○ガリレイ。
「ガリレオ」っつうテレビドラマがあるけど、この作品の中の主人公は「将来有望な天才物理学者。」として扱われている。
だが、本当に業績を遺すような学者というのは、実際には業績が認められるまでは変人扱いされることの方が圧倒的に多くて、iPS細胞の研究でノーベル賞をとった山中教授も、「ジャマ中」などと差別されていた。
そもそも本物のガリレオ:ガリレイは火炙りにされそうになっているわけで、予め文科系大衆観念的に有望視されている奴が実際に業績を得ることはほとんどない。
14歳で大学院に飛び級したりすると、あたかも文科系大衆観念的には「天才だ。」「将来を期待されている。」などと勝手に勘違いする傾向が激しいが。この種の偏差値が高いだけの子供というのは、実際には大人になる頃には「普通の人」になってしまうケースがほとんどである。
「学力偏差値が高い=頭が良い。」という観念は、極めて短絡的な文科系観念に過ぎず。何ら認知科学的根拠や証明が存在するわけではない。
実際に業績を得た研究者の多くは、目先の多数派による短絡的で安易な評価に流されることなく、地道に一つのテーマを研究した結果であり。また、そうした地道な信念といったものを大切にする。
「スルメ見て、イカが解るか。」そう言われて「悔しい」と述べたのは養老孟司である。スルメ(死体)解剖をしていて生きているヒトについて何が解るのか。という意味のことを言われ、悔しいと「思う」のは、その研究自体に主体性がなく、世間多数派に流される形で解剖学に就いていた故の感情である。
本当に主体的に解剖の研究をしていれば、たとえ「生きているヒトについて何がわかるのか。」などと言われても、「別に生きているヒトについて言及するつもりはありません。」の一言で済む話であり、「悔しい」などという勝ち負け観念にさいなまされる必要性自体が生じない。
成果が得られるかどうかも判らない研究に没頭していて、「邪魔」扱いされてでも研究を続ける信念というのは、そこに主体的意思、意欲があるからであって。目先の文科系大衆観念的多数評価に惑わされずに研究を続けるからこそ、誰にも到達出来ないような成果業績を得ることが出来るのである。
茂木健一郎だの、澤口俊之、川島隆太といったエセ脳科学者の大衆人気というのも、何の科学的根拠もないデタラメに他ならない。高度な暗算機能や暗記術を身につけたら振り込め詐欺に騙されなくなる証拠でもあればまだしも、そういった証明など現実には存在しないのである。
「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」そんな短絡的で安易なバカげた話を鵜呑みにしている事自体が、むしろ「頭が悪い」証明に他ならない。
特定のゲーム類、脳トレーニング類を習熟しても。「その能力」自体は鍛えられることはあっても、それが本当に意味のあるものであるのかといった検証性にまで言及することのない無為性、無意識性こそが、頭の悪さを証明するのである。
振り込め詐欺の手口というのも、結局は「金さえ振り込めば、全てはうまくゆく。」という短絡的解決策の提示を鵜呑みにする気分感情的行動バイアスを利用したものであり。エセ脳科学者達のペテンを鵜呑みにする短絡性と構造的には全く同じものなのである。
「それじゃ、一体誰を信用すれば良いのよ!。」などとヒステリックに訴える者も少なくないが、誰の言っていることが信用に値するのかを論理的に検証しようとする意思がないこと自体が、そもそもの頭の悪さの根源にある。
暗記術の類で用いられる手法というのは、「順番に思い出すためだけ。」にしか使えないものであり。関連性に「気付く」ための発想力には全く意味を成さない。
ノーベル賞受賞者が、現在のエセ脳科学者の言っているような脳トレーニングをしているかと言えば、そんな話は全く存在しないのである。
むしろ、ノーベル賞受賞者達が口を揃えて論ずるのは、失敗だの評価に惑わされない強い意思、意欲といったものが大切であると述べているのであって。脳トレーニングとは全く無関係なのである。
学力偏差値さえ高ければ、将来金儲けが出来て、世間的な評価も得られて、全てはうまくゆくものであると勝手に勘違いしていたような奴らが原子力開発に携わっているからこそ、自分達のやってきたことを事後正当化するための言い逃れや取り繕いに異常なまでに執着することに陥るのである。
