書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○40匹のネズミ。

2017年01月07日 16時29分01秒 | 意識論関連
現状の心理学における精神異常診断というのは犯罪との直接的因果関係がない

ナチス政権下の多くのドイツ人は精神異常とは診断されていないし

ISIL構成員や幹部も違う

ここから導き出されるのは、一つは現状心理学における精神異常判定の信頼性の低さである

これは精神異常と判定された人であっても必ずしも凶悪犯罪者になるわけではないという面と

精神異常と判定されていない人でありながら凶悪犯罪者になる面の両面がある

まあ、要するにアテにならないということである



相模原の障害者施設での虐殺事件を起こした精神異常者と言われる加害者は、明らかに他人からの評価報酬を求めている形跡がある

自律的な社会的責任判断選択というものは、他人からの評価報酬が基準になっている限り発揮されることがない

時折文科系観念者が「他人の為になることをすることこそが、人間にとって一番幸福感を得られる。」的なことを言うのだが、これは身勝手な奴が後を絶たない現実を無視した大衆迎合的嘘でしかない。

「他人の為」を思うためには、まず「自分自身の満足感」がなければ成立しない

自分自身が生きていることに意義を見出だせないのであれば、他人の為など配慮が働かないのは当たり前の話である

「自己中心的な者には、自己はない。」という、一見矛盾した話があるが。これはあくまで外見上自己中心「的」に見える身勝手な者には、本質的な自己がないという意味であり

本質的自己があれば自律的な社会的責任判断を負おうという自律が働くので、自己中心的行動にはつながらないのである



他人からの評価報酬を得ようとするのは、動物的な本能習性としての「社会形成習性」の名残であり、これが人間としての社会性とは全く異なるものであることは何度も述べたつもりである

自律とは自発の中にあり、他にはない

この定理は、本質的自発性を持たない者には自律が成立しないことも意味する

なぜ自発性を失い、他人からの評価報酬だけでしか行動や思考が働かなくなってしまうのか

その原因として、一つは先天本能習性であるからであり。もう一つは自発性を抑圧するような環境要因である。


時折、「先天的本能習性には逆らうことが出来ない。」と堂々と言い張るバカげた呟きを見るが、これは先天的本能習性としての気分感情を短絡的に自由意志とか意識の全てだと錯覚しているためである

この錯覚もまたアプリオリな先天性のものであり、論理的によくよく考えてみれば錯覚に過ぎないことは理解可能である

何せ自分の遺伝子は自分で選択していないのであるから、そんな遺伝子から作られた自分の脳(大脳辺縁系)から発する先天的本能習性や気分感情といったものが、自己自身の本質的選択とは無関係であることは論理的に反証不可能な厳然たる事実であり

また、自分自身で先天的な本能習性が制御不可能であることの証明も出来ない




ここで勘違いしては困るのは、先天的な本能習性の全てが全面的に悪であるかのように錯覚することである

人間性としての自律的な社会的責任判断選択の基準として、社会安全性や持続可能性を求めることもまた、一つの「欲望」でもあるからだ

子供達や次世代の人達の未来に配慮する意識の広さが働かなければ、目先の利己的利益追求などの意識狭窄に陥り、身勝手で「外見上自己中心的に見える行動」もするようにもなる

つまり、重要なのは意識の広さを担保する自律的な論理検証性(理性)による選択可能性であり

選択可能性を阻害するのは他者からの強制的抑圧なのである




日本では保育施設が騒音被害原因と見なされ増やすことが困難であるとされているが、ある保育施設では子供の自発的意思を尊重することで、子供の精神的ストレスを減らし、絶叫などの迷惑行為が自然となくなるという事例がある

子供自身の主体的意向というものを尊重することによって、精神的ストレスがなくなり、結果的に絶叫などの問題行動が激減するのだ

これはつまり、主体性を尊重しない抑圧性こそが精神的ストレスとなり、問題行動の原因となっていることを意味する



清原和博氏は「社会の為になる人間になりたい。」という思いがありながら、薬物に手を染めてしまったわけだが

これはむしろ、「社会の為になる人間になりたい。」という欲求の源に、「他人から評価されたい。」という自発的ではない欲求による、いわば強迫観念である可能性が非常に高い

