経済学っていうと、どうしても金儲けを目的とした考えに偏りがちなようだけど。経済っていうのは個人の利己的利益追求が目的ではなくて、「経世済民」(世を経て民を救う)という言葉の略であって。経済の目的っていうのは社会全体の安全性とか持続可能性を目的として考えるべきものなのです。
こうした考え、目的意識というものは、経済学に限らず様々な学問において持たなければならないものであって。「進化生物学だから考えなくて良い。」といった例外は認められないのです。
少なくとも公的資金で研究をしているなら、なをのこと。
そういえば放送大学では「技術者倫理」なんつう科目があるけど、倫理って特定の技術者だけに必要なものではなくて、ヒトとしての社会的責任や人間性の基礎なんだから、これは全ての人が持たなきゃいけないものなのであって。大学の科目というよりは、むしろ義務教育課程に組み込むべきものなんじゃないかとすら思う。
「道徳」だとかいう不毛な科目要らんわ。 クソの役にも立たないだろ。
多分、子供が自律的に何が重要なのかを考え出したら、従順に教えたことだけを忠実に守る簡単なバカではいてくれなくなって面倒臭そうだとか教師が思っているから、不毛な「道徳」教育でごまかしているんじゃなかろうか。
いや、これは陰謀なんかじゃなくて。単なる手抜きとか怠慢ですよ。
子供の頃には、大人の言い付けさえ守っておけば、頭の良い大人達が自分達の将来を保証してくれているんじゃないか的な勝手な妄想や期待を抱いていたような気がする。
でも本当は、単に手抜きで権威性を振り回して服従させていただけであって。誰も責任なんぞ取るつもりもなかったというのが事実でした。
政治家達なんて、その場限りの大衆迎合で票を集めて安定的に政治家職を続けたいだけであって。別に社会安全性だとか持続可能性といったものを目的にして物事を考えているわけではないですし。
親だって、どうせその場限りの欲望のままに「出来ちゃった」から育てているというのが大半なんじゃないかと思う。
まあ、それでも子供が出来てからでも子供や、子供が生きるに価する子供達の将来に考えが及べば良いんですけどね。何も考えなければ「勉強しなさい。」しか言わないでしょうね。
以前NHKの番組か何かで、ニワトリをヒヨコから育てて最後に首を切り落として唐揚げにして食べるっていう授業のドキュメンタリーを見たことがある。
でも、子供によってはずっと育ててきたニワトリを殺して食うっていう現実に耐えられない子もいたりしたんだけど。それは強制しちゃいけないとも思ったね。
そう考えると、教育っていうのは子供の自主性を重んじるなら、子供自身の好き嫌いを許容する必要もあるんじゃないかな。
子供によってはコンピューターゲームが好きなら、ゲームプログラミングを学ばせるとか。虫が好きなら危険な虫や植物の知識を学ばせておけば、勝手に子供達は興味を持って学び始めるんじゃないかと思うのだ。安全性は重要だからね。
何か、教える側の都合上、学力偏差値が数値として出せないような自由な教育だと教師の方の評価が得られそうにないから、予め決められた同じ学力基準だけを競わせようとしているとしか思えないのが嫌。
いうなれば、教師の評価のために生徒を食い物にしていることだからね。
それって、年金の運用益で評価を得ようとしている役人と一緒じゃん。
教師の場合、生徒の学力偏差値さえ上がればそれで評価として成立するけど。果たして学力偏差値が高いからといって、その子供が社会的な責任を自律的に負うような、人間的に立派な人に育ったのか。それとも自暴自棄に通り魔になっちゃったのかの責任は一切負わないよね。 それっておかしくないかな。
通り魔とかテロリストになるような子供を育てちゃった学校なら、それも学校の評価成績として扱わないといけないんじゃなかろかと思うのだ。
たとえ合法的であってもブラック経営者とか、DV男やDV男に貢いじゃう女の数とかも、学校の評価に入れないといけないんじゃないかと思うよ。 じゃなきゃ学校としての社会的役割が全く機能しないでしょ。
学校や親がバカを大量生産しておいて、社会的負担が増えても「知らないよ。」っておかしくないですか。
