意識の高さというものには個人差があり、これはスペクトラムである。
完全な意識を持つことというのは有限の脳しか持たないヒトには原理的に不可能なことであり。また、先天的或は後天的要因によって意識の高さを得られ難い場合というのも考えられる。
例えば虐待を受けて育った人が虐待を自分の子供にまで連鎖してしまうという事例は、後天的要因によるものである。
従って、より高い意識を持った人が、低い意識しか持つことの出来ない人に対して行うべき行動とは。当人の意識の低さを認識出来るよう促すことである。
ところが、犯罪者という社会的に無責任な行動を採る人に対して、現在の社会制度は司法刑罰などという短絡的手続きしか整備されていない。
例えばである。
強盗殺人で懲役25年の刑を終えた犯罪者が、出所後数週間で再び殺人を犯すという事例が時折あるわけだが。それなら一体司法刑罰とは社会的に何の意味があるのかを考えた人はいるだろうか。
偉そうに検察だの弁護だの判事だのと司法に関わる奴らは高い給料で国費を浪費しながら、実質的には犯罪というものの論理的原因究明や再発防止というものに一切貢献していないのである。
犯罪者が出所後に再犯したとしても、その責任は司法役人達の誰一人として責任を持たない。では一体彼らは何のために司法制度を維持しているのかと言えば、法律を守ることを目的としているのであって、法制度さえ維持しておけば、その結果社会的損失が出ようが、社会が破綻しようが一切感知しないのである。
裁判で大金を浪費し、刑が確定しても犯罪者を何年も刑務所に入れておくためには更に税金が浪費された上に、刑務所から出所した犯罪者の40%が再び犯罪を犯して社会的損失を生じていることに対し、司法役人達の誰一人として、国会議員の誰一人として、市民の大多数もまた、それを問題であるとさえ一切認識していないというのは。もはや集団洗脳の一種と言っても過言ではない。
犯罪が起きると、ヒトという種の生物は短絡的に報復さえしておけば全てが解決すると錯覚しがちである。
というか、ほとんどそれしかない。
殴られたら、殴り返す。「目には目を、歯には歯を。」というハムラビ法典の原理自体が、社会的には役に立たない観念論、感情的満足安心の追求にしかなっていないのである。
面倒臭いのは、ヒトの多くは自分自身で物事を考え判断するということを忌避し、「多数派=正常」という短絡的な観念ばかりを優先する性質があるために。少数派異端である本論を大多数のヒト達が無視し続けるという意識の低さを存分に発揮していることである。
犯罪というのは、ヒトの個体差が存在する以上必ず発生すると言えるだろう。「ヒトは間違えるもの。」だからである。
これはヒトという種の生物が、どこかの家電メーカーの製造責任のように、神の製造責任が問えるようなものではなく。ヒトという種の生物は自然の産物であり、誰の責任でもない「結果」でしかない以上避けようのない現実である。
それなら、こうした出来損ないの「ヒト」である私達が、次世代の子供達にどのような社会を遺せるのかを考えた場合。ただ漫然とハムラビ法典に従って不毛な司法刑罰制度を維持し続けることにどれだけの価値が存在するのかを考え直す必要性がある。
個人が自律的に社会的責任判断を行わなくなる原因とは何か。それは目先の感情や欲望に囚われ、自分が生き続けるに価する社会とはどういう姿なのかを考える余裕が失われるという、意識(論理検証性)の狭窄である。
現在の司法刑罰制度に何の疑問も持たない一般市民の意識の低さも、程度の差こそあれ、こうした意識狭窄性が促している無意識性の「結果」なのである。
冒頭に述べたように、意識の低さというのはスペクトラムであり、程度問題である。だが、程度問題なのは「結果」であって、ただ漫然と「結果」に流されておいても構わないなどという短絡的でバカげた結論に達しておけば良いというものではない。こうした短絡的「解釈」によって論理検証を放棄しておけば、大衆の大多数は気分的には楽なのかも知れないが。その結果、自分が犯罪やテロに巻き込まれてから「どうしてこんなことになってしまったのだろうか。」などと他人に問いかけても愚かという以外形容のしようがない。
ヒトという種の生物は基本的に出来損ないである以上、より安全性や社会持続可能性を担保するためには。誰もが意識の高さ(自律的論理検証)を追求し続ける必要性がある。
これは、特定の技術者や犯罪者、精神疾患者にだけ丸投げしておけば良いというものではなく。全ての人が常に追求し続けなければならない「人間としての義務」なのである。
なんていう従来の常識を覆すようなことを言うと、「そりゃ大変だ。」とばかりに焦ってトンチンカンなオカルトに走る人もいるようなのだが。本論が最も懸念しているのが「焦り」などの感情によって論理検証性が失われることによって、意識狭窄が生じてしまうことなのである。
