進化生物学者の中には、現在の食物連鎖のピラミッドのような環境調和性というものが、自然淘汰とは別の何らかの力学が働いて生じているというバカげたことを言い出す奴が後を絶たない
天文学における惑星同士の軌道干渉がなくなったという結果については、互いに軌道が干渉するような天体が長い期間に渡って徹底的に淘汰された結果であることを、当たり前の常識として認識しているのだが
進化生物学者達の多くは、こうした環境調和性というものが自然淘汰とは別の力学が存在していて、自動的に必ず調和の方向性に向かうかのような幻想神話を本気にしているオカルト野郎が多すぎる
現在の生物相における環境調和性というものは、長い生物史における度重なる大絶滅などの不調和の繰り返しの果てに偶発的に外見上調和しているように見えているだけであって、過去の生物史の中においては、天体の軌道干渉のような大絶滅カオス状態が何度も発生し、その中で偶発的に環境調和するような個体種の生物相に淘汰された一面的結果だけを取り上げて、あたかも全ての生物が常に環境調和の方向性を予め持っているかのような錯覚を抱いているに過ぎない
例えば、食物連鎖のピラミッドにおける肉食動物が、その下位にある草食動物などを食い尽くすような繁殖力と狂暴性を兼ね備えてしまった場合。環境を食い尽くして環境ごと自滅するという淘汰圧力が働くことで、自ずから環境調和するような繁殖力と狂暴性のバランスがとれた肉食動物しか生き残ることが出来なかったために、現在の生物相のような調和性が形作られたのであり。個体の生存というのは環境と不可分なものであって、結果的に生き遺った生物種が環境調和性も兼ね備えているのは当たり前の話であって、自然淘汰圧力とは別の構造や力学が働いたわけでも何でもない
生物学者の多くというのは、論理的に物事を考えることの出来ない文科系大衆観念者があまりに多く。オーガニック幻想のように自然由来の出来事の全ては人知を超えた進化生物学の神のようなものの意思が働くことで、自動的に常に全てが正しい方向へと自動的に進化するものであるという妄想神話を本気にしている
進化というのは、生存の結果である。それ以上の何の力学も働いてはいない
生存とはいっても、あくまで現在生存しているだけの話であって、未来永劫常に全ての生物種が環境調和性や、それこそ持続可能性や安全性を求めるような人間性までをも先天的に獲得できるわけではなく。あくまで今現在の生物相において暫定的に調和安定しているに過ぎないのである
従って、ヒトという種の生物が、長い間の世代交代を経たからといって、自動的に先天的な人間性を常に発揮可能な習性が組み込まれるというメカニズム力学が働くわけではない
一面的に多数派迎合性や、服従による権威統率の結果としての役割分担などの「社会形成習性」は組み込まれてはいると言えるとしても。こんな先天的で無意識条件反射的行動だけで人間性や倫理が立証できるわけがないのである
左脳優位なヒトというのは、極めて一面的な現象結果だけを根拠に全てを説明しようとする傾向があり。また、左脳優位なヒトほど言語による意識誘導(誘導されている時点で既に無意識なのだが)に流されやすいために、科学的論理検証よりも気分的納得感覚だけで簡単に思考停止に陥り、科学的探求を一切行わなくなってしまう性質がある
人間性というものは、自律的な論理検証による行動選択によって発揮されるものであって。先天的な行動バイアスに過ぎない行動習性で立証可能なものでは構造原理的にない
ヒトなどの生物に見られる習性としての「社会性」というものは、役割分担や権威統率などによって個体単体では行うことの難しい能力を発揮することは出来ても。こうした能力というものには方向性がなく、あくまで先天的な行動バイアスに過ぎないために、ISILやオウム真理教のようなカルト暴力集団の形成において働くこともしばしばある
こうした先天的な社会形成習性というものには自律がなく、あくまで環境依存的な行動バイアスの結果しか至ることがなく。こうした無意識な習性や行動バイアスこそが自律的な社会的責任判断選択を阻害し、むしろ人間性から遠ざかる原因としてしか働くことはない
神話や幻想にとり憑かれ、ありもしない立証方法に執着している現在の進化生物学界というのは、充分にオカルト集団であり、理論科学としての社会的役割を全く果しておらず、税金の無駄遣いにしかなっていない
