芸術などの表現においては、結論とか順位といったものは要らないんですよ。
ところが日本人の多くは絵画や写真に対して言語上の意味に言及しようとしたがる。
「何が描いてあるんですか?。」とか、
「どこが良いんですか?。」
なんてね。
そもそも、その絵画なり写真の良さなんていうのは、「どこ」といった言語で説明する必要性を持ったものではなくて。作品を見た当人の主観的感想でしかないことを、自分以外の他人に尋ねたりしている時点で全く無意味な質問なんですよ。
抽象絵画を見て、「何が描いてあるか」を尋ねるなんていうのも全くの無意味であり、ナンセンスとしか言いようがありません。抽象絵画というのはその絵を見て直感的に何を感じるかが作品の主旨であって、「何」かどうかに意味なんぞないのに、「何が描いてあるのか」をなぜ確定する必要性があるんでしょうか。
「この作品は、かくかくしかじかこういった屁理屈で優れている。」といった、なにがしかの世間の統一的結論のようなものを欲したがるのは。その作品を個人的、主観的に好きであることを他人から見て正常かどうかを確認したいだけでしょう。
なんですかね。 特定の作品を見て感じる主観的感覚が、多数他人と同じでなければいけない理由のようなものでもあるんでしょうか。
もし、理由があるとすれば、それは自分の主観的感覚というものが多数他人と同じであることを確認することで、あたかも自分が他人と較べて正常であるとか、優れていることの証明か何かを求めているんでしょうかね。それは作品そのものを純粋に良いとか悪いと感じることが目的ではなくて、自分が他人と較べて正常で優れていることの証明が目的なんでしょうね。
だから結論を欲しがる。
事故とか事件といった事象においては結論とか原因究明は大切ですよ。そりゃ社会的意味がありますから。
でもね、芸術表現というのは個人の主観的価値観に基づくものであって、多数他人が良いと思わないものを好きであっても構わないものなんですよ。
多数派同調圧力がもたらす強迫観念が、日本人は強烈であるが故に多数他人との感覚の差にばかり意識が働いてしまうからこそ、芸術の評価に対して在りもしない屁理屈としての結論を欲しがるということなんでしょう。
こうした一種の錯覚というのは、主観と客観の明確な区別がついていないのが原因です。
主観と客観の区別がつかなければ、主観がもたらす気分感情には何らかの意味が存在するはずだという錯覚の原因ともなります。それは同時に先天的本能習性の事後正当化の屁理屈をも必要とすることにもつながるわけです。
「生存」というものが生物の目的であるという錯覚も、主観と錯覚の区別がつかない故の誤謬(ごびゅう)です。
あなたが主観的、個人的に「死にたくない」という感覚は、生物の目的として予め用意されたものなどではなく。その感覚をどんなに統計的多数を集計しても、生物というものは結果的に生存しているものを生物と分類しているに過ぎない事実を捩曲げる理由には一切ならないのです。
脳の常習系が促す生存への執着というのは、それが結果的に生存にとって適していた結果ではあっても。その感情の強度程度をどんなに多数決的に集計共有しても、生存は生物の意識的目的であることの論理証明にはならないのです。
「命は大切」とでも述べておけば大衆人気は得られるでしょう。
それさえ述べておけば世界平和に貢献出来るかのように錯覚することも簡単です。
でも、その「生存」への異常執着こそがナチズムを支えた優生学の誤謬の原因ともなっているのです。
「遺伝的に優秀な個体が遺るためには、劣った遺伝要素を持った個体は淘汰されなければならない。」これが進化生物学上の正義というものです。
こうした残虐性というのも、結局は「命は大切」だという大義名分の上に構築されたものであって。命が大切ならユダヤ人救済などというリスクを避けて当時のナチス政府に迎合した方が「生存に適した行動である。」とも言えるのです。
生存は結果であって、先天性疾患で子孫を遺せない身体であっても存在を認める寛容さを持つためには、それを許容可能な持続可能性や安全性こそを社会に求めるという、本質的合理性の追求が不可欠なのです。
「命は大切だ。」とでも述べておけば、何も考えない愚かな大衆の人気取りは簡単に出来るでしょうけども、個体の生存を根拠に他人に危害を加える理由にもなりうる屁理屈の傍観放置にもなってしまう無責任な実証不能の観念の原因でもあるのです。
「一つのパンを10人で分けたら全員死んでしまう。」というのであれば、一人で占有してその場限りに生き残ったとして、その後どうするつもりなんでしょう。
人は一人では生きられないのであって、自分の子供が先天性疾患で生まれたら許容されない社会に何の価値があるでしょうか。
遺伝的により優秀な個体以外が蔑ろにされる社会は「安全」だと言えますか?
その社会に持続可能性があると、本気で思っているのでしょうか。
その場限りに優しい気持ちにさえなっておけば、「自分は人間性を持った優秀な個体である。」とでも勝手に妄想して満足することは簡単でしょう。
そうしたその場限りの気分的安心満足だけ追求しているからこそ、本気で合理性を追求することが出来なくなり。結果的に本当に重要なことは何なのかすら認識出来なくなってしまうのです。
「一つのパンを10人で分けたら全員死んでしまう。」ような状況なら、私は全員で分けて仲良く死んだ方が心安らかに最後を迎えられると思います。
要はそうした過酷な状況に陥らないための合理的対策や準備を整えることが先決であって、他人を殺してまで生き残ることに「目的」を見出だすことに意味はないのです。
何でしょう、そんなに自然界の掟が大好きならば、服も着ないで素手でマサイマラ国立公園の中で生活したらよろしいんじゃないですかね。遺伝的に優秀ならそれでも生きていけるんじゃないですか。
私はそんなことまでして「生きている。」ことに意味があるとは思っていませんけど。命がそんなに重要で、生存することに絶対的価値が存在するというのなら、エイリアンみたいな完全生命体にでも進化することが目的なんでしょうかね。
その「目的」に人間性とか心といったものが存在するとでも思っているんでしょうかね。
ニーチェの言う「超人」って、一体何が「目的」なんでしょうかね。
ゾロアスター教における「超人」論というのは、要するに思考停止に陥って自分が何を考えても無意味であるという、一種の諦めに基づく気分的安心満足を得ることが目的であって。 むしろ科学や哲学としての「考え」を放棄するための屁理屈だということを、文科系学部は認識していないんですね。
本当の意味で論理的に純粋に「考える」というのは、主観的気分から切り離す必要性があります。
ところが文科系の人というのは、哲学として純粋に物事を「考える」ことが目的ではなくて、哲学っぽい書物に書いてあることを鵜呑みにして気分的に安心満足することだけが目的であるために、カントの純粋理性批判やゾロアスター教を簡単に鵜呑みにして、何の批判精神も発揮されることもないのです。
図書館や書店で「哲学」に分類されていれば哲学だと思うのは大間違いで、哲学書の大部分は実際には哲学でも何でもない観念論の羅列でしかありません。
論文の引用数では人気のプラトンであっても、科学哲学者カール:ライムンド:ポパーからすれば批判対象でしかありませn。
文科系バカ学者からすれば権威主義か個人主義かのバランス問題か何かだと結論づけられがちですが、それは論理的検証を全くしていない観念的「解釈」でしかなく、論理的には何も「理解」などしていないのです。
◇
もし、エイリアンが地球上で繁殖したとして、それで生態系が成立するでしょうか。
おそらくエイリアンは大量繁殖した後に、ウイルスに罹って絶滅するでしょう。
進化(変異)の速度は多細胞生物よりもウイルスの方が圧倒的に速いですから、どんなに健康なエイリアンとて環境生態系とのバランスなしに持続可能性など持ち得ないのです。
そもそも肉食動物などの生態系の頂点というのは、その他の生物によって形成される生態系ピラミッド全体なくして存続することは不可能なのであって、むやみやたらと「つよい」ことに意味などないのです。
遺伝子に目的など最初から存在しませんから、「超人」のような一種の結論というのも理論的に立証不可能なんですよ。
進化(変異)の先に何か目的とか究極が存在すると思っていること自体が、そもそも文科系妄想(お伽話)に過ぎないのであって。本当の意味で人類が進歩するためには先天的な習性が促す思考バイアスに左右されない純粋な論理検証性を持つ必要性があるのです。
それは遺伝的要素とは関係がありません。 まあ、先天的に論理思考が苦手であるというのであれば仕方ないかもしれませんが。 それなら感情や観念が優先してしまう個体が、先天的に論理検証が得意な個体に論理検証を丸投げすることが出来るでしょうか。
まあ、無理でしょうね。
それが出来れば私もこんなに苦労せずに済むんですけどね。
Ende;
ところが日本人の多くは絵画や写真に対して言語上の意味に言及しようとしたがる。
「何が描いてあるんですか?。」とか、
「どこが良いんですか?。」
なんてね。
