書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

アフィリエイト。

2011年10月22日 01時20分06秒 | 日記
 ブログに広告を貼付けて小遣い稼ぎをすることができるらしいんですけど。

 特定のバナーを貼付ける形式しか提供されていない。

 個人的には個別の商品とか紹介して、それが売上に結び付いたら1円とかっていう形式の広告を載せたいのだけど。そういうのはないらしい。

 時折バナー広告だらけのブログとかあって、どこに本文記事があるのかすらわからなくなっている場合がある。

 そういうのは嫌だ。

 鉄拳が紹介するような「こんなブログは嫌だ。」って感じ。
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入力速度。

2011年10月21日 20時08分20秒 | ネタ帳
 AndroidPCでは慣性スクロールっていうのができるんだけど、時折指では絶対にスクロールできないような速度で勝手にスクロールしてしまうことがある。

 多分タッチパッドが実際の指の動きとは異なる反応をしたときに、その入力されたデータをそのままスクロール速度に適用しているために起こる現象だと思う。

 スクロールに限らずクリック速度とかキー入力速度とかでも意図した入力とは掛け離れた入力がされてしまうことがある。


 意図した入力以外は無視するとか、或は限度以上には動作しないといった、アルゴリズムによるダンパーみたいな動作制限みたいのがあってもいいかなって思った。

 意味が伝わりづらいかな。まあいいや。



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逆探知ウェア。

2011年10月21日 15時21分48秒 | ネタ帳
 ボットとかスパイを使っている奴なら、そのボットやスパイから「利用者」を特定することもできるはず。そういうアプリも公開しちゃえば使う奴もいなくなるんではないか。

 単に防戦一方ではなくて、逆攻撃を仕掛けても良さそうなんだけどな。特に「多数」の力を使えば世の中悪意のある奴の方が少数のはずなので、間違いなく勝てるはず。

 このままAndroidを無防備な状態にしておいても普及は難しい。メーカー各社で共同出資してウイルス対策チーム会社を作ればいいのにね。


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サイトの体裁。

2011年10月21日 15時07分55秒 | ネタ帳
 体裁、つまり外見に凝りすぎてAndroidブラウザで正常に表示できなかったり、或はロードに異常に時間がかかったりするのが無意味。

 そもそも具体的内容以外のトップページなんてテキスト主体でいいはず。それを見た目なんていう体裁にこだわるもんだから、操作方法自体がサイトごとにまちまちで、利用者からすると重くてややこしくて鬱陶しいだけ。

 中には「このページは最新の技術を使っているので、こちらのブラウザでは表示できません。」だとか平気で言い出す始末。

 それは一体誰のための「最新技術。」なのか、考えたこともないのかね。

 バカなのかね。

 「頑張る」方向性が根本的に間違っていることに、どうして誰も気付かないんだろうね。
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自転車は原則車道。

2011年10月21日 13時22分50秒 | 日記
 自転車は原則車道通行っていうのが徹底されることになったらしい。

 一つ気になるのが三田にある第一京浜札の辻交差点下り方向での自転車の停止位置。自転車っていうのは車道の左端しか走ってはいけないことになっているので、この規則を守って左端で停車していると左折専用車線の左折矢印青信号が先に出るので自転車が邪魔になる。

 きちんと左端に自転車の停車スペースを設けるか、左折矢印を先に出すっていう構造自体を変えるか、何かしないと「原則車道」なんか無意味。

 それこそ欧米みたいに自転車用に二段階停止線をつけるっていう方法もあるんだろうけど、これは免許が要らない自転車全てに徹底するのは困難。学校教育から徹底しておけば将来的には可能かも知れないけど現時点において「いきなり」は危険。

 疋田智も言ってたけど、路上駐車は少なくとも幹線道路だけでも徹底排除しないと危険。暗がりに黒い車が無灯火で停車していて激突しそうになったことも少なくない。実際に激突して停車していた奴が重過失でぶちこまれた事例もある。

