと同じように。ヒトの意識の大部分は自律的な論理検証を一切せずに、機械的条件反射で無意識に物事を判断しているからこそ、ヒトの大半は無為で無批判な「凡人」に甘んじているのです。
大衆の多くは単に無為な傍観放置をしている人が大半ですが、中には学力成績の高さを短絡的に「自分は天才だ。」と勘違いして、どこぞの病理診断医が述べたように、「権威の査読がない。」ことを根拠に自律的判断を放棄する無責任な言動も、条件反射的な無意識が促した拒絶反応の顕れです。
京都大学の学長という権威が嘘をついている(若しくは大きな間違いをしている。)ことを批判しているのに、どうして「権威の査読」が有効だと言えるでしょうか。アホくさくて語るにすら足りません。
口をついて反射的に思いつく言葉の大半は、論理検証性を持たない「思い込み」です。 感情的になって条件反射的に高速に何かを主張している時ほど、冷静な論理的検証を欠いた観念に過ぎないかも知れないという慎重さを持つ必要があるのです。しかし、ヒトの多くは即座に何かを主張した方が「頭が良い」といった観念を持っており。自信たっぷりに主張してさえおけば論理的に正しいことであるかのような錯覚にも簡単に陥る習性があるため、高速で自信に満ちた主張でありさえすれば、短絡的に信じ込んでしまうのです。
時間をかけてゆっくり導き出した答というものに対しては、大衆マスコミの多くは観念的な「説得力」を「感じる」ことが出来ないために。逆に高速で自信に満ちた主張の方を正しいと錯覚してしまうことが多いのです。
自分の中に既に組み込まれてしまった思考拘束の殻の中に閉じこもっていた方が、ヒトの多くは「楽」に違いないでしょう。自分の頭の悪さを一切認識せず、気に入らない相手を条件反射的に見下して誹謗中傷しておけば、その場限りには満足で安心なのかも知れません。
どこぞの病理診断医に限らず、そもそも医者というのは学力成績が良くなければなれない職業であるために、学力成績を短絡的に「頭が良い。」と解釈して何の疑いも持たないバカであれば、「象牙の塔」に閉じこもるパタンも少なくないのは必然的結果だと言えるでしょう。
自律的な論理検証を全く放棄しておいて、権威の査読に頼った盲目性を発揮して「マジメな科学的議論」だと思い込んでいること自体がバカ丸出しであることを、大衆の多くは認識していません。
科学と偽科学を区別出来ないというのは、社会安全性や持続可能性にとって重大な影響を与える可能性を持っています。
進化の過程で起こったことの全てに対し、事後正当化の屁理屈をこじつける現在の進化生物学の文脈に何の疑問も持たない頭の悪さから派生した「ヒトという種の生物=人間」という根拠のない文科系大衆観念の方程式を鵜呑みにしている無為な傍観放置をしているからこそ、人類はISILのようなオカルト暴力集団の蔓延をも許してしまっているのです。
通り魔がなぜ合理性の全くない暴力行為を「解決」だと見なして行動するのか。それは、普通の多数派一般大衆が「犯罪者には罰を与えて解決だ。」という短絡性と全く同じものであり、こうした短絡性が基になって通り魔のようなバカが出て来るのであって。その原因というのは一般大衆の頭の悪さや意識の低さがもたらした必然的結果でもあるのです。
人生経験の浅い幼児であれば、「道路に飛び出したら親に怒られるのが嫌だから、道路に飛び出さない。」といった短絡的行動原理でも仕方ないでしょうが。しかしこれは個人が自律的な社会的責任を負う一人の大人、一人の社会的人間としての行動規範にはならないのです。
中東由来の一神教における「神がいないのであれば、何をしても許される。」などという話も、結局は「アメとムチ」的な条件反射的行動原理に基づいた、子供じみた正義でしかありません。
社会安全性や持続可能性に価しない行動を個人が採ることにおいて、神などの他人が「許す」かどうかよりも、自分が生きるに価する社会とはどういう社会であるべきなのかという理想に基づいて導きだせば、自ずと何が「正しい行動選択」であるのかは認識可能なのであって。「戒律を破ると地獄に落ちるから、やらない。」といった子供じみた行動原理だからこそ、自分達と異なる価値観の他者を受けれない心の狭さをも発揮するようになってしまうのです。
そもそも「地獄に落ちるから。」などというのは、個人の利己性に基づいた行動原理ですから。社会安全性とか持続可能性への配慮が失われるのも必然です。
イスラム教の戒律であっても、法律と一緒で戒律の主旨こそが重要であって。「戒律さえ守って自分が天国に行ければ、この社会がどうなろうと知ったこっちゃない。」といった無責任な聖戦の安売りこそが、社会を破綻に陥れてしまう原因なのです。
