「株主の利益を最大に」的な話というのは、アダム:スミスの「見えざる神の手」神話に基づいた妄想なので、こんなことを言い出すバカは無視すべきである
若者の労働力を安く買い叩いてまで株主の利益を最大にしても、企業としての社会的役割である社会持続可能性や安全性に貢献することにはならない
たとえ株主出資者であろうとも、社会持続可能性や安全性までをも犠牲にしてまで利益追求をして良い理由などない
アダム:スミスが論じた「欲望」というものは、そこに人間性としての自律的論理検証性に基づいた選択が介在していなければ、単なる目先の奪い合いにしかならず。結局企業としての社会的役割というものを喪失して、目先の利益追求にのみ暴走してしまうことになるのである
単に現状経営が安定しているとしても、社会を食い物にしているのであれば、その末路は社会環境もろとも大絶滅にまで至ってしまうことになる
もし、ダーウィンの進化論的進化の過程を踏めば自動的に環境調和性が組み込まれると言うのであれば、それは大絶滅を偶発的に免れた社会にのみ得られる偶然の産物でしかない
進化論によって説明される環境調和性というものは、膨大な失敗による累々たる屍の果てに偶発的かつ暫定的に得られる調和性に過ぎず。僅かでも環境条件に変化があれば簡単に崩壊する可能性をも持った、極めて脆弱な暫定的バランスの上に成り立つ「結果」でしかないのである
しかし、ヒトはこうした自然界のカオスの結果でしかない偶然に頼ることなく、自発的に環境調和できるよう自律選択可能性を持っている
社会持続可能性や安全性といったものを、意識的な「目的」として選択してこそ、野蛮な自然淘汰に頼らず選択することが出来るのである
こうした自律的選択可能性こそが、人間としての知能なのであって。何も自分では考えず、ただアダム:スミスや糞経済学者の言いなりになっているのであれば、ただのバカでしかなく、バカの集団がバカげた結末に致るのは必然に過ぎない
経済活動に関わる一人一人の意識に人間性や倫理が伴ってこそ、初めて「見えざる神」は現れるのであって。人間性のない野蛮なサルの奪い合いにそんな都合の良い結末は用意されていないのである
証券取引などにおいても、取引者の大半に自律的な人間性が伴っており、且つ誰がどのような取引の仕方をしているかが明確に判るようになっていれば、社会にとって害を成すような取引をする相手を市場から排除することも可能なのである
フィクションというものには二つの種類があり。相互信頼性の上に成り立つ「約束事」と、単なる大衆観念的妄想によってでっちあげられた「神話」や妄想の類は全く別のものである。
この区別がつかないから、あらゆる暴走性に歯止めが効かないのである
◇
東京農大の太田光明は 「かつてネコはネズミなどの害獣を退治することでヒトから必要とされていたが、現代社会ではいわば失業したため、ネコがヒトに対して鳴くことでヒトに好かれるよう努力している」と述べていた
ネコがヒトに対して鳴く個体が増えたのは、ヒトに対して鳴く個体への淘汰圧力が働くことによる結果であって、ネコ自身の努力によってヒトに向かって鳴くようになったわけではない
進化というのは先天的性質に対して環境的淘汰圧力の結果でしか起こらないものであり、個体自身の努力とは無関係であることは論理的には当たり前の話である
このように論理的理解の出来ていない生物学者があまりに多過ぎており、生物進化についての検証があまりにお粗末過ぎる
個体の努力では遺伝的要素を選択することなど構造原理的に有り得ないのだが、論理的理解の出来ない文科系大衆観念者達というのはこれを理解しようとすらしない
そもそも遺伝的要因というものは、個体が自ら目的のために努力して獲得できるようなものではなく。あくまで偶発的に生存に適した個体種だけが結果的に「死ななかった」結果として遺されたものに過ぎず。そもそもネコごときがヒトに養われることを目的とした行動選択自体を合理的に選択するわけもないのである
生物学者達は生物進化というものを買い被り過ぎである
都合の良い結果だけを集めてきて、あたかも自然淘汰による進化こそが万能だと妄想するのはオカルトでしかなく、科学者としてポンコツ過ぎて話にならない