本質的な意識である論理検証性というものは、あらゆる気分感情が促す思考バイアスを客観的に排除し。本当に重要なのは一体何なのかを考えることによって、自ずと導き出される「目的」意識に基づいた「考え」なのである。
しかし、ヒトという種の生物というのは先天的に気分感情が行動や思考を支配しがちな習性があるため、先天的に論理検証することが苦手なように出来ているのである。
これは、ヒトという種の生物が先天的に意識が低くなる性質が存在することを意味する。
ヒトという種の生物は、先天的には「人間」ではないのだ。
ところが、概ね平和な生活をしていると。あたかも「ヒト=人間」という短絡的方程式が常に成立しているという錯覚に陥り、進化生物学や文科系大衆観念上ではこうした方程式がまかり通ってしまっているのである。
これは大衆迎合のため、多数派人気取りのための「嘘」であり。それによって金儲けに成功するというのは合法的詐欺に他ならない。
誰が嘘つきなのかって? だからさしあたっては京大学長とか霊長類研究所だよ。他にもいっぱいいるけどさ。
◇
ヒトという種の生物は、ヒトになる前の何億年もの間に、脳に様々な行動習性が組み込まれてきている。生物が生存しているのは、生存に適した行動を採った「結果」であり、嘘でも暴力でも何でも手段は構わないから「生きて」さえいれば遺伝子が遺されるた「結果」として我々は現状存在するのである。
ヒトという種の生物は、個体では他の野生生物と較べてそんなに強い生物ではない。それでも子孫が遺せたのは集団で協調的に行動する習性があったからである。
ヒトの場合は多少なりとも論理的に物事を考えることや言語による意思疎通が可能であるために、狩りなどの特定の目的行動を採る際にはお互いの考えを共有することが可能であるが。これはイヌなどの脳の容積がもっと少ない生物でも可能な行動でもある。
言語を持たぬサルでも可能な集団組織的協調行動というのは、社会形成習性を持つ様々な生物において先天的に組み込まれた行動バイアスであり。彼らはとりたてて「生きるために。」などといった目的意識に基づいて行動しているわけではなく。その証拠に利他的行動などの直接的な脳への報酬が得られない行動は簡単に放棄してしまう。
社会全体の持続可能性だとか、個体の安全性なんてことはサルの脳とか振り込め詐欺師の脳にはないのである。
だが、こうした無責任さというのは。司法刑罰などという不毛な制度に何の疑問も持たない大多数の民衆の脳と、程度の差こそあれ無責任であることに違いはなく。所詮は「個体差」に過ぎないのである。
サルが無責任なのは先天的に仕方ないとしても、特に脳に障害もない振り込め詐欺師が無責任なのは看過するわけにはいかないし。それは現状の司法制度などという不毛な金の無駄遣いに何の疑問も持たない一般市民の無責任さも同様である。
「自分は法律を犯していないから、それ以上何の責任も持たなくても構わない。」という短絡的発想は、司法役人達の「法制度さえ維持しておけば全ては解決。」という短絡性と同根である。
「これさえやっときゃ、全ては解決。」という安易で短絡的解決策さえ提示しておけば、大多数の愚かな大衆は気分的に安心満足し。その解決策に対する問題点も、根源的間違いにも気付くことはない。
気分感情というものが、ヒトから論理的思考を奪う性質が先天的に存在するために。ヒトは簡単にバカに陥るのである。
「イスラム教徒を排除しておけばアメリカは安全だ。」などという、キチガイとしか思えない話をアメリカ共和党員の40%が信じているなどというのは論外であるが。 何も考えない大多数の大衆というのは、所詮そんなものなのであろう。
脱法ドラッグが危険であるのと同様、法律上違法でなくても社会安全性や持続可能性から逸脱した行為というのは存在するのであり。それは「法律さえ守っておけば、全ては解決。」するような安易で簡単なものではない。
一部のヒトの無責任な行動を国家権力で抑圧した結果、無責任ではない人の行動までをも一括して規制してしまうことによる社会的損失というのは計り知れない。
「あれはダメ、これはダメ。」そんな規制だらけの社会制度下で、一体何が「一億総活躍社会」であろう。
重要なのは国家権力によって市民の行動を抑圧することではなく、市民一人一人が自律的に社会的責任を持って行動することが社会効率の点においても有効なのであって。マンションの杭の一本一本までをも役所が管理しなければならないというのであれば、もはや市民一人一人の行動の全てを役人が朝から晩まで監視し続けなければならないことになるのである。