宗教に限った話ではありませんが、自分が所属する組織集団を正当化することを目的にしてしまうからこそ、宗教が本来目的としているはずの平和が蔑ろにされるのでしょう。
それは東京電力が組織の利益を優先し、社員個人が自律的な社会的責任を負わなかったことと同じ構造なのです。
ことほど左様に、ヒトが無責任な行動を取る構造というものは、宗教でも企業でも子供のイジメであっても構造的にさしたる違いはありません。要するに感情が促す無意識な行動バイアスに流されているから、合理的な行動選択を採らなくなってしまうのであって、本当に大切なこととは何なのかを、無意識が促すバイアスに左右されずに考えていれば、自ずと人間として正しい判断は可能となるはずなのです。
しかし、ヒトの多くは成育環境によって無意識な行動ばかりを強要するような一種の因習による洗脳の「連鎖」をしてしまっているために、無意識な思考バイアスが促す錯覚を、錯覚であるとすら認識出来ずに目先の感情に流され、有効な行動選択が出来なくなってしまっているのです。
Ende;
幻の痛みというのは、観念的な恐怖心が産み出すものなんだそうで。痛みが幻であることを認知させることで恐怖心を解くことで無駄な恐怖心をなくすことで大部分の人は腰痛の改善が見られるらしい。
幻というのは、要するに錯覚の一種であると言える。
何度か経験した痛みによる恐怖体験が、脳に恐怖心を「学習」させてしまうことによって、本当は痛くないにも関わらず「痛いはずだ。」という恐怖心によって、かえって悪い姿勢をとってしまうために、筋肉痛などの関係のない痛みが生じて、さらに姿勢が悪くなってしまうというスパイラルに陥ってしまうのだろう。
「学習」というと、文科系大衆観念的には「頭が良くなること。」だと短絡的に思われているようだが。薬物依存なども脳が快楽を「学習」してしまうことなのである。
刑法懲罰を「解決」であると安心して、それ以上何も考えなくなってしまう性質も、ある種の「学習」による行動バイアスが作り出した思考停止である。
ISILやヤクザなどのオカルト暴力集団に対する盲目的に信頼してしまう構成員の行動というのも、一種の「学習」によって作り出されているのであって、「学習」というものは、一般的に思われているような「絶対的に頭が良くなること」だけを指しているわけではないのである。
学力偏差値が高い割には、教えられたこと以外何も気付かない人というのは珍しくはない。ISILや通り魔の中にも学生時代に学力偏差値が高かった人というのは少なくなく、そもそも学力偏差値を短絡的に知能の絶対基準か何かだと信じ込んで全く疑わない思考停止も、文科系大衆観念上における「学力偏差値=頭が良い。」という認知科学的にも根拠のない話を鵜呑みにしている結果である。
ヒトの多くは、長い間一度も疑うことなく受け入れて来てしまった事柄に対して。それを疑うことを全くしてこなかった自己を事後正当化する形で、無意識に現実認識を拒絶してしまう性質があります。
これこそが「洗脳」状態の盲目性の基本原理です。
ですから、洗脳状態というのは、あからさまなオカルトを信じ込んでいる人に限ったことではなく。むしろ一般大衆の多くは何らかのオカルト性や盲目性を持っており、軽い洗脳状態は誰もが程度の差こそあれ陥っているものであると考えるべきなのです。
振り込め詐欺の被害者の大半が、自分が騙されるまでは「自分だけは絶対に大丈夫。」だと、合理的な根拠もなく盲目的に過信しているというのも、ある種の洗脳状態が作り出した盲目性であり。その盲目性のスキを振り込め詐欺は突いてくるのです。
「長い間自分は騙されたことがない。」という経験則に基づいた過信というのは、科学的な立証にはなっていません。それこそがカールライムンドポパーの提唱した「白いスワン」の例えに他ならないからです。
白いスワンをどんなにたくさん集めて来ても、それは「スワンの全ては白い。」ことの論理証明には全くなっていないという例えです。
経済心理学の分野においても、「人は長く続くことは、永遠に続くものであると信じてしまう性質がある。」ために、危険な金融商品やギャンブルにハマってしまい、抜け出すことが出来なくなってしまう原因として挙げられています。
しかし、そもそもなぜ、いちいちポパーが「白いスワン」を例えなければならないのでしょうか。それこそがヒトという種の生物の脳が先天的に持つ思考バイアスによる錯覚が存在するからなのです。
刑法懲罰を「解決」であるという、社会的合理性のない社会制度に依存している現代人の多くの盲目性こそが。ISILや暴力団などのオカルト暴力集団を産みだしている原因であると言えます。
刑法懲罰というのは、構造的に罪に対する罰という暴力の応酬でしかありません。
