○権威服従性
規範意識というのは権威服従性であり、気分的安心満足に過ぎず論理的安全性の獲得には全くつながらない。
イジメなどの差別排除や、虐待体罰などの暴力性というものが放置されてしまう原因というのは、結局は「上」と見なされる相手に服従してしまうことによる統率的協調性の暴走である。
イジメの首謀者が暴力を要求することに対し、多数が威力に対して服従してしまい、その多数に迎合する形で統率的協調性が暴走する形でイジメは助長暴走することになるのである。
「気分的に恐い相手に服従する。」というのが規範意識の基本であり、「なぜ服従する必要性があるのか。」とか、「服従するに値する相手であるのか。」といった自律的な判断を放棄させてしまうのが規範意識という無意識性の刷り込み学習である。
その場限りの気分でしか行動が決定しないからこそ、自律的行動選択が出来なくなるのであって、教師が権威を振りかざして強迫観念を用いた強制的服従性を刷り込み学習させてしまえば、教師がいない場所においてはその場限りに恐い相手に服従するよう機械条件反射的無意識に行動が決定してしまい、全く自律的行動選択が伴わなくなってしまうのである。
福島第一原発の危険性を放置した東電社員達の無為性も、結局は「恐い相手に服従する。」という規範意識の暴走であり、規範意識というものへの観念的安心満足ばかりを追求した結果でもある。
安心や満足というものは本能に直結しており、この本能には予め「意味」や「目的」など存在しておらず、あくまで「結果」でしかない。
生存というもの自体がそもそも「結果」に過ぎない以上、あらゆる生物における「結果」には「意味」も「目的」も存在しておらず、あらゆる気分的安心満足の素となる本能習性にも「意味」や「目的」は存在しないのである。
現在の生物学(脳科学を含む)においては、生物のあらゆる機能には全て「意味」や「目的」が存在するはずだという実証不能の観念に囚われており、これを放置したままでは本当の意味での人間としての意味論も目的論も構造原理的には成立しないのである。
気分本能的な安心満足に依らない自律的な個人の論理的判断こそが、本当の意味における安全性の追求につながるのであって、個人が自律判断をするためには個人が自発的意欲を持っていることが大前提なのである。
「世の中に生かされている。」などという自発性の欠落を述べていれば、あたかも外見上謙虚そうに見え、文科系大衆観念には迎合出来て多数人気も得られるのであろう。しかし、「生かされている。」という「生存」自体単体に意味があるわけではない。単に生きているだけなら振り込め詐欺師集団の内部で「生かされている。」ことにも意味があることになり、東電社員が福島第一原発の危険性を放置してでも目先の個人的生活を優先することにも意味があることになってしまうのである。
こうした個人的な目先の利益追求というものを優先し、目先の権威に服従することで統率的協調性を発揮することこそがオカルト集団という本能的な社会形成習性というものであって。これを短絡的に「社会性」であると鵜呑みにしていたあらゆる学術権威達は実質ポンコツであると判断すべきなのである。
単なる生物的な「生存」自体に人間としての意味が存在するわけではなく、あくまで長期的な社会安全性や持続可能性を追求することによってのみ、次世代に対して社会を受け継ぐ「意味」や「目的」が存在するのである。安全性や持続可能性を優先しないのであれば、もはや人間としての存在価値自体が存在しないことを、ヒトの多くは目先の気分的安心満足に撹乱されて意識から外してしまうのである。
だから現状社会が崩壊にしか向かわないのである。
生存だけを暴走させれば振り込め詐欺師だのゴキブリだのエイリアンで充分であり。ニーチェの論ずる「超人」とは、生物学的究極存在に過ぎず、そこに人間性も知性も情緒もすったくれも必要ないのである。そんなもので気分的満足をして思考を停止しておけば、バカげた「結果」以外に至らないのは当たり前の話なのである。
本当の意味での幸福とは、自己自身の欲望を制御することによって得られるものであって。多数他者という環境に依存した利益や快楽を渇望する既存の自己を捨てることである。自己の欲望を制御出来ずに幸福もすったくれもないことを、ヒトの多くは未だ知らない。
暴力体罰を正当化する教師の脳というのは、職場制度における評価成績への異常執着で意識が狭窄化されているための「結果」であり。生徒のためでも社会のためでもなく、あくまで利己的欲望快楽を追求しているに過ぎないのである。
自分の行動を社会制度の所為にするのは、世間から与えられる評価報酬に対して脳がバカになっている、中毒依存症になっているからである。