そのような社会においては、監視する役人の行動責任を誰が取るというのであろうか。役人を監視する役人を雇って、更にそれを監視する役人を雇うことにならざるを得ないわけであり。監視や規制、抑圧を用いた社会というのは、とんでもなく効率が悪い社会であり。結局は個人の自律的な社会的責任が必要なのであり、監視や規制というのは危険情報の共有程度の意味しか持っていないのである。
私は刑法廃止論者であるが、刑法罰が恐くて犯罪に手を出さない者が一定数存在する時点では社会制度としての刑法廃止は事実上不可能であろうことは充分承知している。刑法廃止というのはあくまで論理的理想であって、何年先になるのかはわからないし、果たして実現可能なのかもわからないが、そこに至るまでのロードマップとしての個人の自律的な社会的責任判断力というものの社会的効率には充分意味こそが重要なのである。
刑法廃止が目的なのではなく、犯罪や事故を減らすことの先にあるのが刑法廃止論なのである。
無責任な者が多ければ多い程社会効率は悪くなる。暗闇が犯罪の温床になるからこそ誰も通らない道にも街路灯を燈し続けなければならないのであり。安全な社会というのは国家権力による法令遵守によって作られるものではなく、あくまで市民一人一人の意識によって成立すべきものなのである。
突発的テロや通り魔というものは、犯罪が起きてからの警察の取締りではどうにも対処出来ない。警察役人は神ではないので、一人一人の行動の全てを把握出来るわけがないのである。
テロや通り魔といった暴力的恐怖で社会を操作しようとする考え方そのものが根本的に間違っているのである。それは国家政府が市民を恐怖で抑圧しようとする考え方と全く同じものであり。恐怖政治による独裁政権に持続可能性や安全性、効率の面において極めて不利であることは明らかである。
「法律さえ守らせておけば、全ては完璧。」などというのは、法律家や為政者の勝手な妄想でしかなく。オカルト宗教レベルの話でしかない。
人畜無害な行為であっても現状法規に違反していれば、役人達は機械手続き的に取り締まるばかりで。その法律の主旨とか社会的意義になど一切感知しない。そこに「人間」がいないからこそ、法手続きだけが暴走するという結果に至るのであり、結局は法を運用する役人の方にも「その取り締まりに社会的価値があるのか。」を考えるという知性、論理性が不可欠なのである。
ヒトという種の生物は、その場限りの気分感情によって、民族とか宗教とか国籍といった分類だけで他人を差別する習性がある。そういった短絡的で安易な最終解決策の方が愚かな大衆のご機嫌取りには適しているのであろう。だが、こうした頭の悪さこそがISILやナチズムのような残虐行為の根源的原因なのである。
では、なぜISILの構成員や、通り魔などの短絡的最終解決策しか思いつかないという意識狭窄性が発揮されてしまうのか。その原因として考えられるのは。一つは先天的要因かも知れないが、彼らの脳は日常生活を営むには不都合のない「普通」で平均的な知能程度はあるのみならず、むしろ学力成績は高い傾向というのも見られることからも。彼らの思考パタンというものの中に共通して存在する思考停止バイアスによる論理的思考停止がある。
そして、この思考停止バイアスや論理検証性の喪失というのは、ISILやナチス政権下のドイツ人に限らず、あらゆるヒトの中に先天的に存在するという事実を踏まえて対策を考える必要性がある。
「通り魔が出たから死刑だ。」とか、「ISILは絶滅させれば解決する。」といった短絡性こそが、むしろ彼らの短絡性と全く同じものなのである。
それは、単なる「バカの応酬」にしかならない。
ISILには、いわば普通の若者が憧れる「格好良さ」がある。その「格好良さ」とは、感覚的な快楽によって促される行動バイアスによるものであり、そこに合理的根拠とか目的意識が存在するわけではなく。あくまでヒトという種の生物の先天的な行動バイアスとして組み込まれているものに過ぎない。
すなはち、同じヒトである以上こうした先天的行動バイアスというものは誰にでも存在するものであり、ヒトの大半はISILやナチズムに傾倒する可能性を持った暴力者予備軍であるということを認識する必要性があるのだ。
「自分だけは、絶対大丈夫だ。」などと「思う」人も少なくないかも知れないが、それは論理的根拠のない過信に過ぎない。なぜなら、ヒトというのは自分自身の脳の構造には一切関与していないからである。
自分の遺伝子を自分では選択していない以上、自分の脳の構造には自分は関与していないのであり。その場限りにISILや暴力団を個人的に嫌いかどうかだけでは人間性の論証には全くならないからである。
