例えばである
ある学級内でイジメが発生し、何人かの生徒が自殺をしたとする
イジメというのはヒトという種の生物に普遍的に見られる先天的本能習性であるから、通常問題意識を持った大人が介在しなければ殺人事件にまで発展する可能性をも持ったものである
こうした淘汰圧力によって選択された個体というのは、イジメを扇動するような暴力的個体や、それに同調する個体、そして大多数の傍観者であり。この淘汰圧力によって生き残った個体がイジメをなくす方向への先天的本能習性が組み込まれるメカニズムは存在していないばかりか、むしろ暴力性と同調性と傍観性ばかりが「進化」してしまうことになる
進化の全ては生存の「結果」であって、そこに意識的な目的のようなものなど存在していないからである
暴力者やその同調者、傍観者が結果的に生存に適していたからといって、その生存に意味(人間性)があると言えるであろうか
進化生物学者が、「ヒトという種の生物には、先天的に人間性が組み込まれている可能性がある。」などということがよくあるが、先天的本能習性というのは特定環境下においての限定的「結果」でしかなく。環境が異なれば発揮されることのない習性を、どんなにたくさん陳列枚挙しても、そこには人間性の源である「自律的な社会的責任判断選択」が介在していないのである
環境依存的な「結果」だけでは、個体の自律的「目的」行動選択性という人間性を論ずることは構造原理的に不可能なのである
人間性というのはヒトという種の生物の先天的本能習性によって立証できるようなものではなく、あくまで自律的な社会的責任判断選択によってのみ発揮されるものなのである
従って、進化生物学上の先天的本能習性によってヒトという種の生物の人間性を立証することなど、構造原理的に不可能なのである
進化という「結果」の全てが、あたかも全自動で絶対的に正しい本能習性だけが組み込まれるという妄想を、文科系大衆観念的な神話として、多くのヒトは信じて疑うことがない
これは、ある種の「オーガニック幻想」である
天然素材でありさえすれば、絶対に無害で健康的だという妄想錯覚が文科系大衆にはあり
天然鉱物のアスベストが無害だと信じ込まれていたのもそのためであろう
トラフグのテトロドトキシン毒も天然素材である
野生のキノコ類も猛毒を持ったものが多い
天然素材でありさえすれば、何でもかんでも安全で健康的であるわけではないのだが、天然素材信仰的なものが大多数の大衆観念上にはあるのだ
環境(育ち)が悪いのか、それとも先天性が悪いのかという議論をしたがるバカがいなくならないが
ヒトという種の生物というのは先天的には差別主義的で個人的好き嫌いが存在するものであり、差別というのは意識的に抑制しなければ無意識に発揮してしまうものでもある
そして意識的な抑制というものの重要性を、成育環境下で誰も認識していない場合には、発揮されずらい傾向性もある
果して、先天的に狂暴で差別的な個体が発生した場合。死刑などの人為的淘汰圧力を加えておけば、何万年後には狂暴な性質がヒトからなくなるとでも思っているのだろうか?
その淘汰圧力自体が非人間的であるとは思わないのであろうか?
環境要因だけが問題であるというのであれば、その環境自体を一体誰が整備してくれるというのであろうか?
人間性というものは、先天的習性や環境要因だけで論じられるべきものではなく。あくまで個人の自律的な論理検証性に基づいた、本質的な意識によって発揮されるものであって、「育ちか、氏か」だけで決定できるようなものではない
凶悪な集団、例えばかつてのシエラレオネの少年ゲリラ組織や、連合赤軍のような組織の中では、より凶悪で暴力的で多数を恐怖心で扇動できるような個体や、それに迎合的な個体こそが生き残ることが可能である
その結果、先天的に暴力に迎合的な個体への淘汰(先鋭化)が生じてしまうことにもなる
大多数の大衆は、こうした暴力的個体を、刑法懲罰で死刑にしておけば自動的にヒトの暴力性が淘汰されるとでも思っているからこそ、死刑制度を必要だと信じて疑わないのであろう
だが、死刑という遠回しな断種政策自体を凶悪だとは思っていないのであろうか?
犯罪者だけは特別に差別しても良いと思っているのであろうか?