社会制度、評価報酬の制度に依存せず、あくまで個人的で広い意識に基づいた価値観を追求していれば、自ずと社会安全性や持続可能性を求めるのは必然というものである。しかし、ヒトの多くが「個人の主体的価値観というものは利己的なものである。」と「思う。」のは、そもそも当人に自発も自律もなく、ただひたすら世間からの評価報酬しか求めていないための必然的感覚でもある。
だからこそヒトの多くは規範意識という無意識性に異常執着してしまうのである。これは本能的習性であって、同時に無意識な思考バイアスでもある。たとえその思考バイアスに断片的「意味」をこじつけても、思考バイアスがもたらす行動の結果の全てが常に正しい結果をもたらす論理的保証には全くならないのである。
「権威による統率こそが社会を安定させるものである。」という権威依存性こそが、ヒトから自発的自律判断を失わせ、社会を崩壊へと暴走させる最も大きな流れを作っているのである。
桑田真澄の理論は文科系大衆観念にはそぐわないため、努力辛抱根性を強要させておいた方が「鍛えられる。」という観念の方が大衆ウケが良い。
バカの多数決ではバカげた結論にしか到達出来ないのは必然である。バカというのは自分自身のバカさを認識していないために、バカであることを事後正当化するための屁理屈や言い逃れ、取り繕いだけは異常なまでに条件反射的に脳が働く性質があるため、バカが治らないのである。
バカがバカたる所以とは、論理的根拠を伴わない観念という思い込みへの中毒性、依存性に因るものである。認知行動療法における自発的「気付き」の促進とは、こうした自己のバカさに気付かせることが治療になるのであって、他人から「お前バカだろ。」と直接言われると気分を害し、気分的反発によって言い逃れや取り繕いといった論理的根拠のない屁理屈ばかりに条件反射的無意識に脳が働いてしまうのである。
残念ながら、おいらは臨床医ではないので、金を貰ってバカのご機嫌取りをするつもりは毛頭ない。おいらはバカが大嫌いだからである。自分のどこがバカなのか、そんなものは言われなくても自分で気付いて頂きたい。その意味においてはおいらは読者を「患者」として見下してはおらず、あくまで対等な立場として「バカとは何か。」を論じているのである。
Ende;
規範意識というのは権威服従性であり、気分的安心満足に過ぎず論理的安全性の獲得には全くつながらない。
イジメなどの差別排除や、虐待体罰などの暴力性というものが放置されてしまう原因というのは、結局は「上」と見なされる相手に服従してしまうことによる統率的協調性の暴走である。
イジメの首謀者が暴力を要求することに対し、多数が威力に対して服従してしまい、その多数に迎合する形で統率的協調性が暴走する形でイジメは助長暴走することになるのである。
「気分的に恐い相手に服従する。」というのが規範意識の基本であり、「なぜ服従する必要性があるのか。」とか、「服従するに値する相手であるのか。」といった自律的な判断を放棄させてしまうのが規範意識という無意識性の刷り込み学習である。
その場限りの気分でしか行動が決定しないからこそ、自律的行動選択が出来なくなるのであって、教師が権威を振りかざして強迫観念を用いた強制的服従性を刷り込み学習させてしまえば、教師がいない場所においてはその場限りに恐い相手に服従するよう機械条件反射的無意識に行動が決定してしまい、全く自律的行動選択が伴わなくなってしまうのである。
福島第一原発の危険性を放置した東電社員達の無為性も、結局は「恐い相手に服従する。」という規範意識の暴走であり、規範意識というものへの観念的安心満足ばかりを追求した結果でもある。
安心や満足というものは本能に直結しており、この本能には予め「意味」や「目的」など存在しておらず、あくまで「結果」でしかない。
生存というもの自体がそもそも「結果」に過ぎない以上、あらゆる生物における「結果」には「意味」も「目的」も存在しておらず、あらゆる気分的安心満足の素となる本能習性にも「意味」や「目的」は存在しないのである。
現在の生物学(脳科学を含む)においては、生物のあらゆる機能には全て「意味」や「目的」が存在するはずだという実証不能の観念に囚われており、これを放置したままでは本当の意味での人間としての意味論も目的論も構造原理的には成立しないのである。
気分本能的な安心満足に依らない自律的な個人の論理的判断こそが、本当の意味における安全性の追求につながるのであって、個人が自律判断をするためには個人が自発的意欲を持っていることが大前提なのである。
「世の中に生かされている。」などという自発性の欠落を述べていれば、あたかも外見上謙虚そうに見え、文科系大衆観念には迎合出来て多数人気も得られるのであろう。しかし、「生かされている。」という「生存」自体単体に意味があるわけではない。単に生きているだけなら振り込め詐欺師集団の内部で「生かされている。」ことにも意味があることになり、東電社員が福島第一原発の危険性を放置してでも目先の個人的生活を優先することにも意味があることになってしまうのである。
こうした個人的な目先の利益追求というものを優先し、目先の権威に服従することで統率的協調性を発揮することこそがオカルト集団という本能的な社会形成習性というものであって。これを短絡的に「社会性」であると鵜呑みにしていたあらゆる学術権威達は実質ポンコツであると判断すべきなのである。
単なる生物的な「生存」自体に人間としての意味が存在するわけではなく、あくまで長期的な社会安全性や持続可能性を追求することによってのみ、次世代に対して社会を受け継ぐ「意味」や「目的」が存在するのである。安全性や持続可能性を優先しないのであれば、もはや人間としての存在価値自体が存在しないことを、ヒトの多くは目先の気分的安心満足に撹乱されて意識から外してしまうのである。
だから現状社会が崩壊にしか向かわないのである。
生存だけを暴走させれば振り込め詐欺師だのゴキブリだのエイリアンで充分であり。ニーチェの論ずる「超人」とは、生物学的究極存在に過ぎず、そこに人間性も知性も情緒もすったくれも必要ないのである。そんなもので気分的満足をして思考を停止しておけば、バカげた「結果」以外に至らないのは当たり前の話なのである。
本当の意味での幸福とは、自己自身の欲望を制御することによって得られるものであって。多数他者という環境に依存した利益や快楽を渇望する既存の自己を捨てることである。自己の欲望を制御出来ずに幸福もすったくれもないことを、ヒトの多くは未だ知らない。
暴力体罰を正当化する教師の脳というのは、職場制度における評価成績への異常執着で意識が狭窄化されているための「結果」であり。生徒のためでも社会のためでもなく、あくまで利己的欲望快楽を追求しているに過ぎないのである。
自分の行動を社会制度の所為にするのは、世間から与えられる評価報酬に対して脳がバカになっている、中毒依存症になっているからである。
社会制度、評価報酬の制度に依存せず、あくまで個人的で広い意識に基づいた価値観を追求していれば、自ずと社会安全性や持続可能性を求めるのは必然というものである。しかし、ヒトの多くが「個人の主体的価値観というものは利己的なものである。」と「思う。」のは、そもそも当人に自発も自律もなく、ただひたすら世間からの評価報酬しか求めていないための必然的感覚でもある。
だからこそヒトの多くは規範意識という無意識性に異常執着してしまうのである。これは本能的習性であって、同時に無意識な思考バイアスでもある。たとえその思考バイアスに断片的「意味」をこじつけても、思考バイアスがもたらす行動の結果の全てが常に正しい結果をもたらす論理的保証には全くならないのである。
「権威による統率こそが社会を安定させるものである。」という権威依存性こそが、ヒトから自発的自律判断を失わせ、社会を崩壊へと暴走させる最も大きな流れを作っているのである。
桑田真澄の理論は文科系大衆観念にはそぐわないため、努力辛抱根性を強要させておいた方が「鍛えられる。」という観念の方が大衆ウケが良い。
バカの多数決ではバカげた結論にしか到達出来ないのは必然である。バカというのは自分自身のバカさを認識していないために、バカであることを事後正当化するための屁理屈や言い逃れ、取り繕いだけは異常なまでに条件反射的に脳が働く性質があるため、バカが治らないのである。
バカがバカたる所以とは、論理的根拠を伴わない観念という思い込みへの中毒性、依存性に因るものである。認知行動療法における自発的「気付き」の促進とは、こうした自己のバカさに気付かせることが治療になるのであって、他人から「お前バカだろ。」と直接言われると気分を害し、気分的反発によって言い逃れや取り繕いといった論理的根拠のない屁理屈ばかりに条件反射的無意識に脳が働いてしまうのである。
残念ながら、おいらは臨床医ではないので、金を貰ってバカのご機嫌取りをするつもりは毛頭ない。おいらはバカが大嫌いだからである。自分のどこがバカなのか、そんなものは言われなくても自分で気付いて頂きたい。その意味においてはおいらは読者を「患者」として見下してはおらず、あくまで対等な立場として「バカとは何か。」を論じているのである。
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