一人の互換不能な人間性というものは、先天的な行動習性などの遺伝的要素によって自動的に発揮されるようなものではなく。あくまで自律的な論理検証に基づいた社会的責任行動によって発揮されるものであり、氏でも育ちでもなく、自覚や意識によって発揮されるものなのである
こうした人間性や倫理というものが、単なる生存の結果に過ぎない進化(変化変異)によって説明できるわけがないのであって。「行動習性から、人間としての社会性が立証できるかも知れない。」などという論理的に不可能な仮説を立てている時点で、科学者としては無能ポンコツとしか言えないのである
人間性や倫理というものが、ヒトという種の生物における淘汰圧力として働くメカニズム構造は存在せず。むしろ組織に迎合して自律的な社会的責任判断選択などしない方が、組織集団の内部においては生存価に適しているのであり。生存のためなら人間性や倫理は放棄するような先天的行動習性を持った個体種へとしか淘汰圧力は働かないのである
イジメや差別によって、一体何人の罪のない個体が殺されたら、ヒトという種の生物には人間性や倫理が組み込まれるというのであろうか。そもそもそんな淘汰圧力自体が存在しない以上、先天的な行動習性だけではイジメは増えることはあっても減ることはないのである
◇
高橋みなみ氏に苦言となるかも知れないが、行動宣言などというのはイジメに対する問題意識のある人の中における自己満足(お花畑)にしかなっておらず。論理的な原因究明や対策にはほとんどつながっていない
川崎市近辺の中高生達が殺し合いにまで至る程の暴力性を発揮しているのだが、一つの殺人事件にまで発展する背景には、無数の暴力事件が存在していると考えるべきであり。ヒトという種の生物がどのようなメカニズムによって暴力的集団組織として統率行動を発揮するように至るのか、その構造原理について検証し、原因究明を再発防止策に生かすべきなのである
軍隊というのは、兵役訓練という環境によってヒトに殺人暴力を行うように洗脳する制度である
ヒトという種の生物は、その先天的な社会形成習性の中の一つである権威服従性を利用することによって、自律的な社会的責任判断選択を放棄し、「上」からの命令に機械条件反射的に服従することによって、戦争などというバカげた行為をもさせることが可能なのである
こうした習性というのは、別に軍隊でなくても先天的習性である以上、自然と発揮してしまうものであり。中高生が勝手に暴力組織集団を形成して、勝手に自滅の道を歩んでしまうことも珍しいことではない
文明以前の自然環境下においては、こうした組織的暴力性というものが生存価に適していた可能性は充分にあり。むしろ組織的暴力を発揮するといった「社会形成習性」を持った個体種へと淘汰圧力が働いた結果として、ヒトは野蛮な戦争を何度も繰り返すのである
頭の悪い左脳優位なバカの場合、このように「先天的に暴力的であるならば、もはや暴力をなくすことは不可能である。」などと短絡的帰結に至って、一切の対策を放棄して満足するであろう
バカというのは満足によって生ずる思考停止を意味するのであり、先天的な学習障害などとは全く別のものである
ヒトという種の生物は、自律的な理性(論理検証性)によって、自らの先天的行動習性という無意識に流されることない行動選択可能性を持っている(厳密に言えば、先天的な学習障害などの疾患がなければ。)
可能でありながらやらないというのは、単なる無責任であり、人間性の放棄に他ならない
「先天的な行動習性によって、人間としての社会性が立証可能かも知れない。」などというオカルト進化生物学者達の妄想錯覚に何の疑問も持たないお花畑で満足している頭の悪さこそが、地球の裏側で赤ん坊が燃やされる事態を止めることが出来なくしているという自覚を持たなくてはならない
地球のこっち側でも、川崎の学生の命が失われているのであり、決して対岸の火事ではないのである
先天的行動習性や本能というものは、自律的な社会的責任判断選択を放棄しても構わない理由になど一切ならないのである
進化生物学上の結果でしかない先天的な本能習性というものは、それによって人間としての自律的行動選択不可能の証明になどならない
行動習性や本能というのは「結果」であり、無意識な行動バイアス(傾向性)以上の意味など持っておらず。イジメや差別暴力をなくすという、意識的「目的」のための合理的行動選択に対して、何ら制限となる理屈は存在していないのである
それを何を勘違いしているのか知らないが、進化生物学上の行動習性さえ立証できれば全てが決定してしまうかのように錯覚している人が多すぎる。
