「笑い」というのは「好き」なこととは関係がなくて
爬虫類学者の加藤英明が砂漠の真ん中で日がな一日穴掘りをして「楽しい」とは言っても 別にヘラヘラ笑いながら穴掘っているわけではない
葬式でお経読んでる坊主の頭にハエがとまって笑ってしまうからといって 別にそれが好きなわけではない
乃木坂46の斎藤飛鳥ちゃんが他人の不幸話で笑っちゃうのは 飛鳥ちゃんが他人の不幸を好きなわけではなくて 単に他人の不幸話がヘラに入っちゃうだけだったりする
飛鳥ちゃんだって 笑える不幸話だから笑うのであって パレスチナで赤ん坊が丸焦げにされている話で笑うわけではない
他人の不幸話で不謹慎にも笑ってしまうからといっても 別に他人の不幸が好きなわけではない
更に言うと 飛鳥ちゃんの場合 自分の不幸話でも笑ってしまうらしい
多数派で他人の事を悪く言って笑って共感したからといって それが個人的に好きなことではないんだけども
主体的に純粋に好きなことがわからない奴にとっては それくらいしか楽しみがないもんだから 必死になって仲間内で話を合わせることに執着してしまう
ヒトという種の生物には 先天的な社会形成習性があるもんだから 他人と話を丸めて共感さえしておけば気分的には安心できるように先天的に出来ている
その先天的習性が促す行動バイアスによって いわば強迫観念的に仲間と話を合わせようとするようになり
終いにゃ泥酔して渋谷で軽トラ転覆させて「笑って」「喜んで」いるわけだが
本当にそれが人生にとっての最大の楽しみだとしたら 客観的に見てそいつの人生クソだろ
小柴昌俊が言うような「これなら一生続けることが出来る」ことっていうのは 別に「笑い」が伴うようなものではなくて むしろ「真剣に熱中して時間を忘れて没頭出来る」ことであって
ヒトっていう生物は 実は何かに没頭して真剣に取り組むことが好きな生物でもあるので それが見つかれば人生は豊かになって 結果的に他人への配慮が働き 社会安全性にも関心が向くようになる
ところが ヒトという種の生物には他人からの影響を受け易い性質も兼ね備えているために 他人から「そんなことして何になる」とか「スルメ見てイカがわかるか」とか言われると「悔しい」という感情が働いて どうしても他人との比較競争にばかり意識が奪われてしまう
本当に純粋にスルメを見るのが好きだったら「別にイカをわかろうとしているわけではないんだけどな」で済む話なのである
他人と比較した業績評価を基準にするから「イカがわからない」ことが「悔しい」となるのであって 「悔しい」という感情自体が行為の不純さの証明でもある
実際養老孟司の解剖学というのは 親に医者になることを強要されたものの 臨床医になるのが怖かったもんだから死体を扱う解剖学を選ぶという 極めて消極的かつ受動的な動機に過ぎない 故に「悔しい」という感情が働くのである
ややこしいことに養老の場合 昆虫の研究に関しては極めて純粋主体的/能動的に好きなもんだから 何を言われても悔しいとは思わないのである
加藤英明の研究も 砂漠の真ん中でトカゲが冬眠しているのを探し出したからといって 「で?」っていう話ではある
研究探求というのは直接社会の役に立つかどうかが目的ではなくて とりあえず主観的に知りたいからやっていることというのは結構多い
小柴昌俊が受賞したノーベル賞も 量子力学の研究に貢献して 「で?」という話に違いはない
ノーベル賞も含めて世間的評価など 本当はアテにはならないのである
それこそ優生学の論理反証なんてのは 社会安全性にとって重大な話のはずなんだが 生物学や哲学権威がバカしかいなくて論理的理解が出来なきゃ評価にはならない
それが原因でまた障害者が殺害されても オイラにゃどうにもならん
不謹慎だろうがなんだろうが もはや呆れて「笑う」くらいしか出来ん
一応言っとくけど 別に好きで笑っている訳じゃねぇからな