 あとテールランプとかウインカーとか前照灯の水平カットといった電装保安機器の法制化も必要。

 ブレーキランプを後から組み込むことは難しいかも知れないけど、加速度センサーを用いれば減速を検出してブレーキランプを点灯させることは可能。単3充電池で使える防水汎用保安機器ってパッケージで製品化すれば1000円もしないんじゃないかな。

 そもそも自転車の電装系が保証外っていうのが意味不明。

 そういえば「保証」っていう文字は他にも「保障」とか「補償」ってのがあって、使い分けがよくわからん。


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ドロップダウン。

2011年10月21日 02時03分04秒 | 日記
 サイトによってはページ上にドロップダウンボタンを設定していることがあるんだけど、Androidマシンだとクリックボタンを長押しすると裏メニューが出てきてしまってややこしい。

 ドロップダウンしてから間髪入れずに選択すればいいんだけど、すんごいせわしなくて面倒。

 基本的にAndroidブラウザの仕様自体が一般的PCブラウザの仕様と異なることが原因。でもタッチパネルはこれからPCでも標準化される機能だから、統一的にブラウザの仕様を策定しておくべき。

 それとも特許関係が絡むのかしら。

 あぁ、もうこんな時間。寝なきゃ。おやすみなさい。
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クソゲー小説。

2011年10月21日 00時08分38秒 | 日記
 感情っていうのはどんなにジタバタしてみても自分ではどうにもならないものなんだと思います。だから抵抗しても無駄だと思い込んでおけば抵抗することを諦められるので大脳辺縁系が楽になるのでバカにとっては思考停止が簡単にできるんだと思います。
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うむらうと。

2011年10月21日 00時01分21秒 | 日記
他のサイトからコピペ。

ドイツ語ってどうやって入力するんでしょうね。謎です。表示自体は普通にするんですけどね。

ウムラウト
Ä
ä
Ö
ö
Ü
ü
スツェット
ß

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大島優子の等身大。

2011年10月20日 10時39分04秒 | ネタ帳
 大島優子の等身大フィギュアがお台場で公開されているらしい。

 一体1900万円だとか言っているから、その仕事おいらもやりたいなって思ったので、どこで作っているのか調べたらロンドンで作っているんだそうだ。

 フィギュアなんて日本の御家芸みたいなジャンルなのに何でイギリスに発注しちゃうんだろう。日本国内にも凄い原型師が山ほどいるのに。

 そもそも日本人の顔を作るのにイギリス人が作るというのは無理がある。何となく彫りが深いのはそのせいじゃないのかね。ハーフには見えないけどクォーターっぽい感じ。

 ベッキーとか作らせるならイギリスでも良いかも知れないけど。

 結局個人で作っている人はいても、それを束ねるマネジメントを誰もやらないってことなんだろうな。いっそのことおいらがやろうかな。マネキン作っている会社とかと組めばなんとかなりそうなんだけどな。fgとかで原型とか塗装の技術者探せるし。

http://news.walkerplus.com/2011/1019/40/

 写真で見ても肌とか歯とかが透明度がないらしくて、ストロボばっちんで撮影しちゃうと色がなんとなくおかしい。

 肌っていうのは実は意外と透明度があって、指とか耳とか逆光だと真っ赤に見えたりするほど透明度がある。だから絵を描いているとわかるんだけど、肌っていうのは陰の部分で赤とか紫の成分を混ぜるとリアルになる。写真から色を抽出してみるとハイライト部分に緑成分とかが混入していたりもする。

 まあデジカメの性質にも依るのかも知れないけど、とにかく不透明な物体の場合にはこうした色相変化っていうのはほとんどない。

 ワックスドール、いわゆる蝋人形のリアリティってのは、肌に透明度があることによるものなのです。昔東京タワーの一階に蝋人形の展示があったけど、似てないのにリアルだったのです。