強迫観念は精神的には抑圧となるので、結果的に意識狭窄性を促し、反社会的行動にまで発展してしまうと考えられるのである

なので、清原和博氏には、もっと自分自身の個人的な好き嫌いを主張しても良いのではないかと思っている

自己自身の人生が強迫観念で抑圧されていて、他人の為など配慮が働かないのは必然的結果だからである

違法薬物に限らず、タバコや酒を断つには、根性とか辛抱とか我慢などの精神論が最も重要だと思われているが、実際の禁煙治療では、そういった強迫観念こそが間違いの素なのだ

「あれはダメ、これもダメ。」といった抑圧ばかりされていたのでは、いわば追い詰められる形になってしまい、いわば逃避行動として自己中心的行動に陥ってしまうのであり、誰も自ら望んで犯罪者になるわけではない



犯罪者が出ると、ヒトという種の生物の先天的本能習性として、懲罰という報復感情を満たすことを優先しがちであり

また、社会制度的にも司法はそれ以上取り立てて何もないのだが

懲罰というのは国家権力による報復感情の代行であり、それ以上の徹底的原因究明も再発防止も制度として組み込まれてはおらず、現状の信頼性のない精神鑑定で異常と判定されれば無罪となり、原因究明や再発防止どころか報復感情すら満たすことは出来ない制度なのである



大衆は短絡的な勧善懲悪の物語を好む傾向があるが、悪人を懲らしめることで気分的に安心満足して、それ以上の再発防止策への配慮が働かなくなるという、一種の欠陥をヒトという種の生物は先天的に持っている

そのため、清原和博氏が自分の好きなことを探す自由までをも、法的に何の根拠もないのに剥奪しようとする性質があり

また清原和博氏自身も、自分が薬物になど手を出さなくても済むような精神的自由など求めてはいけないものだと勝手に錯覚してしまっている

何が言いたいのかといえば、ヒトという種の生物は他人を抑圧しておけば社会安全性が担保されるものであるという先天的妄想を持っているということである

こうした妄想というのは、自分自身が自律的に社会的責任判断選択をせず、多数他人や国家権力からの抑圧にさえ従っておきさえすれば良いという、自律の欠落した発想から出てくる帰結でもある

相模原障害者施設での虐殺事件では、加害者には罪の認識がなく、この状態で精神的自由を求めては危険極まりないことは明らかであるが、清原和博氏には罪の自覚があり、同列に扱うべき事例ではない



「一番悪い奴は誰なのかを見つけ出し、暴力的攻撃を加えれば全てが解決する。」という短絡的で子供じみた発想が刑法罰の基礎であるが

相模原障害者施設での虐殺というのも、こうした短絡的発想であることに基本構造的な違いは何もないのである

また、この加害者の場合、「歴史に残るような大きなことを成し遂げたい。」という評価報酬中毒特有の発想も見られる

重大犯罪を引き起こすことで、とにかく歴史に名前を遺すことを、社会的評価か何かと勘違い錯覚しているヒトというのは、実際に重大犯罪者以外にも見られる歪んだ価値観であり

こうした価値観の歪み自体を歪みや錯覚であることを論理的理解に基づいた共通認識として持つことが何より再発防止において重要である

社会貢献や科学的発見や発明によって、歴史上名前が遺ることが評価であるからといって、短絡的に名前さえ遺れば社会的評価であるという発想には、自律的論理検証性がスッポ抜けている

「結果的に名前さえ遺れば良い」という発想には、他人からの評価だけが目的であって、社会安全性や持続可能性に基づいた自律的な社会的責任判断選択が介在していないのである