それで犯罪が起きたら刑法罰で「解決です。」って。 何か社会制度として穴だらけじゃないですかね。
ヒトの多くは、「いままでずっと続いている事物。」に対して、合理的根拠もなく安心感を抱く習性があります。
どんなに不毛でクソの役にも立たない社会制度や因習であっても、子供の頃からあったものは、それを「普通」であると信じ込み、誰も疑問に思わないことは自分も疑問として認識しなくなる性質があります。
そこでふと思い出すのが学習性無力感(回避困難なストレスが継続すると逃れる努力をしなくなる)という現象です。
脳の性質と言っても良いでしょう。
子供の頃から「悪いことをしたら警察に捕まって罰を与えられる。」と教えられて育った子供が。「法律さえあれば、社会は安全だ。」的な合理的根拠のない妄想に囚われている結果として、法律に過剰なまでの依存をしているからこそ、個人の自律というものへの重要性が後回しにされているのではないか。
犯罪というものに対しては、国家権力による懲罰だけしか有効ではないという、合理的根拠のない無力感のようなものを動物的に学習してしまっているからこそ、刑法への過剰な依存が生じ、結果として刑罰以外の原因究明とか再発防止策への思考が停止してしまっているのではないか。
そうでなければ現在のような不毛な司法刑罰制度だけで「解決」と見なしている無為性の説明がつかないでしょ。
ことほど左様に、ヒトというのは物事を考えないようになるバイアス、言い換えれば「バカになろうとするバイアス。」が先天的に存在していて。バカになっていた方が安心なのは確か。
酒や煙草といった薬物で脳を麻痺させようとするのも、物事をマトモに考えようとするとストレスを感じてしまう故の行動なんじゃないかな。
というか、何が「考え」で何が「知らぬ間に植え付けられたバイアス」なのかを厳密に区別することに慣れていないだけなんじゃなかろうか。
とは言っても、子供の頃から慣れ親しんできた事物である以上、虐待と一緒でそれがその人の「普通」になってしまっている以上、その思考バイアスの殻を破るというのは個人差はあれ難しいのかも知れないね。
でも難しいからやらなくて良い理由にはならないので、分数の割り算なんかよりも義務教育で優先的に教えなきゃいけないんじゃないかと思うよ。
Ende;
こうした考え、目的意識というものは、経済学に限らず様々な学問において持たなければならないものであって。「進化生物学だから考えなくて良い。」といった例外は認められないのです。
少なくとも公的資金で研究をしているなら、なをのこと。
そういえば放送大学では「技術者倫理」なんつう科目があるけど、倫理って特定の技術者だけに必要なものではなくて、ヒトとしての社会的責任や人間性の基礎なんだから、これは全ての人が持たなきゃいけないものなのであって。大学の科目というよりは、むしろ義務教育課程に組み込むべきものなんじゃないかとすら思う。
「道徳」だとかいう不毛な科目要らんわ。 クソの役にも立たないだろ。
多分、子供が自律的に何が重要なのかを考え出したら、従順に教えたことだけを忠実に守る簡単なバカではいてくれなくなって面倒臭そうだとか教師が思っているから、不毛な「道徳」教育でごまかしているんじゃなかろうか。
いや、これは陰謀なんかじゃなくて。単なる手抜きとか怠慢ですよ。
子供の頃には、大人の言い付けさえ守っておけば、頭の良い大人達が自分達の将来を保証してくれているんじゃないか的な勝手な妄想や期待を抱いていたような気がする。
でも本当は、単に手抜きで権威性を振り回して服従させていただけであって。誰も責任なんぞ取るつもりもなかったというのが事実でした。
政治家達なんて、その場限りの大衆迎合で票を集めて安定的に政治家職を続けたいだけであって。別に社会安全性だとか持続可能性といったものを目的にして物事を考えているわけではないですし。
親だって、どうせその場限りの欲望のままに「出来ちゃった」から育てているというのが大半なんじゃないかと思う。
まあ、それでも子供が出来てからでも子供や、子供が生きるに価する子供達の将来に考えが及べば良いんですけどね。何も考えなければ「勉強しなさい。」しか言わないでしょうね。