現在の進化生物学上の立証というのは、ヒト以外の動物における傾向性の立証でしかなく。これによって人類の未来が決定してしまうような権限や証明か何かだと勘違いしてはいけない
それは先天的本能習性として人間性が立証することが不可能であるが、個人の意識によって人間性を発揮することが可能であることを意味するのであり。人間性というのは進化生物学とは無関係な領域であり、進化生物学上の立証で満足することも、絶望することも科学的には無意味なのである
ヒトという種の生物の先天的な行動習性や本能という「結果」がどのようなものであるのかに関わらず、自律的に社会的責任判断行動選択可能性がある以上、その可能性を行使することこそが人間性なのであり。その場限りの満足も絶望も先天的な習性の結果に過ぎず、人間性とは無関係なのである
◇
我々の祖先がどのような経緯によって生存したのかは、もはや知る手だてはほとんどない。現在の犯罪ですら証拠が見つからなければ立証不可能であり、どのような悪どい手段によって「生存」という結果に至ったのか、わかったものではない
終戦後の焼け野原では、他人に危害を加えてでも生き残らなければ死んでしまう。戦後の闇市では燃料用アルコールを水で薄めてお茶で色をつけた偽造酒によって、失明した人もたくさんいたそうである。こうした過酷な「生存」競争の結果として生き残れたからといって、そこに人間性が宿るような淘汰圧力が存在していないことは明らかである
終戦後でなくても川崎の学生達にも、人間性が宿るような淘汰圧力など存在しておらず、一見平穏に見える日本社会全体においても、貧富格差が拡大するようなメカニズムによって、人間性など発揮しない企業やヒトへと淘汰圧力が働いているからこそ、貧富格差は一向に解消する構造力学は存在していない
そこに貧富格差を解消するための制度や仕組みといったものを新しく作り出すのは理性である
その場限りの気分的な「可哀相」などという憐れみでは、社会構造的欠陥の解消にはならないのである
高橋みなみ氏達が行っている行動宣言の類も、所詮はその場限りの憐れみで満足しているに過ぎず、イジメ問題の根源的原因究明にも、効果的で具体性のある再発防止策にもつながっていない
それが、むしろ残念で仕方がないのである
Ende;
天文学における惑星同士の軌道干渉がなくなったという結果については、互いに軌道が干渉するような天体が長い期間に渡って徹底的に淘汰された結果であることを、当たり前の常識として認識しているのだが
進化生物学者達の多くは、こうした環境調和性というものが自然淘汰とは別の力学が存在していて、自動的に必ず調和の方向性に向かうかのような幻想神話を本気にしているオカルト野郎が多すぎる
現在の生物相における環境調和性というものは、長い生物史における度重なる大絶滅などの不調和の繰り返しの果てに偶発的に外見上調和しているように見えているだけであって、過去の生物史の中においては、天体の軌道干渉のような大絶滅カオス状態が何度も発生し、その中で偶発的に環境調和するような個体種の生物相に淘汰された一面的結果だけを取り上げて、あたかも全ての生物が常に環境調和の方向性を予め持っているかのような錯覚を抱いているに過ぎない
例えば、食物連鎖のピラミッドにおける肉食動物が、その下位にある草食動物などを食い尽くすような繁殖力と狂暴性を兼ね備えてしまった場合。環境を食い尽くして環境ごと自滅するという淘汰圧力が働くことで、自ずから環境調和するような繁殖力と狂暴性のバランスがとれた肉食動物しか生き残ることが出来なかったために、現在の生物相のような調和性が形作られたのであり。個体の生存というのは環境と不可分なものであって、結果的に生き遺った生物種が環境調和性も兼ね備えているのは当たり前の話であって、自然淘汰圧力とは別の構造や力学が働いたわけでも何でもない
生物学者の多くというのは、論理的に物事を考えることの出来ない文科系大衆観念者があまりに多く。オーガニック幻想のように自然由来の出来事の全ては人知を超えた進化生物学の神のようなものの意思が働くことで、自動的に常に全てが正しい方向へと自動的に進化するものであるという妄想神話を本気にしている
進化というのは、生存の結果である。それ以上の何の力学も働いてはいない