脳の構造、特に動物的行動バイアスを作り出す大脳辺縁系の構造というのは、ヒトに進化(変化)する以前の生存競争の中で淘汰によって遺されてきたものであり。自分の祖先がどのような行動選択によって生き延びてきたのかについては、自分自身では選択の余地もなければ、知る由もないのである。
ヒトのメス(ここでは敢えて生物としての機能として論ずるので女性とは言わない)が生殖能力を獲得する年齢は、現代人として社会の中で子供を育ててゆくためには適した年齢とは一致しない。一説によれば8歳程度でも出産が可能とも言われているが、単なる動物的繁殖能力だけからは、ヒトが社会的に持続可能性を持つことにはならないのは明白である。
ヒトのオスの方も、生物学的見地からは、より見た目の幼い配偶者を選択した結果ネオテニー(幼形成熟)が生じ、結果的に頭や脳が肥大したとも言われている。だが、外見的に幼い配偶者選択をしたがるのは先天的「結果」に過ぎず、本当に年齢が幼い配偶者を選択してもネオテニーは生じず、あくまで成熟しても外見的に幼い個体を配偶者選択しなければ幼形成熟への進化(変化)は起こらないのである。
結果的に脳が肥大する原因となったとしても幼児性愛が社会的に「正しい」行動であることにはならないのである。
とは言え、先天的本能である以上は幼女に性的興奮を「してしまう。」こと自体は致し方ないことであり。これを頭ごなしに「異常」だとか「変態」などと拒絶しても意味はない。重要なのはそうした行動バイアスに流されないよう工夫することであり、目先の欲望に流されない自律的な自己抑制能力こそが社会的には必要なのである。
この自律的な自己抑制の観点から問題となるのが、「脳への報酬に対する条件反射的行動学習」である。
学力成績が上がることで、親大人から誉められ、学力偏差値という抽象化されたランク付けをされることを「脳への報酬」として動物的に行動学習してしまうと。これは、本質的には自発的な動機によって行動していることにはならないために、常に他者から与えられる「脳への報酬」が得られるための行動しか出来ないよう動物的に行動学習された結果、自発的選択能力が失われ、同時に自律的な社会的責任判断すらもしなくなるようになってしまうのである。
アルベルト:アインシュタインも懸念している「欲得づくの成功」ばかりを望むような学生が育ってしまうことによる、社会的な悪影響とは、個人が自律的に社会的責任判断をしなくなるという無責任さが蔓延してしまうことにある。
「学力成績が高いから、自分は頭が良いんだ。」などという、認知科学的には一切根拠のない実証不能の観念にすがりつこうとするあまり、本論を感情的に受け入れられない人は少なくないであろう。
◇
論理的反証も一切せずに、ただ漫然と「仮説に過ぎない。」と言い続けても、それこそがむしろ論理的根拠すらない仮説にしかなっていないことにも気付かないのでは、到底科学的議論は成立しない。
論理反証が出来ない仮説であれば、それはむしろ科学的には「より正しい」のである。
とは言え、本当に正しいのかどうかについては、より多くの人によって精査される必要性があるのは当然のことである。
その場限りに外見的に勝ち誇ったような錯覚に陥ることは簡単である。ヒトの多くはその場限りの雰囲気ばかりを重要視し、内容を論理的に検証してどちらが正しいのかを選択するということをほとんどというか、むしろ全くしない。
原発を暴走させた技術者も、社会的に不毛な刑法制度に何の疑問も持たない司法役人や弁護士達も、彼らはさぞかし学力偏差値が高いに違いない。
どんなに学力偏差値が高くても、重要なことに何も気付かない人は少なくない。それなら学力偏差値などというのは社会的にはあまり意味がないのである。
企業の採用においては、予め決められた仕事を正確にこなす能力基準として学力偏差値を利用するのは経験則的に間違いではないのかも知れないが。大企業における原発の危険性放置や粉飾決算、取締役員によるインサイダー取引を放置するようなバカ社員に過ぎないことを認識しなければならない。
東京電力、東芝、オリンパス、西武グループなど、実際に挙げればキリがない程大手企業の幹部社員達はバカなのである。彼らもさぞかし学力成績は高かったに違いないであろうが、単に学力成績だけを述べればISIL幹部にも見られるものであって、学力偏差値は人間性の論証には全くならないのである。
人間のいない社会であれば破綻に陥るのは当然のことである。
ヒトという種の生物が、人間として行動選択するためには本質的な意識というものが不可欠であり。その本質的意識というものが一体何なのかを理解している必要性がある。
その具体的内容については過去(意識論関連タグ)に散々述べているつもりなので、今回は面倒臭いのでパスする。
そのうち再度書くかも知れないが。
Ende;