Ende;
若者の労働力を安く買い叩いてまで株主の利益を最大にしても、企業としての社会的役割である社会持続可能性や安全性に貢献することにはならない
たとえ株主出資者であろうとも、社会持続可能性や安全性までをも犠牲にしてまで利益追求をして良い理由などない
アダム:スミスが論じた「欲望」というものは、そこに人間性としての自律的論理検証性に基づいた選択が介在していなければ、単なる目先の奪い合いにしかならず。結局企業としての社会的役割というものを喪失して、目先の利益追求にのみ暴走してしまうことになるのである
単に現状経営が安定しているとしても、社会を食い物にしているのであれば、その末路は社会環境もろとも大絶滅にまで至ってしまうことになる
もし、ダーウィンの進化論的進化の過程を踏めば自動的に環境調和性が組み込まれると言うのであれば、それは大絶滅を偶発的に免れた社会にのみ得られる偶然の産物でしかない
進化論によって説明される環境調和性というものは、膨大な失敗による累々たる屍の果てに偶発的かつ暫定的に得られる調和性に過ぎず。僅かでも環境条件に変化があれば簡単に崩壊する可能性をも持った、極めて脆弱な暫定的バランスの上に成り立つ「結果」でしかないのである
しかし、ヒトはこうした自然界のカオスの結果でしかない偶然に頼ることなく、自発的に環境調和できるよう自律選択可能性を持っている
社会持続可能性や安全性といったものを、意識的な「目的」として選択してこそ、野蛮な自然淘汰に頼らず選択することが出来るのである
こうした自律的選択可能性こそが、人間としての知能なのであって。何も自分では考えず、ただアダム:スミスや糞経済学者の言いなりになっているのであれば、ただのバカでしかなく、バカの集団がバカげた結末に致るのは必然に過ぎない
経済活動に関わる一人一人の意識に人間性や倫理が伴ってこそ、初めて「見えざる神」は現れるのであって。人間性のない野蛮なサルの奪い合いにそんな都合の良い結末は用意されていないのである
証券取引などにおいても、取引者の大半に自律的な人間性が伴っており、且つ誰がどのような取引の仕方をしているかが明確に判るようになっていれば、社会にとって害を成すような取引をする相手を市場から排除することも可能なのである
フィクションというものには二つの種類があり。相互信頼性の上に成り立つ「約束事」と、単なる大衆観念的妄想によってでっちあげられた「神話」や妄想の類は全く別のものである。
この区別がつかないから、あらゆる暴走性に歯止めが効かないのである
◇
東京農大の太田光明は 「かつてネコはネズミなどの害獣を退治することでヒトから必要とされていたが、現代社会ではいわば失業したため、ネコがヒトに対して鳴くことでヒトに好かれるよう努力している」と述べていた
ネコがヒトに対して鳴く個体が増えたのは、ヒトに対して鳴く個体への淘汰圧力が働くことによる結果であって、ネコ自身の努力によってヒトに向かって鳴くようになったわけではない
進化というのは先天的性質に対して環境的淘汰圧力の結果でしか起こらないものであり、個体自身の努力とは無関係であることは論理的には当たり前の話である
このように論理的理解の出来ていない生物学者があまりに多過ぎており、生物進化についての検証があまりにお粗末過ぎる
個体の努力では遺伝的要素を選択することなど構造原理的に有り得ないのだが、論理的理解の出来ない文科系大衆観念者達というのはこれを理解しようとすらしない
そもそも遺伝的要因というものは、個体が自ら目的のために努力して獲得できるようなものではなく。あくまで偶発的に生存に適した個体種だけが結果的に「死ななかった」結果として遺されたものに過ぎず。そもそもネコごときがヒトに養われることを目的とした行動選択自体を合理的に選択するわけもないのである
生物学者達は生物進化というものを買い被り過ぎである
都合の良い結果だけを集めてきて、あたかも自然淘汰による進化こそが万能だと妄想するのはオカルトでしかなく、科学者としてポンコツ過ぎて話にならない
Ende;