言い換えれば、「悪い奴には圧倒的暴力による罰を与えて抑圧しておけば安心だ。」という、ヒトという種に普遍的に見られる短絡的かつ最終的解決方法への依存性を「学習」してしまっているが故の結果であり。
こうした短絡性を絶対正義であると仮定すれば、「それなら、圧倒的暴力を用いて自分が権力者の立場になれば、全ては欲望のままに行動可能である。」という結論に至ってしまいます。
こうした一般人が持っている短絡性が暴走したものが、ISILとか暴力団、通り魔の行動原理なのです。
◇
自律的な社会的責任判断が喪失する原因として、虐待の連鎖を例に挙げてみましょう。
虐待をされて育った人が、自分の子供にも無意識条件反射的に虐待を繰り返してしまうのが「虐待の連鎖」ですが。無意識に「虐待をしてしまう。」という行動の原因は、その人の成育環境に原因があるとも言えるわけであって、実際に子供に物理的被害が及んでから「自己責任」だとして全てを個人の責任に丸投げしていたのでは、虐待の連鎖は一向に改善することはありません。
「社会の中で虐待が放置されていた。」というのは、法律上は違法性がありませんが。それによって被害が減らないとか拡大してしまうという事態において、法律上違法ではないから、全ての責任が一切存在しないという話にはならないはずです。
法律さえ守っておけば、人間性が証明されるわけでも。社会安全性や持続可能性が保証されるわけでもありません。
ブラック経営者や脱法ドラッグなどの、社会的に無責任な行動というものも、合法的な反社会的行動であると言えるのであって。それと同じで虐待の連鎖も虐待を放置した社会にも一定の責任は存在すると言えるのであり、それを短絡的に刑法懲罰だけで「解決」であると見なしてしまうことは、社会的無責任さに目をつぶっていることになるわけです。
先天的に物事を冷静に考えることが出来ず、どうにも手に負えないような個体差があるというのであれば、これは精神病棟にでも入れておかなければならないでしょうが。ISILとか暴力団の異常性や病理というものは、現在の医学の範疇には入っておらず。むしろ現在の進化生物学上では本能的な社会形成習性による「コミュニケーション能力の高さ」を発揮することで、彼らの組織集団内部においては「うまく機能している。」とも言えるわけです。
こうした集団組織の利益を追求するメカニズムというのは、オカルト暴力集団に限ったことではなく、ナチス政権下のドイツでも、終戦前の日本帝国においても、東京電力や東芝社内においても発揮されていたものであり。ヒト全般に普遍的に存在する傾向性に因るものなのです。
文科系大衆観念的には、「時代が悪かった。」などという、反証不可能な非科学的帰結でごまかそうとしますが。そもそも時代に左右されてしまうという意識の低さ、意思薄弱こそが社会を崩壊へと導いたのであって。それを時代や社会のせいにしてしまうこと自体が無責任極まりないのです。
大衆の多くがこうした無責任で無為な行動を採ってしまうのは、無力性を「学習」してしまった故の結果です。
文科系大衆観念的には、先天的習性や後天的に「学習」されてしまった無意識な行動には短絡的に「逆らえない。」などという、バカげた言い逃れ、取り繕い、はぐらかし、ごまかし、嘘を、ほとんど条件反射的高速に言い出す人が大半です。
その原因こそが、大多数の大衆の意識の低さ(自律的論理検証性の欠落)に由来するものなのです。
なぜ高速なのか、それは実質的には「何も考えていない。」からこそ高速に反論可能なのです。
言語発話機能などと同様に、無意識条件反射な運動機能と同じで、口や喉の形や息の量などをいちいち考えなくても話が出来ることと同じように。ヒトの意識の大部分は自律的な論理検証を一切せずに、機械的条件反射で無意識に物事を判断しているからこそ、ヒトの大半は無為で無批判な「凡人」に甘んじているのです。
大衆の多くは単に無為な傍観放置をしている人が大半ですが、中には学力成績の高さを短絡的に「自分は天才だ。」と勘違いして、どこぞの病理診断医が述べたように、「権威の査読がない。」ことを根拠に自律的判断を放棄する無責任な言動も、条件反射的な無意識が促した拒絶反応の顕れです。
京都大学の学長という権威が嘘をついている(若しくは大きな間違いをしている。)ことを批判しているのに、どうして「権威の査読」が有効だと言えるでしょうか。アホくさくて語るにすら足りません。
口をついて反射的に思いつく言葉の大半は、論理検証性を持たない「思い込み」です。 感情的になって条件反射的に高速に何かを主張している時ほど、冷静な論理的検証を欠いた観念に過ぎないかも知れないという慎重さを持つ必要があるのです。しかし、ヒトの多くは即座に何かを主張した方が「頭が良い」といった観念を持っており。自信たっぷりに主張してさえおけば論理的に正しいことであるかのような錯覚にも簡単に陥る習性があるため、高速で自信に満ちた主張でありさえすれば、短絡的に信じ込んでしまうのです。