完全な意識を持つことというのは有限の脳しか持たないヒトには原理的に不可能なことであり。また、先天的或は後天的要因によって意識の高さを得られ難い場合というのも考えられる。
例えば虐待を受けて育った人が虐待を自分の子供にまで連鎖してしまうという事例は、後天的要因によるものである。
従って、より高い意識を持った人が、低い意識しか持つことの出来ない人に対して行うべき行動とは。当人の意識の低さを認識出来るよう促すことである。
ところが、犯罪者という社会的に無責任な行動を採る人に対して、現在の社会制度は司法刑罰などという短絡的手続きしか整備されていない。
例えばである。
強盗殺人で懲役25年の刑を終えた犯罪者が、出所後数週間で再び殺人を犯すという事例が時折あるわけだが。それなら一体司法刑罰とは社会的に何の意味があるのかを考えた人はいるだろうか。
偉そうに検察だの弁護だの判事だのと司法に関わる奴らは高い給料で国費を浪費しながら、実質的には犯罪というものの論理的原因究明や再発防止というものに一切貢献していないのである。
犯罪者が出所後に再犯したとしても、その責任は司法役人達の誰一人として責任を持たない。では一体彼らは何のために司法制度を維持しているのかと言えば、法律を守ることを目的としているのであって、法制度さえ維持しておけば、その結果社会的損失が出ようが、社会が破綻しようが一切感知しないのである。
裁判で大金を浪費し、刑が確定しても犯罪者を何年も刑務所に入れておくためには更に税金が浪費された上に、刑務所から出所した犯罪者の40%が再び犯罪を犯して社会的損失を生じていることに対し、司法役人達の誰一人として、国会議員の誰一人として、市民の大多数もまた、それを問題であるとさえ一切認識していないというのは。もはや集団洗脳の一種と言っても過言ではない。
犯罪が起きると、ヒトという種の生物は短絡的に報復さえしておけば全てが解決すると錯覚しがちである。
というか、ほとんどそれしかない。
殴られたら、殴り返す。「目には目を、歯には歯を。」というハムラビ法典の原理自体が、社会的には役に立たない観念論、感情的満足安心の追求にしかなっていないのである。
面倒臭いのは、ヒトの多くは自分自身で物事を考え判断するということを忌避し、「多数派=正常」という短絡的な観念ばかりを優先する性質があるために。少数派異端である本論を大多数のヒト達が無視し続けるという意識の低さを存分に発揮していることである。
犯罪というのは、ヒトの個体差が存在する以上必ず発生すると言えるだろう。「ヒトは間違えるもの。」だからである。
これはヒトという種の生物が、どこかの家電メーカーの製造責任のように、神の製造責任が問えるようなものではなく。ヒトという種の生物は自然の産物であり、誰の責任でもない「結果」でしかない以上避けようのない現実である。
それなら、こうした出来損ないの「ヒト」である私達が、次世代の子供達にどのような社会を遺せるのかを考えた場合。ただ漫然とハムラビ法典に従って不毛な司法刑罰制度を維持し続けることにどれだけの価値が存在するのかを考え直す必要性がある。
個人が自律的に社会的責任判断を行わなくなる原因とは何か。それは目先の感情や欲望に囚われ、自分が生き続けるに価する社会とはどういう姿なのかを考える余裕が失われるという、意識(論理検証性)の狭窄である。
現在の司法刑罰制度に何の疑問も持たない一般市民の意識の低さも、程度の差こそあれ、こうした意識狭窄性が促している無意識性の「結果」なのである。
冒頭に述べたように、意識の低さというのはスペクトラムであり、程度問題である。だが、程度問題なのは「結果」であって、ただ漫然と「結果」に流されておいても構わないなどという短絡的でバカげた結論に達しておけば良いというものではない。こうした短絡的「解釈」によって論理検証を放棄しておけば、大衆の大多数は気分的には楽なのかも知れないが。その結果、自分が犯罪やテロに巻き込まれてから「どうしてこんなことになってしまったのだろうか。」などと他人に問いかけても愚かという以外形容のしようがない。
ヒトという種の生物は基本的に出来損ないである以上、より安全性や社会持続可能性を担保するためには。誰もが意識の高さ(自律的論理検証)を追求し続ける必要性がある。
これは、特定の技術者や犯罪者、精神疾患者にだけ丸投げしておけば良いというものではなく。全ての人が常に追求し続けなければならない「人間としての義務」なのである。
なんていう従来の常識を覆すようなことを言うと、「そりゃ大変だ。」とばかりに焦ってトンチンカンなオカルトに走る人もいるようなのだが。本論が最も懸念しているのが「焦り」などの感情によって論理検証性が失われることによって、意識狭窄が生じてしまうことなのである。
