書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○学習性因習行動バイアス。

2015年12月26日 13時00分37秒 | 意識論関連
経済学っていうと、どうしても金儲けを目的とした考えに偏りがちなようだけど。経済っていうのは個人の利己的利益追求が目的ではなくて、「経世済民」(世を経て民を救う)という言葉の略であって。経済の目的っていうのは社会全体の安全性とか持続可能性を目的として考えるべきものなのです。

こうした考え、目的意識というものは、経済学に限らず様々な学問において持たなければならないものであって。「進化生物学だから考えなくて良い。」といった例外は認められないのです。

少なくとも公的資金で研究をしているなら、なをのこと。



そういえば放送大学では「技術者倫理」なんつう科目があるけど、倫理って特定の技術者だけに必要なものではなくて、ヒトとしての社会的責任や人間性の基礎なんだから、これは全ての人が持たなきゃいけないものなのであって。大学の科目というよりは、むしろ義務教育課程に組み込むべきものなんじゃないかとすら思う。

「道徳」だとかいう不毛な科目要らんわ。 クソの役にも立たないだろ。

多分、子供が自律的に何が重要なのかを考え出したら、従順に教えたことだけを忠実に守る簡単なバカではいてくれなくなって面倒臭そうだとか教師が思っているから、不毛な「道徳」教育でごまかしているんじゃなかろうか。

いや、これは陰謀なんかじゃなくて。単なる手抜きとか怠慢ですよ。

子供の頃には、大人の言い付けさえ守っておけば、頭の良い大人達が自分達の将来を保証してくれているんじゃないか的な勝手な妄想や期待を抱いていたような気がする。

でも本当は、単に手抜きで権威性を振り回して服従させていただけであって。誰も責任なんぞ取るつもりもなかったというのが事実でした。

政治家達なんて、その場限りの大衆迎合で票を集めて安定的に政治家職を続けたいだけであって。別に社会安全性だとか持続可能性といったものを目的にして物事を考えているわけではないですし。

親だって、どうせその場限りの欲望のままに「出来ちゃった」から育てているというのが大半なんじゃないかと思う。

まあ、それでも子供が出来てからでも子供や、子供が生きるに価する子供達の将来に考えが及べば良いんですけどね。何も考えなければ「勉強しなさい。」しか言わないでしょうね。




以前NHKの番組か何かで、ニワトリをヒヨコから育てて最後に首を切り落として唐揚げにして食べるっていう授業のドキュメンタリーを見たことがある。

でも、子供によってはずっと育ててきたニワトリを殺して食うっていう現実に耐えられない子もいたりしたんだけど。それは強制しちゃいけないとも思ったね。

そう考えると、教育っていうのは子供の自主性を重んじるなら、子供自身の好き嫌いを許容する必要もあるんじゃないかな。

子供によってはコンピューターゲームが好きなら、ゲームプログラミングを学ばせるとか。虫が好きなら危険な虫や植物の知識を学ばせておけば、勝手に子供達は興味を持って学び始めるんじゃないかと思うのだ。安全性は重要だからね。

何か、教える側の都合上、学力偏差値が数値として出せないような自由な教育だと教師の方の評価が得られそうにないから、予め決められた同じ学力基準だけを競わせようとしているとしか思えないのが嫌。

いうなれば、教師の評価のために生徒を食い物にしていることだからね。

それって、年金の運用益で評価を得ようとしている役人と一緒じゃん。

教師の場合、生徒の学力偏差値さえ上がればそれで評価として成立するけど。果たして学力偏差値が高いからといって、その子供が社会的な責任を自律的に負うような、人間的に立派な人に育ったのか。それとも自暴自棄に通り魔になっちゃったのかの責任は一切負わないよね。 それっておかしくないかな。

通り魔とかテロリストになるような子供を育てちゃった学校なら、それも学校の評価成績として扱わないといけないんじゃなかろかと思うのだ。

たとえ合法的であってもブラック経営者とか、DV男やDV男に貢いじゃう女の数とかも、学校の評価に入れないといけないんじゃないかと思うよ。 じゃなきゃ学校としての社会的役割が全く機能しないでしょ。