自律的な社会的責任判断選択というのは、人間性の源である

その人間性の源である「自律」の源が「自発」であり、これは多数他人や権力による抑圧では発揮されることはなく

むしろ抑圧こそが自発性を喪失させる最大の要因なのである



幼い子供が道路に飛び出す危険性を避けるために、「道路に飛び出すと、親に怒られるから。飛び出さない。」といった行動抑制を用いることがある

これは、幼い子供にとって、滅多に自動車が来ない道路への飛び出しの危険性を論理的に理解させることが困難であることから便宜的に行われる措置であって

こうした恐怖心を用いた行動抑制だけでは自律的な社会的責任判断を行うような人間性や倫理は身につくことはない

DQNの類が迷惑行動を平気で行うのは、それが「怖くない」という短絡的行動原理でしか決定していないからであり、幼稚性の証明でもある

ヒトという種の生物は、この世に産まれてくれば初期的に全て子供であり、幼稚であることは避けようのないものではあるが

こうした幼稚な短絡的行動原理でしか行動が決定することができないという自律不可能であるわけではない

「何か先天的疾患の類でもなければ」という限定はあるものの、この文章を読んでいる限りにおいては論外であろう



国家権力や学術権威に任せておけば、全ては自動的に社会安全性や持続可能性が担保されるものであるという、ある種の責任放棄があるからこそ、批判精神を失い、その代わりに根拠のない差別排除にばかり邁進するという子供じみた行動ばかりをヒトは行うようになるのである

イジメというのは大人のヘイトスピーチと同じものであり、誰でもいいから悪者と規定した相手を攻撃することで、その場限りの気分的安心満足感を得るための動物的行動習性が引き起こす「結果」である



動物行動習性という「結果」の全てに意味があると見なして、生物進化というものがあたかも目的意義のために自発的選択によってもたらされたものであるかのようなこじつけを、生物学者の誰も疑問を持たずに平気で行う

ヒトという種の生物でさえあれば、自動的に人間性が発揮されるように、進化的に全て自動的に組み込まれているものであるかのような嘘を陳列しておけば、バカな大衆は気分的に満足して鵜呑みにし、人気が得られるからである

あたかもヒトという種の生物が、進化によって常に人間性を自動的に発揮するよう予め出来上がっているかのような錯覚を促し、これが大衆にとって、あたかも自分が完全無欠の絶対的人間か何かと勘違いさせることで、身勝手な安心満足感を得られるからである



もし、ヒトという種の生物が完全であるならば、なぜイジメや差別はなくならないのか

それは、むしろ、イジメや差別のような淘汰圧力によってこそ、生存価に適した結果である可能性が高い

より威圧的で多数の人心を誘導出来る個体や、その誘導に簡単に流されるような無意識で条件反射的な行動しか採らない大多数の傍観者だけが生き残るような淘汰圧力の結果として、ヒトという種の生物はイジメや差別を行うようになったと言えるのである

人間性や倫理観というのは、別に生存価には特に適さないのである

生物進化というのは、結果的に生存していた種への淘汰という結果であり、そこに人間性や倫理観が働くような淘汰圧力など特に必要ないのである

死ななきゃ嘘つきでも暴力的でも何でも構わない、それが生存価だからである

結果的生存でしか淘汰圧力が働かない生物進化というものに、どうして人間性の進化が働くと言えるのであろうか?

ある程度においては、集団内部での協調性のようなものは生存価に適するとは言えるが

それは食物連鎖のピラミッド形成と同じように、肉食動物の繁殖能力が適度に少なくなることで結果的にピラミッド全体とのバランスがとれた「結果」と同様

適度に悪人で差別主義であるよう淘汰圧力が働いた「結果」である

40人前後の学校の教室において、一人や二人の自殺者が出たところで、生存価においてはほとんど影響を及ぼさない

40匹のネズミの飼育箱の中で、一匹やニ匹のネズミが死んだところで、種の存続において影響がないのと同じことである

生物進化の過程においては、生き残りさえすれば生存という結果が得られるのであって、進化過程における淘汰圧力というものは、結果的生存に適した個体や種でさえあれば良いのであって

そこに人間性や倫理が自動的に組み込まれているなどという話は、嘘ペテン誇大妄想の類でしかない

生物進化というものが、常に絶対的に正しい方向にしか働かないなどという都合の良いものではなく

あくまで生存価にとって有利に働いた結果以上の何か(人間性や倫理など)までもが獲得出来るわけではない




これで京都大学学長や松沢哲郎などの進化生物学者達が、どれだけ無能な非科学的オカルトなのかが少しは理解できたであろうか

先天的にバカなんだったら精神異常者と同様に無罪なんだろうな

その結果、避けられる可能性のある危険性が回避出来なくても、おいらの責任じゃないからね





Ende;
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする