書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ですます調。

2013年04月19日 15時13分44秒 | 意識論関連



 マズかった食べ物の記憶は強烈に記憶に残るんだけど、美味しかった食べ物の記憶っていうのは残りにくい。

 動物の脳というのは先天的に嫌な記憶は強烈に残るように出来ていて、それに対して良かった記憶はあんまり残らないように進化的に淘汰されてしまっているのです。

 本能的、生理的な好き嫌いバイアスというものが、偶発的たまたま「生存」に適していた種の遺伝子が淘汰によって遺った結果であって。本能の全てが必ず生存に適していることの論理的証明など存在しません。

 先天的本能習性というのはあくまで概ね生存に適した行動バイアスを促す傾向性を持っているだけであって、本能習性の全てが絶対的必ず生存に適するという科学的証明など存在しません。

 動物的行動学習というのは機械学習に過ぎないので、意識的に選択することが出来ず、反射的に記憶バイアスが決定してしまうものであって。論理検証的根拠の必要性がありません。それは意識的目的行動選択にはならないのです。

 ヒトに限らず脳というのは嫌なことを忌避するように出来ていて、これが論理検証的な意識的行動選択を阻害する性質があります。

 多数派同調バイアスというのは、多数派が行っていることに安心し、少数派が行うことを反射的に忌み嫌う性質のことであり。あくまで気分感情が促す機械的行動バイアスに過ぎません。



 自分の遺伝子は自分では選択不能ですから、自分の脳の構造に由来するあらゆる行動バイアスは自己の意識的選択を介しているわけではなく。あくまで遺伝的に遺された本能習性の「結果」以外の何物でもないのです。

 遺伝的要素に限らず、ヒトは自分の産まれてきた社会も時代も自分では選択しておらず、従って社会や時代から受けてきた好き嫌いバイアスの刷り込み機械学習の結果というのは本質的には自分の「意志」でも何でもありません。

 こんなことを言うと、文系のヒトの多くは観念的に「自由意志など実存しない。」などと短絡的な結論を導き出す傾向があるようですが。これは思考停止によって論理検証を放棄するための逃避に過ぎません。

 ヒトの意識の9割以上は無意識であり、先天的行動バイアスや後天的行動学習の結果、機械条件反射的に決定した選択によって行動が決定「しがち。」な傾向があります。でも無意識というのは10割ではない。

 ヒトの脳というのは他の動物に比べると大脳容積が大きいので、結果的に多少の論理検証性も可能ではありますが。個体差はあれ本質的な意識的目的行動選択というのは非常に希薄な傾向があります。

 現在の生物学者達が主張する「潜在知」などと称する無意識な行動バイアスを意識的目的であるという主張には論理的根拠が全くなく。非科学的な寝言に過ぎないのです。



 ヒトが自発的論理検証を出来なくなるのは、そこに心理的余裕が失われているからであって。強迫観念的拒絶に意識を奪われていることによって自発的ではない環境依存的/外的抑圧に思考を拘束されてしまうのが原因です。

 振り込め詐欺の手口というのも、被害者を感情的に煽って焦らせることによって論理検証性を喪失させるものであり。先天的な脳の「焦る」という性質を利用しているわけです。

 「焦る」とか「ビビる」といった習性は、本能生理的に嫌なものから逃れようとする行動バイアスであって。これは動物的には非常に強烈に働く傾向があります。

 ヒトの多くは本能習性的に騙されやすい傾向がありますが、こうした習性までもが生物的に絶対「生存に適している。」というものではありません。

 お化け屋敷というのは商業的に実質的危険性を全く伴わないものであるにも関わらず、ヒトによっては異常に恐怖を感じることがあります。タレントの芹菜さんは典型ではないでしょうか。わざわざ自腹を切って怖がりにお化け屋敷に入るというのは論理的には支離滅裂な行動なんですが、これは個人的な好き嫌いの範疇ですから自由というものです。

