ニーチェによるゾロアスター教の超人幻想というのは遺伝的進化万能論に基づいたものであり 進化というもの自体に目的も合理的目的選択も存在しない以上 大衆迎合的な妄想に過ぎない
カントの純粋理性批判というものも そもそも内容に論理整合性もなく 論としての根拠に欠けたカントの勝手な勘違いに過ぎない
中東由来の一神教に問題点があるとすれば それは「戒律に従いさえすれば天国に行ける」という短絡性に基づく自律判断力の放棄にある
キェルケゴールによる絶望者批判というものは 絶望というものの真理を追求せず ただ漫然とその場限りに気分的に絶望している頭の悪さについての検証であり 体制に無批判に迎合する盲目的な愚かさを批判したのであり 同時に自律性の喚起も促すものである
従って キェルケゴールはキリスト教者ではあるが 批判精神を持って権威を批判する自律を促している点においては 決して思考停止を促すものではない
ニーチェによる超人幻想というものは 大量の「失敗」の積み重ねの果てに生ずるかも知れない偶発的成功のことを目的としており むしろ「個人の自律を無視して本能習性のままに行動してさえおけば良い」という無責任さを誘発するものでもある
故に「ナチズムを思想的に支えた」と言われる所以である
このようにニーチェやカントが倫理においてクソの役にも立たないことを論理的に理解認識せずに 漫然と倫理だと思い込んだまま鵜呑みにしているから 倫理の本質が何なのかを見失うことに陥るのである
倫理の本質とは何か それは国会原発事故調査委員会報告書に記された「個人が自律的に社会的責任を負うこと」に他ならない
「超人に進化さえすれば 全ては解決だ」といった無責任極まりないトンチンカンな大衆迎合で満足しているから 倫理の本質を見失うことになるのである
何せ 亀山郁夫によるクソの役にも立たない「ドスト:エフスキーの読書感想文」なんぞが放送大学で何度も繰り返し放送されていたくらいであるから 哲学界全体が何も考えていないバカの集団であり 怠慢も甚だしいのである
「哲学というものは 真理に到達出来なくてもよい」からといって 「真理そのものを追求しなくても良い」ことの論拠にしており 学問を逸脱した大衆迎合 ぬるま湯「お花畑」に成り下がっており 到底公的資金を投入する価値のないペテン師の集まりに過ぎない
Ende;
カントの純粋理性批判というものも そもそも内容に論理整合性もなく 論としての根拠に欠けたカントの勝手な勘違いに過ぎない
中東由来の一神教に問題点があるとすれば それは「戒律に従いさえすれば天国に行ける」という短絡性に基づく自律判断力の放棄にある
キェルケゴールによる絶望者批判というものは 絶望というものの真理を追求せず ただ漫然とその場限りに気分的に絶望している頭の悪さについての検証であり 体制に無批判に迎合する盲目的な愚かさを批判したのであり 同時に自律性の喚起も促すものである
従って キェルケゴールはキリスト教者ではあるが 批判精神を持って権威を批判する自律を促している点においては 決して思考停止を促すものではない
ニーチェによる超人幻想というものは 大量の「失敗」の積み重ねの果てに生ずるかも知れない偶発的成功のことを目的としており むしろ「個人の自律を無視して本能習性のままに行動してさえおけば良い」という無責任さを誘発するものでもある
故に「ナチズムを思想的に支えた」と言われる所以である
このようにニーチェやカントが倫理においてクソの役にも立たないことを論理的に理解認識せずに 漫然と倫理だと思い込んだまま鵜呑みにしているから 倫理の本質が何なのかを見失うことに陥るのである
倫理の本質とは何か それは国会原発事故調査委員会報告書に記された「個人が自律的に社会的責任を負うこと」に他ならない
「超人に進化さえすれば 全ては解決だ」といった無責任極まりないトンチンカンな大衆迎合で満足しているから 倫理の本質を見失うことになるのである
何せ 亀山郁夫によるクソの役にも立たない「ドスト:エフスキーの読書感想文」なんぞが放送大学で何度も繰り返し放送されていたくらいであるから 哲学界全体が何も考えていないバカの集団であり 怠慢も甚だしいのである
「哲学というものは 真理に到達出来なくてもよい」からといって 「真理そのものを追求しなくても良い」ことの論拠にしており 学問を逸脱した大衆迎合 ぬるま湯「お花畑」に成り下がっており 到底公的資金を投入する価値のないペテン師の集まりに過ぎない
Ende;