そもそも、その絵画なり写真の良さなんていうのは、「どこ」といった言語で説明する必要性を持ったものではなくて。作品を見た当人の主観的感想でしかないことを、自分以外の他人に尋ねたりしている時点で全く無意味な質問なんですよ。
抽象絵画を見て、「何が描いてあるか」を尋ねるなんていうのも全くの無意味であり、ナンセンスとしか言いようがありません。抽象絵画というのはその絵を見て直感的に何を感じるかが作品の主旨であって、「何」かどうかに意味なんぞないのに、「何が描いてあるのか」をなぜ確定する必要性があるんでしょうか。
「この作品は、かくかくしかじかこういった屁理屈で優れている。」といった、なにがしかの世間の統一的結論のようなものを欲したがるのは。その作品を個人的、主観的に好きであることを他人から見て正常かどうかを確認したいだけでしょう。
なんですかね。 特定の作品を見て感じる主観的感覚が、多数他人と同じでなければいけない理由のようなものでもあるんでしょうか。
もし、理由があるとすれば、それは自分の主観的感覚というものが多数他人と同じであることを確認することで、あたかも自分が他人と較べて正常であるとか、優れていることの証明か何かを求めているんでしょうかね。それは作品そのものを純粋に良いとか悪いと感じることが目的ではなくて、自分が他人と較べて正常で優れていることの証明が目的なんでしょうね。
だから結論を欲しがる。
事故とか事件といった事象においては結論とか原因究明は大切ですよ。そりゃ社会的意味がありますから。
でもね、芸術表現というのは個人の主観的価値観に基づくものであって、多数他人が良いと思わないものを好きであっても構わないものなんですよ。
多数派同調圧力がもたらす強迫観念が、日本人は強烈であるが故に多数他人との感覚の差にばかり意識が働いてしまうからこそ、芸術の評価に対して在りもしない屁理屈としての結論を欲しがるということなんでしょう。
こうした一種の錯覚というのは、主観と客観の明確な区別がついていないのが原因です。
主観と客観の区別がつかなければ、主観がもたらす気分感情には何らかの意味が存在するはずだという錯覚の原因ともなります。それは同時に先天的本能習性の事後正当化の屁理屈をも必要とすることにもつながるわけです。
「生存」というものが生物の目的であるという錯覚も、主観と錯覚の区別がつかない故の誤謬(ごびゅう)です。
あなたが主観的、個人的に「死にたくない」という感覚は、生物の目的として予め用意されたものなどではなく。その感覚をどんなに統計的多数を集計しても、生物というものは結果的に生存しているものを生物と分類しているに過ぎない事実を捩曲げる理由には一切ならないのです。
脳の常習系が促す生存への執着というのは、それが結果的に生存にとって適していた結果ではあっても。その感情の強度程度をどんなに多数決的に集計共有しても、生存は生物の意識的目的であることの論理証明にはならないのです。
「命は大切」とでも述べておけば大衆人気は得られるでしょう。
それさえ述べておけば世界平和に貢献出来るかのように錯覚することも簡単です。
でも、その「生存」への異常執着こそがナチズムを支えた優生学の誤謬の原因ともなっているのです。
「遺伝的に優秀な個体が遺るためには、劣った遺伝要素を持った個体は淘汰されなければならない。」これが進化生物学上の正義というものです。
こうした残虐性というのも、結局は「命は大切」だという大義名分の上に構築されたものであって。命が大切ならユダヤ人救済などというリスクを避けて当時のナチス政府に迎合した方が「生存に適した行動である。」とも言えるのです。
生存は結果であって、先天性疾患で子孫を遺せない身体であっても存在を認める寛容さを持つためには、それを許容可能な持続可能性や安全性こそを社会に求めるという、本質的合理性の追求が不可欠なのです。
「命は大切だ。」とでも述べておけば、何も考えない愚かな大衆の人気取りは簡単に出来るでしょうけども、個体の生存を根拠に他人に危害を加える理由にもなりうる屁理屈の傍観放置にもなってしまう無責任な実証不能の観念の原因でもあるのです。
「一つのパンを10人で分けたら全員死んでしまう。」というのであれば、一人で占有してその場限りに生き残ったとして、その後どうするつもりなんでしょう。
人は一人では生きられないのであって、自分の子供が先天性疾患で生まれたら許容されない社会に何の価値があるでしょうか。
遺伝的により優秀な個体以外が蔑ろにされる社会は「安全」だと言えますか?