Ende;
爬虫類学者の加藤英明が砂漠の真ん中で日がな一日穴掘りをして「楽しい」とは言っても 別にヘラヘラ笑いながら穴掘っているわけではない
葬式でお経読んでる坊主の頭にハエがとまって笑ってしまうからといって 別にそれが好きなわけではない
乃木坂46の斎藤飛鳥ちゃんが他人の不幸話で笑っちゃうのは 飛鳥ちゃんが他人の不幸を好きなわけではなくて 単に他人の不幸話がヘラに入っちゃうだけだったりする
飛鳥ちゃんだって 笑える不幸話だから笑うのであって パレスチナで赤ん坊が丸焦げにされている話で笑うわけではない
他人の不幸話で不謹慎にも笑ってしまうからといっても 別に他人の不幸が好きなわけではない
更に言うと 飛鳥ちゃんの場合 自分の不幸話でも笑ってしまうらしい
多数派で他人の事を悪く言って笑って共感したからといって それが個人的に好きなことではないんだけども
主体的に純粋に好きなことがわからない奴にとっては それくらいしか楽しみがないもんだから 必死になって仲間内で話を合わせることに執着してしまう
ヒトという種の生物には 先天的な社会形成習性があるもんだから 他人と話を丸めて共感さえしておけば気分的には安心できるように先天的に出来ている
その先天的習性が促す行動バイアスによって いわば強迫観念的に仲間と話を合わせようとするようになり
終いにゃ泥酔して渋谷で軽トラ転覆させて「笑って」「喜んで」いるわけだが
本当にそれが人生にとっての最大の楽しみだとしたら 客観的に見てそいつの人生クソだろ
小柴昌俊が言うような「これなら一生続けることが出来る」ことっていうのは 別に「笑い」が伴うようなものではなくて むしろ「真剣に熱中して時間を忘れて没頭出来る」ことであって
ヒトっていう生物は 実は何かに没頭して真剣に取り組むことが好きな生物でもあるので それが見つかれば人生は豊かになって 結果的に他人への配慮が働き 社会安全性にも関心が向くようになる
ところが ヒトという種の生物には他人からの影響を受け易い性質も兼ね備えているために 他人から「そんなことして何になる」とか「スルメ見てイカがわかるか」とか言われると「悔しい」という感情が働いて どうしても他人との比較競争にばかり意識が奪われてしまう
本当に純粋にスルメを見るのが好きだったら「別にイカをわかろうとしているわけではないんだけどな」で済む話なのである
他人と比較した業績評価を基準にするから「イカがわからない」ことが「悔しい」となるのであって 「悔しい」という感情自体が行為の不純さの証明でもある
実際養老孟司の解剖学というのは 親に医者になることを強要されたものの 臨床医になるのが怖かったもんだから死体を扱う解剖学を選ぶという 極めて消極的かつ受動的な動機に過ぎない 故に「悔しい」という感情が働くのである
ややこしいことに養老の場合 昆虫の研究に関しては極めて純粋主体的/能動的に好きなもんだから 何を言われても悔しいとは思わないのである
加藤英明の研究も 砂漠の真ん中でトカゲが冬眠しているのを探し出したからといって 「で?」っていう話ではある
研究探求というのは直接社会の役に立つかどうかが目的ではなくて とりあえず主観的に知りたいからやっていることというのは結構多い
小柴昌俊が受賞したノーベル賞も 量子力学の研究に貢献して 「で?」という話に違いはない
ノーベル賞も含めて世間的評価など 本当はアテにはならないのである
それこそ優生学の論理反証なんてのは 社会安全性にとって重大な話のはずなんだが 生物学や哲学権威がバカしかいなくて論理的理解が出来なきゃ評価にはならない
それが原因でまた障害者が殺害されても オイラにゃどうにもならん
不謹慎だろうがなんだろうが もはや呆れて「笑う」くらいしか出来ん
一応言っとくけど 別に好きで笑っている訳じゃねぇからな
Ende;