 問題となるのは個人的好き嫌いの多数決を、あたかも「人間として正しい。」行動選択であるかのように錯覚する性質であって。これは論理的には「多数のヒトの傾向性。」に気分的に安心しているに過ぎず、こうした気分的行動バイアスこそがイジメだの多数派同調などといった非人間的行動の大きな原因ともなってしまうのです。

 「カッコイイ。」というのは、いわば「格好悪い。」ことに対する異常なまでの拒絶反応が作り出す価値観であって。「カッコイイ。」ことをどんなに追求しても社会安全性にも持続可能性にも寄与しないことは明らかであるにも関わらず、ヒトの多くは格好外見に異常執着する性質があります。

 格好外見に対する拒絶反応というのは、成育環境によって大きく異なるものであり。その土地の「文化」に根差すものに過ぎず、実質的には個人の主体的「選択」を介さない多数派同調に過ぎないのです。

 「人は見た目が9割。」なんて言いますが、これはヒトの意識の9割以上が無意識であることの証明でこそあれ、見た目外見が人間の価値であることの論証には全く無関係です。客商売のように第一印象と売上が直結する話においては有効ではありますが、これはあくまで個人的利益/世間的成功に関わる話であって、社会安全性や持続可能性を確保するものではありません。

 東電社員や天下り官僚がどんなに体裁を整えていても、実態には関係がありません。



 本論は多くのヒトにとって気分が悪く、拒絶反応を生じやすい傾向があるようですが。それは産まれてから一度も「考え」たことのない話に「馴れて」いないからでしょう。

 「馴れて」いないことに生理的拒絶反応を示すのは、とても「自然」なことです。その「自然」というものが常に必ず社会持続可能性や安全性を確保してくれるものではありません。

 ガリレオ:ガリレイの地動説と同様、ヒトというのは馴れていない話を受け入れるまでに時間期間を要するにことがあります。「馴れ」というのは気分的安心であって、本能生理的拒絶反応の有無に過ぎず、論理的危険性の論証とは無関係なのです。

 ヒトの脳というのは安全無害なものに恐怖を「感じ」、拒絶反応を示すのと同時に。危険なものに安心して「馴れて」しまう性質も同時に持ち合わせているため、ヤクザだのテロリストだのイジメ集団やゲリラ組織に簡単に迎合してしまうものなのです。

 自分が所属している社会が絶対的に安全であると、ヒトの多くは勘違い錯覚する傾向があります。だからこそ自国の軍備増強には安心するのであって、軍拡競争というのは国内部の価値観によって激化暴走するものなのです。

 特攻隊というのは、いわば当時の社会環境が作り出した錯覚の犠牲者ではありますが。「特攻隊が国を守った。」というのは当時の社会環境が作り出した錯覚すらも正当化する戯言に過ぎません。

 アメリカが原爆投下や無差別爆撃を「戦争を終結させるため。」などと称して正当化するのと構造的には全く同じものであり。これは北朝鮮が核武装する論理と何ら違いはないのです。

 現状社会において抑止力は必要ではあります。ヤクザ相手に警官に丸腰で立ち向かえと言うのは単なる無茶というものであって、それなら「警察官が核兵器を保有したら通り魔がいなくなる。」という話にはならないのです。抑止力というのは現状世界における「対処」ではあっても根源的解決には全くなりません。平たく言えば相手に対する「脅し」に過ぎないのです。

 ましてや「対処」をシステム化した司法法律制度を目的と勘違いするのは、思考停止のバカげた錯覚に他なりません。「対処」とは「手段」であって目的ではないことを、ヒトの多くは簡単に勘違いする傾向があります。「規範意識」などという観念も、あくまで論理的に自律検証出来ない幼児に用いる方便であって、本来個々個人が自律的に社会安全性を論理検証するように育てることが教育の目的でなければならないのです。

