撮り鉄による迷惑行為が問題になることがあるが
だからといって撮り鉄そのものが全員悪いわけではない
迷惑行為をやらかすのは撮り鉄に限ったことではなく
ユーチューバーでも糞DQNでもどこにでもいるものである
要は「他人の迷惑に配慮が足りないバカ」が問題なのであって 「撮り鉄」などの分類が問題なのではない
他人の迷惑に配慮が足りないのは 評価承認欲求が強すぎて「他人よりも評価を得ようとする」ことが優先されてしまうからである
他人からの評価よりも「自分が写真を撮っていて楽しい」という純粋な動機で写真撮影をしているわけではないので 他人からの評価欲しさに中毒になり 他人の迷惑に配慮ができなくなるのである
本当に純粋に写真撮影が好きなら 他人からの評価なんぞなくても楽しめるものであって それで満足ができないのは本当は写真なんぞには興味はなく 「多数他人から評価が得られそうな写真を撮りたい」という不純な動機だからこそ 自律的な社会的責任判断ができなくなるのである
DaiGoが「ホームレスは死ねば良い」と主観的に「思う」のは勝手だが それを短絡的に法律や行政などの制度化して良い話には全くならない
私自身も「糞DQN死ね」と主観的に「思う」ことはあるものの 「なぜ糞DQNは他人への迷惑に配慮できないようになってしまっているのか」についての原因究明と再発防止は必要だと 論理客観的に判断している
誰しもが主観的好き嫌いは存在しているものであって その意味においては「ヒトは全て先天的には差別主義者」なのである
だが これは「結果」であって合理的根拠を伴う「目的」ではない
主観的に嫌いでも人畜無害なら無視すれば良いだけの話であり 有害なら客観的に原因を徹底究明して再発防止にすれば良いのである
なぜ こういう論理的には単純な合理的行動が採れないのかと言えば 主観的な好き嫌いという「結果」を 短絡的に論理客観的な最も合理的「目的」や「意思」や「意識の本質」だと錯覚してしまうからである
個人的好き嫌いや感情というものは 先天的な生理的好き嫌いだったり 後天的に生育環境によって植え付けられた安心な「常識」に基づくものから出てくるものであって これは本当の意味では「自分で選択したもの」ではない
DaiGoが「ホームレス死ね」と言い出したのは 目先の個人的な好き嫌いだけが絶対的正義だと錯覚しているからであって 誰の主観的好き嫌いであっても それだけで合理性のある社会的正義にはならない
「犯罪者は殺すでしょ」という話も 既存の社会制度の価値観を全く客観的に検証せずに鵜呑みにし 合理的根拠が伴わないことには全く気づかずに 「いままでそうだった」とか「皆が疑わないから」といった合理的根拠のない「常識」に基づいたものである
ヒトは 長い間誰も疑わなかったことには疑問を持たなくなる習性があり
「慣れ」ることで生ずる気分的な安心によって問題意識が無くなってしまうのである
「慣れる」という性質は 先天的な動物的行動習性であり 定常安定を求める動物の基本情動システムの根幹を為すものである
人類が「人間として求めているもの」とは 論理客観的な根拠に基づいた「安全」性であって 目先の情動的な「安心」感ではない
安全性というものは徹頭徹尾論理客観的根拠に基づいて導き出されるものであって ただの目先の個人的好き嫌いだけで決定されるべきものではない
何が本当に安全なのかを見分けるためには 「何が本当なのか」が必要不可欠であり そのための論理客観性(理性)である
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」に何で大衆人気が集まるのかと言えば 論理客観的に物事を検証するのが面倒臭いバカが主観的好き嫌いを主張するのに都合が良い話だからである
だからナチスにも都合よく解釈可能となる
嘘を嘘だと 錯覚を錯覚だと認識することが可能でありながら それを目先の気分で放棄しているのは「精神の怠慢」に他ならず
「仕方ない」で赦される話ではない
「神」とか「誰か」が「赦す赦さない」の話ではなく バカしかいなければ人類は持続可能性を失い絶滅への道程を避けることすらままならなくなるからである
だから「バカは罪」だと言っているのだが バカだとそれすら理解できずに無視しようとする
そんなもんどうにもならんわ
Ende;