本質的な意識である論理検証性というものは、あらゆる気分感情が促す思考バイアスを客観的に排除し。本当に重要なのは一体何なのかを考えることによって、自ずと導き出される「目的」意識に基づいた「考え」なのである。
しかし、ヒトという種の生物というのは先天的に気分感情が行動や思考を支配しがちな習性があるため、先天的に論理検証することが苦手なように出来ているのである。
これは、ヒトという種の生物が先天的に意識が低くなる性質が存在することを意味する。
ヒトという種の生物は、先天的には「人間」ではないのだ。
ところが、概ね平和な生活をしていると。あたかも「ヒト=人間」という短絡的方程式が常に成立しているという錯覚に陥り、進化生物学や文科系大衆観念上ではこうした方程式がまかり通ってしまっているのである。
これは大衆迎合のため、多数派人気取りのための「嘘」であり。それによって金儲けに成功するというのは合法的詐欺に他ならない。
誰が嘘つきなのかって? だからさしあたっては京大学長とか霊長類研究所だよ。他にもいっぱいいるけどさ。
◇
ヒトという種の生物は、ヒトになる前の何億年もの間に、脳に様々な行動習性が組み込まれてきている。生物が生存しているのは、生存に適した行動を採った「結果」であり、嘘でも暴力でも何でも手段は構わないから「生きて」さえいれば遺伝子が遺されるた「結果」として我々は現状存在するのである。
ヒトという種の生物は、個体では他の野生生物と較べてそんなに強い生物ではない。それでも子孫が遺せたのは集団で協調的に行動する習性があったからである。
ヒトの場合は多少なりとも論理的に物事を考えることや言語による意思疎通が可能であるために、狩りなどの特定の目的行動を採る際にはお互いの考えを共有することが可能であるが。これはイヌなどの脳の容積がもっと少ない生物でも可能な行動でもある。
言語を持たぬサルでも可能な集団組織的協調行動というのは、社会形成習性を持つ様々な生物において先天的に組み込まれた行動バイアスであり。彼らはとりたてて「生きるために。」などといった目的意識に基づいて行動しているわけではなく。その証拠に利他的行動などの直接的な脳への報酬が得られない行動は簡単に放棄してしまう。
社会全体の持続可能性だとか、個体の安全性なんてことはサルの脳とか振り込め詐欺師の脳にはないのである。
だが、こうした無責任さというのは。司法刑罰などという不毛な制度に何の疑問も持たない大多数の民衆の脳と、程度の差こそあれ無責任であることに違いはなく。所詮は「個体差」に過ぎないのである。
サルが無責任なのは先天的に仕方ないとしても、特に脳に障害もない振り込め詐欺師が無責任なのは看過するわけにはいかないし。それは現状の司法制度などという不毛な金の無駄遣いに何の疑問も持たない一般市民の無責任さも同様である。
「自分は法律を犯していないから、それ以上何の責任も持たなくても構わない。」という短絡的発想は、司法役人達の「法制度さえ維持しておけば全ては解決。」という短絡性と同根である。
「これさえやっときゃ、全ては解決。」という安易で短絡的解決策さえ提示しておけば、大多数の愚かな大衆は気分的に安心満足し。その解決策に対する問題点も、根源的間違いにも気付くことはない。
気分感情というものが、ヒトから論理的思考を奪う性質が先天的に存在するために。ヒトは簡単にバカに陥るのである。
「イスラム教徒を排除しておけばアメリカは安全だ。」などという、キチガイとしか思えない話をアメリカ共和党員の40%が信じているなどというのは論外であるが。 何も考えない大多数の大衆というのは、所詮そんなものなのであろう。
脱法ドラッグが危険であるのと同様、法律上違法でなくても社会安全性や持続可能性から逸脱した行為というのは存在するのであり。それは「法律さえ守っておけば、全ては解決。」するような安易で簡単なものではない。
一部のヒトの無責任な行動を国家権力で抑圧した結果、無責任ではない人の行動までをも一括して規制してしまうことによる社会的損失というのは計り知れない。
「あれはダメ、これはダメ。」そんな規制だらけの社会制度下で、一体何が「一億総活躍社会」であろう。
重要なのは国家権力によって市民の行動を抑圧することではなく、市民一人一人が自律的に社会的責任を持って行動することが社会効率の点においても有効なのであって。マンションの杭の一本一本までをも役所が管理しなければならないというのであれば、もはや市民一人一人の行動の全てを役人が朝から晩まで監視し続けなければならないことになるのである。