東海村の実験事故においても、業績を焦り過ぎたあまりの稚拙な事故であり。研究内容自体への純粋さが欠如していることの現れである。
特定の価値観に基づいて競走させる手法というのは、クソゲー(ソーシャルゲーム)の手口であり。多数他者との比較を用いた意識狭窄に導く洗脳手法である。
その競走の意味、価値といったものを自律的に検証することなく。強迫観念的に目先の安心満足を獲得するよう仕向けられた結果、与えられた価値観自体への検証を全く行わなくなり、無意味な競争へと意識狭窄を促すことで、ヒトは無意識な暴走状態へと陥れられるのである。
学力偏差値への意識狭窄を導く入試ビジネスであっても、彼らは自分達の金儲けのために生徒を洗脳しているのであって、生徒が原発の危険性を放置させたり、無差別殺人を行うように導いているつもりはない。
これと同じでオウム真理教の教祖においても、彼はテロを目的としていたのではなく。あくまで信者からの人気取りによって金儲けがしたかっただけであって、麻原なんちゃらには意思も目的も存在していなかったのである。
意思とか目的行動選択というものが存在せず、無意識に多数派迎合して気分的安心満足ばかりを追求しているからこそ、あらゆる暴走「人災」は生ずるのである。
「企業が利益を追求しなくなったら、公益法人だ。」などと述べている奴は、企業というものが社会的存在であることを忘れ、金儲け競争という価値観だけに意識を奪われ暴走している証拠である。もちろん赤字借金だらけでは社会的には迷惑であるが、金儲けというのは企業の社会的存在価値を維持存続させるための手段であって、金儲け自体を目的だと勘違いしているから社会の崩壊を導くのである。
何を「目的」とするのか、それを何も考えずに暴走しておいた方が気分感情的には安心で満足であろう。だが、それはカルト宗教の幹部達の心理と全く同じものである。
たとえ「命懸けで毒ガスを製造。」していても、現実には無駄な努力による迷惑にしかならないことを、彼らは知らない。
意識の俎上になく、「知らない。」から洗脳なのである。
Ende;
「ガリレオ」っつうテレビドラマがあるけど、この作品の中の主人公は「将来有望な天才物理学者。」として扱われている。
だが、本当に業績を遺すような学者というのは、実際には業績が認められるまでは変人扱いされることの方が圧倒的に多くて、iPS細胞の研究でノーベル賞をとった山中教授も、「ジャマ中」などと差別されていた。
そもそも本物のガリレオ:ガリレイは火炙りにされそうになっているわけで、予め文科系大衆観念的に有望視されている奴が実際に業績を得ることはほとんどない。
14歳で大学院に飛び級したりすると、あたかも文科系大衆観念的には「天才だ。」「将来を期待されている。」などと勝手に勘違いする傾向が激しいが。この種の偏差値が高いだけの子供というのは、実際には大人になる頃には「普通の人」になってしまうケースがほとんどである。
「学力偏差値が高い=頭が良い。」という観念は、極めて短絡的な文科系観念に過ぎず。何ら認知科学的根拠や証明が存在するわけではない。
実際に業績を得た研究者の多くは、目先の多数派による短絡的で安易な評価に流されることなく、地道に一つのテーマを研究した結果であり。また、そうした地道な信念といったものを大切にする。
「スルメ見て、イカが解るか。」そう言われて「悔しい」と述べたのは養老孟司である。スルメ(死体)解剖をしていて生きているヒトについて何が解るのか。という意味のことを言われ、悔しいと「思う」のは、その研究自体に主体性がなく、世間多数派に流される形で解剖学に就いていた故の感情である。
本当に主体的に解剖の研究をしていれば、たとえ「生きているヒトについて何がわかるのか。」などと言われても、「別に生きているヒトについて言及するつもりはありません。」の一言で済む話であり、「悔しい」などという勝ち負け観念にさいなまされる必要性自体が生じない。
成果が得られるかどうかも判らない研究に没頭していて、「邪魔」扱いされてでも研究を続ける信念というのは、そこに主体的意思、意欲があるからであって。目先の文科系大衆観念的多数評価に惑わされずに研究を続けるからこそ、誰にも到達出来ないような成果業績を得ることが出来るのである。