その社会に持続可能性があると、本気で思っているのでしょうか。
その場限りに優しい気持ちにさえなっておけば、「自分は人間性を持った優秀な個体である。」とでも勝手に妄想して満足することは簡単でしょう。
そうしたその場限りの気分的安心満足だけ追求しているからこそ、本気で合理性を追求することが出来なくなり。結果的に本当に重要なことは何なのかすら認識出来なくなってしまうのです。
「一つのパンを10人で分けたら全員死んでしまう。」ような状況なら、私は全員で分けて仲良く死んだ方が心安らかに最後を迎えられると思います。
要はそうした過酷な状況に陥らないための合理的対策や準備を整えることが先決であって、他人を殺してまで生き残ることに「目的」を見出だすことに意味はないのです。
何でしょう、そんなに自然界の掟が大好きならば、服も着ないで素手でマサイマラ国立公園の中で生活したらよろしいんじゃないですかね。遺伝的に優秀ならそれでも生きていけるんじゃないですか。
私はそんなことまでして「生きている。」ことに意味があるとは思っていませんけど。命がそんなに重要で、生存することに絶対的価値が存在するというのなら、エイリアンみたいな完全生命体にでも進化することが目的なんでしょうかね。
その「目的」に人間性とか心といったものが存在するとでも思っているんでしょうかね。
ニーチェの言う「超人」って、一体何が「目的」なんでしょうかね。
ゾロアスター教における「超人」論というのは、要するに思考停止に陥って自分が何を考えても無意味であるという、一種の諦めに基づく気分的安心満足を得ることが目的であって。 むしろ科学や哲学としての「考え」を放棄するための屁理屈だということを、文科系学部は認識していないんですね。
本当の意味で論理的に純粋に「考える」というのは、主観的気分から切り離す必要性があります。
ところが文科系の人というのは、哲学として純粋に物事を「考える」ことが目的ではなくて、哲学っぽい書物に書いてあることを鵜呑みにして気分的に安心満足することだけが目的であるために、カントの純粋理性批判やゾロアスター教を簡単に鵜呑みにして、何の批判精神も発揮されることもないのです。
図書館や書店で「哲学」に分類されていれば哲学だと思うのは大間違いで、哲学書の大部分は実際には哲学でも何でもない観念論の羅列でしかありません。
論文の引用数では人気のプラトンであっても、科学哲学者カール:ライムンド:ポパーからすれば批判対象でしかありませn。
文科系バカ学者からすれば権威主義か個人主義かのバランス問題か何かだと結論づけられがちですが、それは論理的検証を全くしていない観念的「解釈」でしかなく、論理的には何も「理解」などしていないのです。
◇
もし、エイリアンが地球上で繁殖したとして、それで生態系が成立するでしょうか。
おそらくエイリアンは大量繁殖した後に、ウイルスに罹って絶滅するでしょう。
進化(変異)の速度は多細胞生物よりもウイルスの方が圧倒的に速いですから、どんなに健康なエイリアンとて環境生態系とのバランスなしに持続可能性など持ち得ないのです。
そもそも肉食動物などの生態系の頂点というのは、その他の生物によって形成される生態系ピラミッド全体なくして存続することは不可能なのであって、むやみやたらと「つよい」ことに意味などないのです。
遺伝子に目的など最初から存在しませんから、「超人」のような一種の結論というのも理論的に立証不可能なんですよ。
進化(変異)の先に何か目的とか究極が存在すると思っていること自体が、そもそも文科系妄想(お伽話)に過ぎないのであって。本当の意味で人類が進歩するためには先天的な習性が促す思考バイアスに左右されない純粋な論理検証性を持つ必要性があるのです。
それは遺伝的要素とは関係がありません。 まあ、先天的に論理思考が苦手であるというのであれば仕方ないかもしれませんが。 それなら感情や観念が優先してしまう個体が、先天的に論理検証が得意な個体に論理検証を丸投げすることが出来るでしょうか。
まあ、無理でしょうね。
それが出来れば私もこんなに苦労せずに済むんですけどね。
Ende;