そのような社会においては、監視する役人の行動責任を誰が取るというのであろうか。役人を監視する役人を雇って、更にそれを監視する役人を雇うことにならざるを得ないわけであり。監視や規制、抑圧を用いた社会というのは、とんでもなく効率が悪い社会であり。結局は個人の自律的な社会的責任が必要なのであり、監視や規制というのは危険情報の共有程度の意味しか持っていないのである。
私は刑法廃止論者であるが、刑法罰が恐くて犯罪に手を出さない者が一定数存在する時点では社会制度としての刑法廃止は事実上不可能であろうことは充分承知している。刑法廃止というのはあくまで論理的理想であって、何年先になるのかはわからないし、果たして実現可能なのかもわからないが、そこに至るまでのロードマップとしての個人の自律的な社会的責任判断力というものの社会的効率には充分意味こそが重要なのである。
刑法廃止が目的なのではなく、犯罪や事故を減らすことの先にあるのが刑法廃止論なのである。
無責任な者が多ければ多い程社会効率は悪くなる。暗闇が犯罪の温床になるからこそ誰も通らない道にも街路灯を燈し続けなければならないのであり。安全な社会というのは国家権力による法令遵守によって作られるものではなく、あくまで市民一人一人の意識によって成立すべきものなのである。
突発的テロや通り魔というものは、犯罪が起きてからの警察の取締りではどうにも対処出来ない。警察役人は神ではないので、一人一人の行動の全てを把握出来るわけがないのである。
テロや通り魔といった暴力的恐怖で社会を操作しようとする考え方そのものが根本的に間違っているのである。それは国家政府が市民を恐怖で抑圧しようとする考え方と全く同じものであり。恐怖政治による独裁政権に持続可能性や安全性、効率の面において極めて不利であることは明らかである。
「法律さえ守らせておけば、全ては完璧。」などというのは、法律家や為政者の勝手な妄想でしかなく。オカルト宗教レベルの話でしかない。
人畜無害な行為であっても現状法規に違反していれば、役人達は機械手続き的に取り締まるばかりで。その法律の主旨とか社会的意義になど一切感知しない。そこに「人間」がいないからこそ、法手続きだけが暴走するという結果に至るのであり、結局は法を運用する役人の方にも「その取り締まりに社会的価値があるのか。」を考えるという知性、論理性が不可欠なのである。
ヒトという種の生物は、その場限りの気分感情によって、民族とか宗教とか国籍といった分類だけで他人を差別する習性がある。そういった短絡的で安易な最終解決策の方が愚かな大衆のご機嫌取りには適しているのであろう。だが、こうした頭の悪さこそがISILやナチズムのような残虐行為の根源的原因なのである。
では、なぜISILの構成員や、通り魔などの短絡的最終解決策しか思いつかないという意識狭窄性が発揮されてしまうのか。その原因として考えられるのは。一つは先天的要因かも知れないが、彼らの脳は日常生活を営むには不都合のない「普通」で平均的な知能程度はあるのみならず、むしろ学力成績は高い傾向というのも見られることからも。彼らの思考パタンというものの中に共通して存在する思考停止バイアスによる論理的思考停止がある。
そして、この思考停止バイアスや論理検証性の喪失というのは、ISILやナチス政権下のドイツ人に限らず、あらゆるヒトの中に先天的に存在するという事実を踏まえて対策を考える必要性がある。
「通り魔が出たから死刑だ。」とか、「ISILは絶滅させれば解決する。」といった短絡性こそが、むしろ彼らの短絡性と全く同じものなのである。
それは、単なる「バカの応酬」にしかならない。
ISILには、いわば普通の若者が憧れる「格好良さ」がある。その「格好良さ」とは、感覚的な快楽によって促される行動バイアスによるものであり、そこに合理的根拠とか目的意識が存在するわけではなく。あくまでヒトという種の生物の先天的な行動バイアスとして組み込まれているものに過ぎない。
すなはち、同じヒトである以上こうした先天的行動バイアスというものは誰にでも存在するものであり、ヒトの大半はISILやナチズムに傾倒する可能性を持った暴力者予備軍であるということを認識する必要性があるのだ。
「自分だけは、絶対大丈夫だ。」などと「思う」人も少なくないかも知れないが、それは論理的根拠のない過信に過ぎない。なぜなら、ヒトというのは自分自身の脳の構造には一切関与していないからである。
自分の遺伝子を自分では選択していない以上、自分の脳の構造には自分は関与していないのであり。その場限りにISILや暴力団を個人的に嫌いかどうかだけでは人間性の論証には全くならないからである。
脳の構造、特に動物的行動バイアスを作り出す大脳辺縁系の構造というのは、ヒトに進化(変化)する以前の生存競争の中で淘汰によって遺されてきたものであり。自分の祖先がどのような行動選択によって生き延びてきたのかについては、自分自身では選択の余地もなければ、知る由もないのである。