生存とはいっても、あくまで現在生存しているだけの話であって、未来永劫常に全ての生物種が環境調和性や、それこそ持続可能性や安全性を求めるような人間性までをも先天的に獲得できるわけではなく。あくまで今現在の生物相において暫定的に調和安定しているに過ぎないのである
従って、ヒトという種の生物が、長い間の世代交代を経たからといって、自動的に先天的な人間性を常に発揮可能な習性が組み込まれるというメカニズム力学が働くわけではない
一面的に多数派迎合性や、服従による権威統率の結果としての役割分担などの「社会形成習性」は組み込まれてはいると言えるとしても。こんな先天的で無意識条件反射的行動だけで人間性や倫理が立証できるわけがないのである
左脳優位なヒトというのは、極めて一面的な現象結果だけを根拠に全てを説明しようとする傾向があり。また、左脳優位なヒトほど言語による意識誘導(誘導されている時点で既に無意識なのだが)に流されやすいために、科学的論理検証よりも気分的納得感覚だけで簡単に思考停止に陥り、科学的探求を一切行わなくなってしまう性質がある
人間性というものは、自律的な論理検証による行動選択によって発揮されるものであって。先天的な行動バイアスに過ぎない行動習性で立証可能なものでは構造原理的にない
ヒトなどの生物に見られる習性としての「社会性」というものは、役割分担や権威統率などによって個体単体では行うことの難しい能力を発揮することは出来ても。こうした能力というものには方向性がなく、あくまで先天的な行動バイアスに過ぎないために、ISILやオウム真理教のようなカルト暴力集団の形成において働くこともしばしばある
こうした先天的な社会形成習性というものには自律がなく、あくまで環境依存的な行動バイアスの結果しか至ることがなく。こうした無意識な習性や行動バイアスこそが自律的な社会的責任判断選択を阻害し、むしろ人間性から遠ざかる原因としてしか働くことはない
神話や幻想にとり憑かれ、ありもしない立証方法に執着している現在の進化生物学界というのは、充分にオカルト集団であり、理論科学としての社会的役割を全く果しておらず、税金の無駄遣いにしかなっていない
一人の互換不能な人間性というものは、先天的な行動習性などの遺伝的要素によって自動的に発揮されるようなものではなく。あくまで自律的な論理検証に基づいた社会的責任行動によって発揮されるものであり、氏でも育ちでもなく、自覚や意識によって発揮されるものなのである
こうした人間性や倫理というものが、単なる生存の結果に過ぎない進化(変化変異)によって説明できるわけがないのであって。「行動習性から、人間としての社会性が立証できるかも知れない。」などという論理的に不可能な仮説を立てている時点で、科学者としては無能ポンコツとしか言えないのである
人間性や倫理というものが、ヒトという種の生物における淘汰圧力として働くメカニズム構造は存在せず。むしろ組織に迎合して自律的な社会的責任判断選択などしない方が、組織集団の内部においては生存価に適しているのであり。生存のためなら人間性や倫理は放棄するような先天的行動習性を持った個体種へとしか淘汰圧力は働かないのである
イジメや差別によって、一体何人の罪のない個体が殺されたら、ヒトという種の生物には人間性や倫理が組み込まれるというのであろうか。そもそもそんな淘汰圧力自体が存在しない以上、先天的な行動習性だけではイジメは増えることはあっても減ることはないのである
◇
高橋みなみ氏に苦言となるかも知れないが、行動宣言などというのはイジメに対する問題意識のある人の中における自己満足(お花畑)にしかなっておらず。論理的な原因究明や対策にはほとんどつながっていない
川崎市近辺の中高生達が殺し合いにまで至る程の暴力性を発揮しているのだが、一つの殺人事件にまで発展する背景には、無数の暴力事件が存在していると考えるべきであり。ヒトという種の生物がどのようなメカニズムによって暴力的集団組織として統率行動を発揮するように至るのか、その構造原理について検証し、原因究明を再発防止策に生かすべきなのである
軍隊というのは、兵役訓練という環境によってヒトに殺人暴力を行うように洗脳する制度である
ヒトという種の生物は、その先天的な社会形成習性の中の一つである権威服従性を利用することによって、自律的な社会的責任判断選択を放棄し、「上」からの命令に機械条件反射的に服従することによって、戦争などというバカげた行為をもさせることが可能なのである