学校や親がバカを大量生産しておいて、社会的負担が増えても「知らないよ。」っておかしくないですか。

それで犯罪が起きたら刑法罰で「解決です。」って。 何か社会制度として穴だらけじゃないですかね。




ヒトの多くは、「いままでずっと続いている事物。」に対して、合理的根拠もなく安心感を抱く習性があります。

どんなに不毛でクソの役にも立たない社会制度や因習であっても、子供の頃からあったものは、それを「普通」であると信じ込み、誰も疑問に思わないことは自分も疑問として認識しなくなる性質があります。

そこでふと思い出すのが学習性無力感(回避困難なストレスが継続すると逃れる努力をしなくなる)という現象です。

脳の性質と言っても良いでしょう。

子供の頃から「悪いことをしたら警察に捕まって罰を与えられる。」と教えられて育った子供が。「法律さえあれば、社会は安全だ。」的な合理的根拠のない妄想に囚われている結果として、法律に過剰なまでの依存をしているからこそ、個人の自律というものへの重要性が後回しにされているのではないか。

犯罪というものに対しては、国家権力による懲罰だけしか有効ではないという、合理的根拠のない無力感のようなものを動物的に学習してしまっているからこそ、刑法への過剰な依存が生じ、結果として刑罰以外の原因究明とか再発防止策への思考が停止してしまっているのではないか。

そうでなければ現在のような不毛な司法刑罰制度だけで「解決」と見なしている無為性の説明がつかないでしょ。



ことほど左様に、ヒトというのは物事を考えないようになるバイアス、言い換えれば「バカになろうとするバイアス。」が先天的に存在していて。バカになっていた方が安心なのは確か。

酒や煙草といった薬物で脳を麻痺させようとするのも、物事をマトモに考えようとするとストレスを感じてしまう故の行動なんじゃないかな。

というか、何が「考え」で何が「知らぬ間に植え付けられたバイアス」なのかを厳密に区別することに慣れていないだけなんじゃなかろうか。

とは言っても、子供の頃から慣れ親しんできた事物である以上、虐待と一緒でそれがその人の「普通」になってしまっている以上、その思考バイアスの殻を破るというのは個人差はあれ難しいのかも知れないね。

でも難しいからやらなくて良い理由にはならないので、分数の割り算なんかよりも義務教育で優先的に教えなきゃいけないんじゃないかと思うよ。



Ende;
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○ゴリラの自覚。

2015年12月26日 11時07分47秒 | 意識論関連
某動物園において、「暴君だったゴリラに群れのリーダーとしての自覚が生まれた」なんつうのは進化生物学特有の大衆迎合的嘘です。

子供が出来たことによって、脳内物質のバランスが変化したことで行動が変わったからといって、これを意識的自覚のようなものだと「解釈」するのは、大衆ウケが良いのかも知れませんが。厳密に科学的/論理的には証明になっていません。

気分感情というものは、環境依存的に影響を受けて様々に変化します。たまたま子供に恵まれて気分的に落ち着いた行動を採るようになったからといっても、それは先天的本能習性の「結果」でしかありません。

東京電力社内で原発の危険性を放置したのは、技術者としての自覚がなかったからですが。先天的本能習性としては、組織集団の利益を優先し、自律的な社会的責任を放棄しても、個体の組織内での立場を守るためには「合理的」だと言えるわけです。

ヒトという種の生物は、先天的な社会形成習性が促す行動バイアスとして、自分が属する集団組織の利益を優先し、組織の「上」とか「権威」と見なした相手の命令に服従する習性があります。これはスタンレー:ミルグラムによる服従心理実験(通称「アイヒマン実験」)や、フィリップ:ジンバルドーによるスタンフォード監獄実験など立証されている事実です。

環境に依存して行動が決定してしまうのであれば、これは他者と互換不可能な一人の人格の自由意思として意識的かつ自律的に選択しているとは言えません。

ゴリラであれば環境が変われば簡単に暴力性を発揮するでしょうが、ヒトの場合は必ずしも同じではありません。幼い子供を遺して母親をテロで失った父親が、テロリストに対して「憎しみという贈り物は与えないよ。」という選択をするのは、動物的な行動バイアスとしては全く異なるものです。

「やられたら、やり返す。倍返しだ。」なんてテレビドラマがありましたが。嫌な相手に短絡的に報復する話というのは気分的にスッキリするので、大衆ウケが良いので。アメリカ映画ではこうした短絡的報復を題材にした作品が好まれる傾向があるのです。 なんたって「イスラム教徒を排除すれば安全だ。」なんて話を鵜呑みにする国民ですからね。