ヒトのメス(ここでは敢えて生物としての機能として論ずるので女性とは言わない)が生殖能力を獲得する年齢は、現代人として社会の中で子供を育ててゆくためには適した年齢とは一致しない。一説によれば8歳程度でも出産が可能とも言われているが、単なる動物的繁殖能力だけからは、ヒトが社会的に持続可能性を持つことにはならないのは明白である。
ヒトのオスの方も、生物学的見地からは、より見た目の幼い配偶者を選択した結果ネオテニー(幼形成熟)が生じ、結果的に頭や脳が肥大したとも言われている。だが、外見的に幼い配偶者選択をしたがるのは先天的「結果」に過ぎず、本当に年齢が幼い配偶者を選択してもネオテニーは生じず、あくまで成熟しても外見的に幼い個体を配偶者選択しなければ幼形成熟への進化(変化)は起こらないのである。
結果的に脳が肥大する原因となったとしても幼児性愛が社会的に「正しい」行動であることにはならないのである。
とは言え、先天的本能である以上は幼女に性的興奮を「してしまう。」こと自体は致し方ないことであり。これを頭ごなしに「異常」だとか「変態」などと拒絶しても意味はない。重要なのはそうした行動バイアスに流されないよう工夫することであり、目先の欲望に流されない自律的な自己抑制能力こそが社会的には必要なのである。
この自律的な自己抑制の観点から問題となるのが、「脳への報酬に対する条件反射的行動学習」である。
学力成績が上がることで、親大人から誉められ、学力偏差値という抽象化されたランク付けをされることを「脳への報酬」として動物的に行動学習してしまうと。これは、本質的には自発的な動機によって行動していることにはならないために、常に他者から与えられる「脳への報酬」が得られるための行動しか出来ないよう動物的に行動学習された結果、自発的選択能力が失われ、同時に自律的な社会的責任判断すらもしなくなるようになってしまうのである。
アルベルト:アインシュタインも懸念している「欲得づくの成功」ばかりを望むような学生が育ってしまうことによる、社会的な悪影響とは、個人が自律的に社会的責任判断をしなくなるという無責任さが蔓延してしまうことにある。
「学力成績が高いから、自分は頭が良いんだ。」などという、認知科学的には一切根拠のない実証不能の観念にすがりつこうとするあまり、本論を感情的に受け入れられない人は少なくないであろう。
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論理的反証も一切せずに、ただ漫然と「仮説に過ぎない。」と言い続けても、それこそがむしろ論理的根拠すらない仮説にしかなっていないことにも気付かないのでは、到底科学的議論は成立しない。
論理反証が出来ない仮説であれば、それはむしろ科学的には「より正しい」のである。
とは言え、本当に正しいのかどうかについては、より多くの人によって精査される必要性があるのは当然のことである。
その場限りに外見的に勝ち誇ったような錯覚に陥ることは簡単である。ヒトの多くはその場限りの雰囲気ばかりを重要視し、内容を論理的に検証してどちらが正しいのかを選択するということをほとんどというか、むしろ全くしない。
原発を暴走させた技術者も、社会的に不毛な刑法制度に何の疑問も持たない司法役人や弁護士達も、彼らはさぞかし学力偏差値が高いに違いない。
どんなに学力偏差値が高くても、重要なことに何も気付かない人は少なくない。それなら学力偏差値などというのは社会的にはあまり意味がないのである。
企業の採用においては、予め決められた仕事を正確にこなす能力基準として学力偏差値を利用するのは経験則的に間違いではないのかも知れないが。大企業における原発の危険性放置や粉飾決算、取締役員によるインサイダー取引を放置するようなバカ社員に過ぎないことを認識しなければならない。
東京電力、東芝、オリンパス、西武グループなど、実際に挙げればキリがない程大手企業の幹部社員達はバカなのである。彼らもさぞかし学力成績は高かったに違いないであろうが、単に学力成績だけを述べればISIL幹部にも見られるものであって、学力偏差値は人間性の論証には全くならないのである。
人間のいない社会であれば破綻に陥るのは当然のことである。
ヒトという種の生物が、人間として行動選択するためには本質的な意識というものが不可欠であり。その本質的意識というものが一体何なのかを理解している必要性がある。
その具体的内容については過去(意識論関連タグ)に散々述べているつもりなので、今回は面倒臭いのでパスする。
そのうち再度書くかも知れないが。
Ende;