茂木健一郎だの、澤口俊之、川島隆太といったエセ脳科学者の大衆人気というのも、何の科学的根拠もないデタラメに他ならない。高度な暗算機能や暗記術を身につけたら振り込め詐欺に騙されなくなる証拠でもあればまだしも、そういった証明など現実には存在しないのである。
「これさえやっときゃ、頭が良くなる。」そんな短絡的で安易なバカげた話を鵜呑みにしている事自体が、むしろ「頭が悪い」証明に他ならない。
特定のゲーム類、脳トレーニング類を習熟しても。「その能力」自体は鍛えられることはあっても、それが本当に意味のあるものであるのかといった検証性にまで言及することのない無為性、無意識性こそが、頭の悪さを証明するのである。
振り込め詐欺の手口というのも、結局は「金さえ振り込めば、全てはうまくゆく。」という短絡的解決策の提示を鵜呑みにする気分感情的行動バイアスを利用したものであり。エセ脳科学者達のペテンを鵜呑みにする短絡性と構造的には全く同じものなのである。
「それじゃ、一体誰を信用すれば良いのよ!。」などとヒステリックに訴える者も少なくないが、誰の言っていることが信用に値するのかを論理的に検証しようとする意思がないこと自体が、そもそもの頭の悪さの根源にある。
暗記術の類で用いられる手法というのは、「順番に思い出すためだけ。」にしか使えないものであり。関連性に「気付く」ための発想力には全く意味を成さない。
ノーベル賞受賞者が、現在のエセ脳科学者の言っているような脳トレーニングをしているかと言えば、そんな話は全く存在しないのである。
むしろ、ノーベル賞受賞者達が口を揃えて論ずるのは、失敗だの評価に惑わされない強い意思、意欲といったものが大切であると述べているのであって。脳トレーニングとは全く無関係なのである。
学力偏差値さえ高ければ、将来金儲けが出来て、世間的な評価も得られて、全てはうまくゆくものであると勝手に勘違いしていたような奴らが原子力開発に携わっているからこそ、自分達のやってきたことを事後正当化するための言い逃れや取り繕いに異常なまでに執着することに陥るのである。
東海村の実験事故においても、業績を焦り過ぎたあまりの稚拙な事故であり。研究内容自体への純粋さが欠如していることの現れである。
特定の価値観に基づいて競走させる手法というのは、クソゲー(ソーシャルゲーム)の手口であり。多数他者との比較を用いた意識狭窄に導く洗脳手法である。
その競走の意味、価値といったものを自律的に検証することなく。強迫観念的に目先の安心満足を獲得するよう仕向けられた結果、与えられた価値観自体への検証を全く行わなくなり、無意味な競争へと意識狭窄を促すことで、ヒトは無意識な暴走状態へと陥れられるのである。
学力偏差値への意識狭窄を導く入試ビジネスであっても、彼らは自分達の金儲けのために生徒を洗脳しているのであって、生徒が原発の危険性を放置させたり、無差別殺人を行うように導いているつもりはない。
これと同じでオウム真理教の教祖においても、彼はテロを目的としていたのではなく。あくまで信者からの人気取りによって金儲けがしたかっただけであって、麻原なんちゃらには意思も目的も存在していなかったのである。
意思とか目的行動選択というものが存在せず、無意識に多数派迎合して気分的安心満足ばかりを追求しているからこそ、あらゆる暴走「人災」は生ずるのである。
「企業が利益を追求しなくなったら、公益法人だ。」などと述べている奴は、企業というものが社会的存在であることを忘れ、金儲け競争という価値観だけに意識を奪われ暴走している証拠である。もちろん赤字借金だらけでは社会的には迷惑であるが、金儲けというのは企業の社会的存在価値を維持存続させるための手段であって、金儲け自体を目的だと勘違いしているから社会の崩壊を導くのである。
何を「目的」とするのか、それを何も考えずに暴走しておいた方が気分感情的には安心で満足であろう。だが、それはカルト宗教の幹部達の心理と全く同じものである。
たとえ「命懸けで毒ガスを製造。」していても、現実には無駄な努力による迷惑にしかならないことを、彼らは知らない。
意識の俎上になく、「知らない。」から洗脳なのである。
Ende;