 個人が自律的に論理検証するためには、川島隆太的に脳トレで「鍛える」のは逆効果であり。むしろ自主的に問題に挑む主体性を育むことが重要なのです。

 振り込め詐欺に引っ掛かる人達というのは、要するに相手のご機嫌を損ねないように「しつけ」られた従順な人が、詐欺師の話に無意識に「つられて」しまうことによって荒唐無稽な話を鵜呑みにさせるのであって。相手からの印象を気にすることだけに意識を奪われているからこその結果なのです。

 振り込め詐欺に引っ掛かる人というのは、相手のご機嫌を損なわないように脳が「鍛え上げられた。」人なのです。

 脳を鍛えるというのは動物的な機械的行動学習に過ぎません。強迫観念的に思考を拘束されたまま特定能力さえ獲得できれば全てが解決するという短絡性こそが、脳がバカになる最短ルートなのです。

 F1レーサーになるための英才教育学校の生徒達は、エンジニアとの会話を目的とした英語能力を習得しているため、学習意欲が非常に高く。これは普通の学校における成績評価との引き換えで行われる英語教育とは根本的に異なり、個人の主体的「意思」動機によって養われているからであって、こうした主体性というのは数学でも同じことが言えます。

 写真や天文学に興味を持つ生徒なら、レンズ光学に関する数学に興味を持つでしょうし。具象絵画や3Dゲームに興味を持つ生徒なら遠近法に関連する数学に興味を持つはずです。鉄道に興味があれば緩和曲線の計算方法に興味を持つでしょう。

 主体的動機(純粋な興味)に基づいた学習というのは、教師が噛んで含めるように教え込まなくてても、教材さえ作っておけば生徒は勝手に覚えるものです。教育の目的というのは生徒の自主的興味に応えることであって、生徒の学力を揃えることではないのです。

 生徒が社会に出て生活するにおいて、学力が他人と揃っていることに意味があるでしょうか。むしろ突出して「その人にしか出来ない能力。」があるからこそ、社会から必要とされるのです。

 クソゲーの作り方を学校で教えてくれないでしょ、だから景気が悪いんですよ。グラビアアイドルの仕事だって芸人の仕事だって学校では教えてくれません、現状経済の要求に学校が応えていないからです。笑いというものを脳科学的に検証する学問があっても良いはずで、笑いというものが免疫力を高める医学的有益性を持っているんですから学校で教えても罰は当たらないでしょう。

 ゲームだって芸術性が高ければクソゲーとは言わないんでしょうから。おいらはゲーム自体に興味がないので芸術性の高いゲームがどういうものなのかは知りませんけど。「クソゲーとは言わせないぜ。」という気概があれば、ゲームプログラマを目指すのもアリなのではないでしょうか。クソゲーがクソゲーたる所以とは、ユーザーの無意識的心理バイアスを利用して金儲けばかりを追求しているからであって。ユーザーに本質的満足感を提供しておらず、焦燥や虚無感しか残さないからです。

 現在の教育というのは、生徒を有名大学に合格させることだけが教師の評価成績として扱われますが。これは極めて断片的な評価基準に過ぎず、東大を卒業してギャンブルに明け暮れたり、天下り役人だの無責任な東電社員を育てたり、ましてやカルト宗教の幹部を育成していたのでは社会的には犯罪に過ぎないのです。

 単に学術権威であるというだけで権威性を鵜呑みにしているからこそ、教育が腐敗するのです。科学は本来学術権威だけの専売特許ではなく、誰でも間違いを指摘して構わないものであり。指摘を甘んじて受けない現在の生物学というのは科学としての社会的役割を放棄していると言えるのです。

 「弁証法」というものを、「言い逃れ」や「話のすり替え」にすり替えるのが文科系大衆観念者の手口であり。ペテンの手法でもあります。こうしたすり替えが可能なのは聞いている方の自律的論理検証性の欠落によるものであって、平たく言えばバカだからです。

 生物学の多数の生徒達というのはバカしかいないからバカ教授の嘘や間違いを指摘出来ないのであって。間違った知識を鵜呑みにしておかないと成績評価に関わるという理由で組織に迎合していると言えるでしょう。

 それって「頭が良い。」と言えるんですかね。





Ende;
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