自分達の暴力性や差別主義性だけを正当化しておいて、「差別や暴力がなくならないのは何でだろう。」と嘆いているのは、ほとんど痴呆としか思えないのだが
大多数の大衆は既存の刑法懲罰司法制度こそが唯一絶対的な犯罪抑止力であると信じて疑うことをしない
国家権力による懲罰や死刑という、恐怖心を用いた抑止力というものは、死ぬことをいとわぬ自暴自棄な相手に対しては意味を為さない
自爆テロや通り魔の類に刑法懲罰は無効なのである
ではこれらを抑止するためには何が必要かと言えば、「暴力で解決する。」という大衆的な短絡的発想を、大多数の人が捨てることである
ヒトという種の生物は暴力が大好きである
時代劇が人気なのは刀を振り回して悪漢を退治するからである
ヒーロー物語も勧善懲悪(悪人を懲らしめること)を解決とみなす
「悪漢」という区別(差別)をすることで、一方的に暴力的解決をしても良いものであると、大多数の大衆は思っているからである
しかし、こうした区別(差別)というものは、テロリストや通り魔の行動原理と何ら違いはなく。「悪者には懲罰や死刑を与えてしまえば、全ては解決だ。」という、合理性の全くない、その場限りの気分的安心満足を得るための観念に過ぎない
人生の中で、一度や二度は「こいつ死ねば良いのに。」と思ったことはあるはずである
なかったら多分白痴であろう
もしないと言うのであれば死刑制度の存続を望んだりもしないはずであるから、現状死刑制度廃止反対派が過半数を占める日本においては、大半のヒトが殺意くらい持つことはあることの証明でもある
凶悪事件を起こすような奴であれば、こんな奴は死ねば良いと誰もが思うはずである
その「感覚」自体はヒトという種の生物としては異常ではないが、主観的「感覚」が社会制度に直結しているというのは、その間に理性が完全に抜け落ちていて人間としては異常なのである
悪人と決め付けた相手に暴力を振るうと、自分が正義の鉄鎚を下したと称して満足する習性がヒトにはある
しかし、その気分的満足では、「なぜ自暴自棄なテロや通り魔が発生するのか?。」という原因の究明やテロの再発防止策には一切到達出来ず。その場限りに気分(大脳辺縁系)を満足させるだけである
刑法懲罰を与えて、罪人を懲らしめておけば。刑務所が自動的に善人に仕立て上げてくれるとでも妄想しているのかも知れないが。実際には刑法懲罰というものは再犯抑止にはほとんど効果がなく、強盗殺人で25年服役し出所後数週間で殺人を犯すということも時折見られ。再犯率は40%にも達する合理的根拠のない制度に過ぎないのだが、それ以外(以上)の問題解決策への言及は誰も行うようには出来ていない
こうした非合理性というのは、テロや通り魔の行動と全く同じものである
合理的に問題を解決することをせずに、その場限りに気分的に満足することばかりを優先している点において何の違いもないからだ
ヒトという種の生物の先天的本能習性というものが、あたかも自動的に全て正しい結果をもたらすものであるという観念があるからこそ、ヒトの多くは目先の気分的満足ばかりを優先して合理的解決策を蔑ろにするのである
こうした無責任さに対して、進化生物学界もヒトという種の生物があたかも先天的に人間性を持ち、常に正しい行動を採るように先天的に出来ているかのような非科学的嘘によって大衆人気取りを行うことによって助長しているのである
進化生物学者が嘘によって人気取りをしているから、大衆の多くが騙されていても罪はないと思うのであろうか?
大多数の大衆が騙されているから責任が薄まるとでも思っているのであろうか?
その結果、解決可能な問題が解決されなくても、回避可能な危険性が回避出来なくても、それは個人に責任はないとでも思っているのであろうか?