以前NHKの番組か何かで、ニワトリをヒヨコから育てて最後に首を切り落として唐揚げにして食べるっていう授業のドキュメンタリーを見たことがある。
でも、子供によってはずっと育ててきたニワトリを殺して食うっていう現実に耐えられない子もいたりしたんだけど。それは強制しちゃいけないとも思ったね。
そう考えると、教育っていうのは子供の自主性を重んじるなら、子供自身の好き嫌いを許容する必要もあるんじゃないかな。
子供によってはコンピューターゲームが好きなら、ゲームプログラミングを学ばせるとか。虫が好きなら危険な虫や植物の知識を学ばせておけば、勝手に子供達は興味を持って学び始めるんじゃないかと思うのだ。安全性は重要だからね。
何か、教える側の都合上、学力偏差値が数値として出せないような自由な教育だと教師の方の評価が得られそうにないから、予め決められた同じ学力基準だけを競わせようとしているとしか思えないのが嫌。
いうなれば、教師の評価のために生徒を食い物にしていることだからね。
それって、年金の運用益で評価を得ようとしている役人と一緒じゃん。
教師の場合、生徒の学力偏差値さえ上がればそれで評価として成立するけど。果たして学力偏差値が高いからといって、その子供が社会的な責任を自律的に負うような、人間的に立派な人に育ったのか。それとも自暴自棄に通り魔になっちゃったのかの責任は一切負わないよね。 それっておかしくないかな。
通り魔とかテロリストになるような子供を育てちゃった学校なら、それも学校の評価成績として扱わないといけないんじゃなかろかと思うのだ。
たとえ合法的であってもブラック経営者とか、DV男やDV男に貢いじゃう女の数とかも、学校の評価に入れないといけないんじゃないかと思うよ。 じゃなきゃ学校としての社会的役割が全く機能しないでしょ。
学校や親がバカを大量生産しておいて、社会的負担が増えても「知らないよ。」っておかしくないですか。
それで犯罪が起きたら刑法罰で「解決です。」って。 何か社会制度として穴だらけじゃないですかね。
ヒトの多くは、「いままでずっと続いている事物。」に対して、合理的根拠もなく安心感を抱く習性があります。
どんなに不毛でクソの役にも立たない社会制度や因習であっても、子供の頃からあったものは、それを「普通」であると信じ込み、誰も疑問に思わないことは自分も疑問として認識しなくなる性質があります。
そこでふと思い出すのが学習性無力感(回避困難なストレスが継続すると逃れる努力をしなくなる)という現象です。
脳の性質と言っても良いでしょう。
子供の頃から「悪いことをしたら警察に捕まって罰を与えられる。」と教えられて育った子供が。「法律さえあれば、社会は安全だ。」的な合理的根拠のない妄想に囚われている結果として、法律に過剰なまでの依存をしているからこそ、個人の自律というものへの重要性が後回しにされているのではないか。
犯罪というものに対しては、国家権力による懲罰だけしか有効ではないという、合理的根拠のない無力感のようなものを動物的に学習してしまっているからこそ、刑法への過剰な依存が生じ、結果として刑罰以外の原因究明とか再発防止策への思考が停止してしまっているのではないか。
そうでなければ現在のような不毛な司法刑罰制度だけで「解決」と見なしている無為性の説明がつかないでしょ。
ことほど左様に、ヒトというのは物事を考えないようになるバイアス、言い換えれば「バカになろうとするバイアス。」が先天的に存在していて。バカになっていた方が安心なのは確か。
酒や煙草といった薬物で脳を麻痺させようとするのも、物事をマトモに考えようとするとストレスを感じてしまう故の行動なんじゃないかな。
というか、何が「考え」で何が「知らぬ間に植え付けられたバイアス」なのかを厳密に区別することに慣れていないだけなんじゃなかろうか。
とは言っても、子供の頃から慣れ親しんできた事物である以上、虐待と一緒でそれがその人の「普通」になってしまっている以上、その思考バイアスの殻を破るというのは個人差はあれ難しいのかも知れないね。
でも難しいからやらなくて良い理由にはならないので、分数の割り算なんかよりも義務教育で優先的に教えなきゃいけないんじゃないかと思うよ。
Ende;