時間をかけてゆっくり導き出した答というものに対しては、大衆マスコミの多くは観念的な「説得力」を「感じる」ことが出来ないために。逆に高速で自信に満ちた主張の方を正しいと錯覚してしまうことが多いのです。
自分の中に既に組み込まれてしまった思考拘束の殻の中に閉じこもっていた方が、ヒトの多くは「楽」に違いないでしょう。自分の頭の悪さを一切認識せず、気に入らない相手を条件反射的に見下して誹謗中傷しておけば、その場限りには満足で安心なのかも知れません。
どこぞの病理診断医に限らず、そもそも医者というのは学力成績が良くなければなれない職業であるために、学力成績を短絡的に「頭が良い。」と解釈して何の疑いも持たないバカであれば、「象牙の塔」に閉じこもるパタンも少なくないのは必然的結果だと言えるでしょう。
自律的な論理検証を全く放棄しておいて、権威の査読に頼った盲目性を発揮して「マジメな科学的議論」だと思い込んでいること自体がバカ丸出しであることを、大衆の多くは認識していません。
科学と偽科学を区別出来ないというのは、社会安全性や持続可能性にとって重大な影響を与える可能性を持っています。
進化の過程で起こったことの全てに対し、事後正当化の屁理屈をこじつける現在の進化生物学の文脈に何の疑問も持たない頭の悪さから派生した「ヒトという種の生物=人間」という根拠のない文科系大衆観念の方程式を鵜呑みにしている無為な傍観放置をしているからこそ、人類はISILのようなオカルト暴力集団の蔓延をも許してしまっているのです。
通り魔がなぜ合理性の全くない暴力行為を「解決」だと見なして行動するのか。それは、普通の多数派一般大衆が「犯罪者には罰を与えて解決だ。」という短絡性と全く同じものであり、こうした短絡性が基になって通り魔のようなバカが出て来るのであって。その原因というのは一般大衆の頭の悪さや意識の低さがもたらした必然的結果でもあるのです。
人生経験の浅い幼児であれば、「道路に飛び出したら親に怒られるのが嫌だから、道路に飛び出さない。」といった短絡的行動原理でも仕方ないでしょうが。しかしこれは個人が自律的な社会的責任を負う一人の大人、一人の社会的人間としての行動規範にはならないのです。
中東由来の一神教における「神がいないのであれば、何をしても許される。」などという話も、結局は「アメとムチ」的な条件反射的行動原理に基づいた、子供じみた正義でしかありません。
社会安全性や持続可能性に価しない行動を個人が採ることにおいて、神などの他人が「許す」かどうかよりも、自分が生きるに価する社会とはどういう社会であるべきなのかという理想に基づいて導きだせば、自ずと何が「正しい行動選択」であるのかは認識可能なのであって。「戒律を破ると地獄に落ちるから、やらない。」といった子供じみた行動原理だからこそ、自分達と異なる価値観の他者を受けれない心の狭さをも発揮するようになってしまうのです。
そもそも「地獄に落ちるから。」などというのは、個人の利己性に基づいた行動原理ですから。社会安全性とか持続可能性への配慮が失われるのも必然です。
イスラム教の戒律であっても、法律と一緒で戒律の主旨こそが重要であって。「戒律さえ守って自分が天国に行ければ、この社会がどうなろうと知ったこっちゃない。」といった無責任な聖戦の安売りこそが、社会を破綻に陥れてしまう原因なのです。
宗教に限った話ではありませんが、自分が所属する組織集団を正当化することを目的にしてしまうからこそ、宗教が本来目的としているはずの平和が蔑ろにされるのでしょう。
それは東京電力が組織の利益を優先し、社員個人が自律的な社会的責任を負わなかったことと同じ構造なのです。
ことほど左様に、ヒトが無責任な行動を取る構造というものは、宗教でも企業でも子供のイジメであっても構造的にさしたる違いはありません。要するに感情が促す無意識な行動バイアスに流されているから、合理的な行動選択を採らなくなってしまうのであって、本当に大切なこととは何なのかを、無意識が促すバイアスに左右されずに考えていれば、自ずと人間として正しい判断は可能となるはずなのです。
しかし、ヒトの多くは成育環境によって無意識な行動ばかりを強要するような一種の因習による洗脳の「連鎖」をしてしまっているために、無意識な思考バイアスが促す錯覚を、錯覚であるとすら認識出来ずに目先の感情に流され、有効な行動選択が出来なくなってしまっているのです。
Ende;