アイアンマンでもテロリストは問答無用で殺害してましたし、自分の娘を救出するために敵を何百人と殺害してハッピーエンドだとみなす作品も多いですよね。

でも、「報復はしないよ。」なんて話では、フェイスブック上では共感を得ても、大衆映画作品としては成立しないわけです。

残虐な通り魔とかテロリストは短絡的に死刑で報復しておいた方が、気分的には楽で安心なのです。だからビンラディン容疑者を問答無用で殺害しておいて「正義の鉄鎚を下した。」なんてオバマ大統領が発言する。

気分感情的に満足する行動が、社会的合理性があるかどうかの検証が後回しになって忘れ去られてしまうバイアスが、ヒトという種の生物には存在するのです。

こうした気分感情的満足安心の暴走の結果こそがテロリストや通り魔や銃乱射事件であって。これは特定の異常者だけの特殊な性質などではなく。むしろヒト全般に普遍的に存在することを前提にしなければならないのです。



映画というのは芸術作品ですから、別に内容がバカげていても、何かの解決につながらなくても構わないのですが。芸術作品に感化されて暴力行為に及んでしまうという、その個人の短絡性こそが問題なのです。



ヒトという種の生物の大脳が結果的に肥大した原因が、外見上より幼い配偶者選択をした結果の幼形成熟によるものであると考えられる以上。外見的に幼い配偶者を求めようとする行動バイアスが存在することは致し方ない「結果」ではあります。

だからといって「オノレは犬だカブトムシだから、先天的本能習性には逆らうことが出来ないんだ。」などという意思薄弱の事後正当化が許されると思っているバカなど論外です。

逆に「ロリコンが主観的にキモいから排除しておけ。」というのであれば、これは「イスラム教徒が怖いから排除しておけ。」といっている某米国の大統領候補と心理構造的には全く同じものであって。こうした個人の主観的感情論の応酬では具体的な対策には永遠につながらず。極めて不毛で建設性が全くありません。

ロリコンというのは、ヒトの脳の「結果」ではあっても、人間としての意識的行動選択とか自由意思に基づいた「目的」ではないのです。

人間性というのは、目先の気分感情欲望に左右されない統合的合理性判断によって導き出されるものであって。その場限りに環境依存的な行動バイアスの「結果」のことを「自覚」とか「意識」であると解釈するのは科学的に間違っているのです。

ゴリラは所詮ゴリラですから、環境が変われば簡単に暴力的にもなるでしょう。ゴリラの脳には統合的に合理的行動判断をするだけの余裕がありませんから、恐怖心を抱けば簡単に暴力的にもなるのは避けようのない事実です。

京都大学の学長がゴリラを馴らしたからといって、それがゴリラの人間性か何かの立証になるわけではないのです。所詮は特定環境下における断片的「結果」以上の意味はないのです。

ISILの構成員が、組織内部でどんなに利他的行動や仲間を守る行動を採ったとしても、それはヒトの人間性の科学的証明には一切ならないのと一緒です。

残虐なテロリストを飼い馴らしたら、そのテロリストの人間性の立証とか、既に行われた残虐行為が反証出来るわけではないでしょ。

ヒトの多くは断片的なゴリラの行動結果と、ヒトが現実に行っている残虐行為の間の相関関係にまでは考えが回らないようですが。これは、「ゴリラが暴力を振るわない」という断片的結果に満足することで、問題そのものの根源的原因にまで論理的に検証する考えが停止してしまう性質があるためです。



また、ゴリラというのは一般的に暴力的だと思われているため、暴力的にならないというだけで一種のゲイン効果が働いて、必要以上に人間性か何かと勘違いしているのかも知れません。

ゲイン効果というのは。怖いと思っていた相手が、意外と普通だった場合に必要以上に善人だと錯覚するといった性質のことです。



ISILの構成員が指導者に対しては暴力的にならないことを証明しても、ISILの構成員の人間性の証明にはなりませんよね。それと一緒で京大学長がゴリラと仲良くなっても、ゴリラの人間性の証明になんぞ一切ならないのです。

にも関わらず、京大生物学科というのは、特定環境下における断片的検証結果だけを陳列しておけば、ゴリラやチンパンジーの人間性を立証可能かも知れないなどという大嘘によってバカなマスコミや大衆を騙しているわけです。

これを詐欺と形容せずに、何と形容するのかは私は知りません。

勿論騙されている方にも問題がありますが。



Ende;
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