「文化的なことをするから人間だ。」などと利根川進が述べていたが、「ヒトという種の生物」に特異な行動を抽出しても、「ヒトという種の生物」の習性の論証にはなっても、自律的に社会的責任判断選択が可能な「人間」であることの論証には全くならない。
生体として「生存」してさえいればヒトが人間として振る舞う保証はなく。生きたまま残虐なゲリラやテロリストになることも珍しいことではなく。生体として「生存」していること自体には社会的意味や価値などない。
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「その人らしさを作り出す自我」が意識だと言うが、それなら虐待を無意識に連鎖する人にとって、虐待を連鎖していることこそが「その人らしさ」だとでも言うのであろうか。
イスラム国で残虐行為を行っている人達にとって、その残虐性こそが「その人らしさを作り出す自我」であり、「意識」だとでも言うのであろうか。
現在の脳科学界というのは、こうした最も基本的な「人間」としての意識について何の配慮もなく論じているオカルトに過ぎない。
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ジュリオ:トノーニが提唱する統合情報理論では、情動バイアスが促す強度や程度でしか数理化されておらず。これは「ヒトという種の生物」における意識は立証できても、自律的に社会的責任判断選択可能性を持った「人間」としての意識の立証にはならない。
ヒトの情動の複雑さ、カオス性をいくら論じても。それはイスラム国に参加しているテロリストの行動の複雑さ、カオス性を論じているに過ぎず。そんなものをいくら論じても糞の役にも立たない。
立花隆が末期癌で死に至るまでの現象を知りたがっても、そんなものは立花の主観的感想に過ぎず。社会的にも科学的にも不毛極まりない。
「神秘的」などというのは主観的感想であって、どんなに神秘的な感覚を感じても、それこそが妄想錯覚を促す原因に他ならない。
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臨死体験を持つ人程、夢を見やすい傾向がある
「なぜ、臨死体験のような感覚が生じるのか。」その理由などない。なぜなら感覚は「結果」に過ぎず、どんなに結果が奇妙で巧妙であろうとも、そこに「目的」が介在する余地は一切存在しないからだ。
神秘体験で神からの啓示を受けたと錯覚し、虐殺をしたとしても「その個人の信念の問題」だと言えるのだろうか。それは科学者としてあまりに無責任である。
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「ヒトはこういうものだ。」ということが決定論的に言えないことが「面白い」というのであれば。通り魔やテロリストが発生することも「面白い」などと言えるのであろうか。
そんな無責任な話を鵜呑みにすることは出来ないし、してはいけない。
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個人の人生そのものには、社会的には意味などない。個人の人生などというのは個人の主観的価値に過ぎず、社会的には何の意味も価値も存在し得ない。「死ぬことが、そんなに恐いことではないと感じるようになった。」などというのも、立花隆個人の主観であって、客観的事実とは無関係である。
「心の平安」などと称して、個人の主観的感覚としての精神的平穏など、社会的には何の意味も価値もない。
個人の主観的感想を科学に持ち込むからオカルトになるのである。それは妄想と現実の区別がつかないのと同じことである。
Ende;
生体として「生存」してさえいればヒトが人間として振る舞う保証はなく。生きたまま残虐なゲリラやテロリストになることも珍しいことではなく。生体として「生存」していること自体には社会的意味や価値などない。
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「その人らしさを作り出す自我」が意識だと言うが、それなら虐待を無意識に連鎖する人にとって、虐待を連鎖していることこそが「その人らしさ」だとでも言うのであろうか。
イスラム国で残虐行為を行っている人達にとって、その残虐性こそが「その人らしさを作り出す自我」であり、「意識」だとでも言うのであろうか。
現在の脳科学界というのは、こうした最も基本的な「人間」としての意識について何の配慮もなく論じているオカルトに過ぎない。
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ジュリオ:トノーニが提唱する統合情報理論では、情動バイアスが促す強度や程度でしか数理化されておらず。これは「ヒトという種の生物」における意識は立証できても、自律的に社会的責任判断選択可能性を持った「人間」としての意識の立証にはならない。
ヒトの情動の複雑さ、カオス性をいくら論じても。それはイスラム国に参加しているテロリストの行動の複雑さ、カオス性を論じているに過ぎず。そんなものをいくら論じても糞の役にも立たない。
立花隆が末期癌で死に至るまでの現象を知りたがっても、そんなものは立花の主観的感想に過ぎず。社会的にも科学的にも不毛極まりない。
「神秘的」などというのは主観的感想であって、どんなに神秘的な感覚を感じても、それこそが妄想錯覚を促す原因に他ならない。
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臨死体験を持つ人程、夢を見やすい傾向がある
「なぜ、臨死体験のような感覚が生じるのか。」その理由などない。なぜなら感覚は「結果」に過ぎず、どんなに結果が奇妙で巧妙であろうとも、そこに「目的」が介在する余地は一切存在しないからだ。
神秘体験で神からの啓示を受けたと錯覚し、虐殺をしたとしても「その個人の信念の問題」だと言えるのだろうか。それは科学者としてあまりに無責任である。
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「ヒトはこういうものだ。」ということが決定論的に言えないことが「面白い」というのであれば。通り魔やテロリストが発生することも「面白い」などと言えるのであろうか。
そんな無責任な話を鵜呑みにすることは出来ないし、してはいけない。
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個人の人生そのものには、社会的には意味などない。個人の人生などというのは個人の主観的価値に過ぎず、社会的には何の意味も価値も存在し得ない。「死ぬことが、そんなに恐いことではないと感じるようになった。」などというのも、立花隆個人の主観であって、客観的事実とは無関係である。
「心の平安」などと称して、個人の主観的感覚としての精神的平穏など、社会的には何の意味も価値もない。
個人の主観的感想を科学に持ち込むからオカルトになるのである。それは妄想と現実の区別がつかないのと同じことである。
Ende;