こうした当事者意識の欠如というのは、東京電力社内における原発の危険性放置の心理的構造と何の違いもないではないか
人間性や倫理というものの根源とは、あくまで自律的な社会的責任判断選択にあるのであって。多数派同調性や傍観主義や権威への責任転嫁こそが人間性の欠落を招く大きな要因となっているのである
自律には育ちも氏もなく、あくまで個人の意識の問題である
本質的な意識としての自律的論理検証性なくして、人間性や倫理を語ることなど構造原理的に不可能であり、それこそ先天的に不可能でもない限りは社会人である限りは本来全員が持たなくてはならないはずのものでもある
進化生物学上の大嘘で満足し、何の疑問も持たずに鵜呑みにすることも。司法懲罰だけが唯一絶対的な犯罪抑止力だと信じ込み、それ以上の何の制度も存在していない現状に何の疑問も持たないことも。これらは自律的判断選択の欠落した無責任な行動であることの自覚が誰にもない
バカの集団が問題解決を出来ないのは当たり前の話である
Ende;
ある学級内でイジメが発生し、何人かの生徒が自殺をしたとする
イジメというのはヒトという種の生物に普遍的に見られる先天的本能習性であるから、通常問題意識を持った大人が介在しなければ殺人事件にまで発展する可能性をも持ったものである
こうした淘汰圧力によって選択された個体というのは、イジメを扇動するような暴力的個体や、それに同調する個体、そして大多数の傍観者であり。この淘汰圧力によって生き残った個体がイジメをなくす方向への先天的本能習性が組み込まれるメカニズムは存在していないばかりか、むしろ暴力性と同調性と傍観性ばかりが「進化」してしまうことになる
進化の全ては生存の「結果」であって、そこに意識的な目的のようなものなど存在していないからである
暴力者やその同調者、傍観者が結果的に生存に適していたからといって、その生存に意味(人間性)があると言えるであろうか
進化生物学者が、「ヒトという種の生物には、先天的に人間性が組み込まれている可能性がある。」などということがよくあるが、先天的本能習性というのは特定環境下においての限定的「結果」でしかなく。環境が異なれば発揮されることのない習性を、どんなにたくさん陳列枚挙しても、そこには人間性の源である「自律的な社会的責任判断選択」が介在していないのである
環境依存的な「結果」だけでは、個体の自律的「目的」行動選択性という人間性を論ずることは構造原理的に不可能なのである
人間性というのはヒトという種の生物の先天的本能習性によって立証できるようなものではなく、あくまで自律的な社会的責任判断選択によってのみ発揮されるものなのである
従って、進化生物学上の先天的本能習性によってヒトという種の生物の人間性を立証することなど、構造原理的に不可能なのである
進化という「結果」の全てが、あたかも全自動で絶対的に正しい本能習性だけが組み込まれるという妄想を、文科系大衆観念的な神話として、多くのヒトは信じて疑うことがない
これは、ある種の「オーガニック幻想」である
天然素材でありさえすれば、絶対に無害で健康的だという妄想錯覚が文科系大衆にはあり
天然鉱物のアスベストが無害だと信じ込まれていたのもそのためであろう
トラフグのテトロドトキシン毒も天然素材である
野生のキノコ類も猛毒を持ったものが多い
天然素材でありさえすれば、何でもかんでも安全で健康的であるわけではないのだが、天然素材信仰的なものが大多数の大衆観念上にはあるのだ
環境(育ち)が悪いのか、それとも先天性が悪いのかという議論をしたがるバカがいなくならないが
ヒトという種の生物というのは先天的には差別主義的で個人的好き嫌いが存在するものであり、差別というのは意識的に抑制しなければ無意識に発揮してしまうものでもある
そして意識的な抑制というものの重要性を、成育環境下で誰も認識していない場合には、発揮されずらい傾向性もある
果して、先天的に狂暴で差別的な個体が発生した場合。死刑などの人為的淘汰圧力を加えておけば、何万年後には狂暴な性質がヒトからなくなるとでも思っているのだろうか?
その淘汰圧力自体が非人間的であるとは思わないのであろうか?
環境要因だけが問題であるというのであれば、その環境自体を一体誰が整備してくれるというのであろうか?
人間性というものは、先天的習性や環境要因だけで論じられるべきものではなく。あくまで個人の自律的な論理検証性に基づいた、本質的な意識によって発揮されるものであって、「育ちか、氏か」だけで決定できるようなものではない
凶悪な集団、例えばかつてのシエラレオネの少年ゲリラ組織や、連合赤軍のような組織の中では、より凶悪で暴力的で多数を恐怖心で扇動できるような個体や、それに迎合的な個体こそが生き残ることが可能である
その結果、先天的に暴力に迎合的な個体への淘汰(先鋭化)が生じてしまうことにもなる
大多数の大衆は、こうした暴力的個体を、刑法懲罰で死刑にしておけば自動的にヒトの暴力性が淘汰されるとでも思っているからこそ、死刑制度を必要だと信じて疑わないのであろう
だが、死刑という遠回しな断種政策自体を凶悪だとは思っていないのであろうか?
犯罪者だけは特別に差別しても良いと思っているのであろうか?