こうした習性というのは、別に軍隊でなくても先天的習性である以上、自然と発揮してしまうものであり。中高生が勝手に暴力組織集団を形成して、勝手に自滅の道を歩んでしまうことも珍しいことではない
文明以前の自然環境下においては、こうした組織的暴力性というものが生存価に適していた可能性は充分にあり。むしろ組織的暴力を発揮するといった「社会形成習性」を持った個体種へと淘汰圧力が働いた結果として、ヒトは野蛮な戦争を何度も繰り返すのである
頭の悪い左脳優位なバカの場合、このように「先天的に暴力的であるならば、もはや暴力をなくすことは不可能である。」などと短絡的帰結に至って、一切の対策を放棄して満足するであろう
バカというのは満足によって生ずる思考停止を意味するのであり、先天的な学習障害などとは全く別のものである
ヒトという種の生物は、自律的な理性(論理検証性)によって、自らの先天的行動習性という無意識に流されることない行動選択可能性を持っている(厳密に言えば、先天的な学習障害などの疾患がなければ。)
可能でありながらやらないというのは、単なる無責任であり、人間性の放棄に他ならない
「先天的な行動習性によって、人間としての社会性が立証可能かも知れない。」などというオカルト進化生物学者達の妄想錯覚に何の疑問も持たないお花畑で満足している頭の悪さこそが、地球の裏側で赤ん坊が燃やされる事態を止めることが出来なくしているという自覚を持たなくてはならない
地球のこっち側でも、川崎の学生の命が失われているのであり、決して対岸の火事ではないのである
先天的行動習性や本能というものは、自律的な社会的責任判断選択を放棄しても構わない理由になど一切ならないのである
進化生物学上の結果でしかない先天的な本能習性というものは、それによって人間としての自律的行動選択不可能の証明になどならない
行動習性や本能というのは「結果」であり、無意識な行動バイアス(傾向性)以上の意味など持っておらず。イジメや差別暴力をなくすという、意識的「目的」のための合理的行動選択に対して、何ら制限となる理屈は存在していないのである
それを何を勘違いしているのか知らないが、進化生物学上の行動習性さえ立証できれば全てが決定してしまうかのように錯覚している人が多すぎる。
現在の進化生物学上の立証というのは、ヒト以外の動物における傾向性の立証でしかなく。これによって人類の未来が決定してしまうような権限や証明か何かだと勘違いしてはいけない
それは先天的本能習性として人間性が立証することが不可能であるが、個人の意識によって人間性を発揮することが可能であることを意味するのであり。人間性というのは進化生物学とは無関係な領域であり、進化生物学上の立証で満足することも、絶望することも科学的には無意味なのである
ヒトという種の生物の先天的な行動習性や本能という「結果」がどのようなものであるのかに関わらず、自律的に社会的責任判断行動選択可能性がある以上、その可能性を行使することこそが人間性なのであり。その場限りの満足も絶望も先天的な習性の結果に過ぎず、人間性とは無関係なのである
◇
我々の祖先がどのような経緯によって生存したのかは、もはや知る手だてはほとんどない。現在の犯罪ですら証拠が見つからなければ立証不可能であり、どのような悪どい手段によって「生存」という結果に至ったのか、わかったものではない
終戦後の焼け野原では、他人に危害を加えてでも生き残らなければ死んでしまう。戦後の闇市では燃料用アルコールを水で薄めてお茶で色をつけた偽造酒によって、失明した人もたくさんいたそうである。こうした過酷な「生存」競争の結果として生き残れたからといって、そこに人間性が宿るような淘汰圧力が存在していないことは明らかである
終戦後でなくても川崎の学生達にも、人間性が宿るような淘汰圧力など存在しておらず、一見平穏に見える日本社会全体においても、貧富格差が拡大するようなメカニズムによって、人間性など発揮しない企業やヒトへと淘汰圧力が働いているからこそ、貧富格差は一向に解消する構造力学は存在していない
そこに貧富格差を解消するための制度や仕組みといったものを新しく作り出すのは理性である
その場限りの気分的な「可哀相」などという憐れみでは、社会構造的欠陥の解消にはならないのである
高橋みなみ氏達が行っている行動宣言の類も、所詮はその場限りの憐れみで満足しているに過ぎず、イジメ問題の根源的原因究明にも、効果的で具体性のある再発防止策にもつながっていない
それが、むしろ残念で仕方がないのである
Ende;