自分達の暴力性や差別主義性だけを正当化しておいて、「差別や暴力がなくならないのは何でだろう。」と嘆いているのは、ほとんど痴呆としか思えないのだが
大多数の大衆は既存の刑法懲罰司法制度こそが唯一絶対的な犯罪抑止力であると信じて疑うことをしない
国家権力による懲罰や死刑という、恐怖心を用いた抑止力というものは、死ぬことをいとわぬ自暴自棄な相手に対しては意味を為さない
自爆テロや通り魔の類に刑法懲罰は無効なのである
ではこれらを抑止するためには何が必要かと言えば、「暴力で解決する。」という大衆的な短絡的発想を、大多数の人が捨てることである
ヒトという種の生物は暴力が大好きである
時代劇が人気なのは刀を振り回して悪漢を退治するからである
ヒーロー物語も勧善懲悪(悪人を懲らしめること)を解決とみなす
「悪漢」という区別(差別)をすることで、一方的に暴力的解決をしても良いものであると、大多数の大衆は思っているからである
しかし、こうした区別(差別)というものは、テロリストや通り魔の行動原理と何ら違いはなく。「悪者には懲罰や死刑を与えてしまえば、全ては解決だ。」という、合理性の全くない、その場限りの気分的安心満足を得るための観念に過ぎない
人生の中で、一度や二度は「こいつ死ねば良いのに。」と思ったことはあるはずである
なかったら多分白痴であろう
もしないと言うのであれば死刑制度の存続を望んだりもしないはずであるから、現状死刑制度廃止反対派が過半数を占める日本においては、大半のヒトが殺意くらい持つことはあることの証明でもある
凶悪事件を起こすような奴であれば、こんな奴は死ねば良いと誰もが思うはずである
その「感覚」自体はヒトという種の生物としては異常ではないが、主観的「感覚」が社会制度に直結しているというのは、その間に理性が完全に抜け落ちていて人間としては異常なのである
悪人と決め付けた相手に暴力を振るうと、自分が正義の鉄鎚を下したと称して満足する習性がヒトにはある
しかし、その気分的満足では、「なぜ自暴自棄なテロや通り魔が発生するのか?。」という原因の究明やテロの再発防止策には一切到達出来ず。その場限りに気分(大脳辺縁系)を満足させるだけである
刑法懲罰を与えて、罪人を懲らしめておけば。刑務所が自動的に善人に仕立て上げてくれるとでも妄想しているのかも知れないが。実際には刑法懲罰というものは再犯抑止にはほとんど効果がなく、強盗殺人で25年服役し出所後数週間で殺人を犯すということも時折見られ。再犯率は40%にも達する合理的根拠のない制度に過ぎないのだが、それ以外(以上)の問題解決策への言及は誰も行うようには出来ていない
こうした非合理性というのは、テロや通り魔の行動と全く同じものである
合理的に問題を解決することをせずに、その場限りに気分的に満足することばかりを優先している点において何の違いもないからだ
ヒトという種の生物の先天的本能習性というものが、あたかも自動的に全て正しい結果をもたらすものであるという観念があるからこそ、ヒトの多くは目先の気分的満足ばかりを優先して合理的解決策を蔑ろにするのである
こうした無責任さに対して、進化生物学界もヒトという種の生物があたかも先天的に人間性を持ち、常に正しい行動を採るように先天的に出来ているかのような非科学的嘘によって大衆人気取りを行うことによって助長しているのである
進化生物学者が嘘によって人気取りをしているから、大衆の多くが騙されていても罪はないと思うのであろうか?
大多数の大衆が騙されているから責任が薄まるとでも思っているのであろうか?
その結果、解決可能な問題が解決されなくても、回避可能な危険性が回避出来なくても、それは個人に責任はないとでも思っているのであろうか?
こうした当事者意識の欠如というのは、東京電力社内における原発の危険性放置の心理的構造と何の違いもないではないか
人間性や倫理というものの根源とは、あくまで自律的な社会的責任判断選択にあるのであって。多数派同調性や傍観主義や権威への責任転嫁こそが人間性の欠落を招く大きな要因となっているのである
自律には育ちも氏もなく、あくまで個人の意識の問題である
本質的な意識としての自律的論理検証性なくして、人間性や倫理を語ることなど構造原理的に不可能であり、それこそ先天的に不可能でもない限りは社会人である限りは本来全員が持たなくてはならないはずのものでもある
進化生物学上の大嘘で満足し、何の疑問も持たずに鵜呑みにすることも。司法懲罰だけが唯一絶対的な犯罪抑止力だと信じ込み、それ以上の何の制度も存在していない現状に何の疑問も持たないことも。これらは自律的判断選択の欠落した無責任な行動であることの自覚が誰にもない
バカの集団が問題解決を出来ないのは当たり前の話である
Ende;