 ◇追記:詳しく読んだらワックスドールなんだそうです。色を出すのって難しいんだろうな。

 ハグしても良いらしいんだけど、塗膜は弱そうだな。肌に触らずそーっと抱きしめて下さいね。




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支援。

2011年10月20日 01時18分17秒 | 意識論関連
 参考書を被災地に送る支援をしている学生さんに対して、「現地に行かないから偽善だ。」的な誹謗中傷を書き込んだバカがいるらしい。

 実際に参考書を送ってもらって有り難いと感じている被災者の方がいる以上、なんらやましい点などないのである。

 何の根拠もなく人の善意を侮辱するなどというのは「人間」としてポンコツである。

 ポンコツはシエラレオネでゲリラでもやっていればよろしい。

 日本には要らないです。
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手段と目的。

2011年10月19日 15時09分28秒 | 意識論関連
 §:人が人を殺してはいけない「理由」は必要なのか。

 実はそもそも人が生きる理由だって論理的には存在しないんです。ニーチェとか文系生物学者なら「適者生存」だとかいう「結果」論を持ち出すでしょう。でも「結果」というものは自分自身で選択したものではないのです。

 人がなぜ生きるのか。先ず一義的には「死にたくない。」という結果的な本能が挙げられます。でも本能というものは個人においては予め自分の脳に組み込まれただけの機械的条件反射であると言えます。

 自分の遺伝子配列に関して、自己自身の関与はありません。従って遺伝的に組み込まれたあらゆる本能は自己の選択とは無関係なのです。それは生存本能においても例外ではありません。

 結局人が生きる理由とは、個人的な好き嫌いの問題でしかないわけです。

 脳内物質ドーパミンは、その常習性によって定常安定への欲望を作り出します。ドーパミンは別名「安心物質」とも言われ、定常安定的なものに「安心」を感じるように促し、逆に定常安定的でないものに「不安」や「恐怖」を感じるように促します。固定観念という思考の呪縛も、このドーパミンが作り出しているわけです。

 「馴れる。」「ハマる。」「癖になる。」といった性質は全てこのドーパミンによって作り出された情動行動であり。無意識学習といった「慣れ」に関わるものは全て繰り返し学習によって無意識下に刷り込まれた行動として記憶されたものなのです。

 ヒトはこの世に生まれて今までずっと「生存」しているので、「生存」していることが「安心」です。

 つまり、個体の生存本能というのは大脳辺縁系によって作り出された結果的「好き嫌い」の範疇に過ぎず。論理的「理由」など最初から存在しないのです。

 これを言い出すと、大抵の人は気分を害します。

 その「気分」であっても結局は大脳辺縁系によって作り出された固定観念による違和感に過ぎません。いわばシーケンシャルな機械的条件反射であるからこそ多くの人は気分が悪くなるのです。

 自分の大脳辺縁系の構造に限らず、自分が生まれた時代や、育った環境としての社会であっても。そこには自分の選択は介在していません。従って今現在自分の脳に刷り込まれた固定観念的なあらゆる価値観の全ては自分自身によって自律的に選択したものではないのです。

 しかし、今現在においてのみ選択は可能であり。そこにのみ本質的自己は存在しうるわけです。

 この話に気分を害するのであれば、それは今までこうしたことを全く考えてこなかったという「慣れ」の問題でしかありません。慣れないことに不安を感じることは大脳辺縁系の反射としてごく当たり前のものです。

 一人の人が生きる「理由」などというものは最初からないのです。でもよく考えれば一人の人が生き続けることに「理由」が必要でしょうか。「理由」のために生き続けないといけないような環境依存的な不自由なものなのでしょうか。

 「生存」に「理由」が必要ということは、「理由」の方が優先されているということであり。そこには自由意思としての選択が介在しないということでもあります。言い換えれば「自発的に生きている。」のではなく、「生き続ける理由を自分の自発的ではないものに求めている。」からこそ「理由」を必要になってしまうことになる。

 よって私は自殺が違法であるとは考えません。生存によって苦痛以外の一切が得られない状況であるなら尊厳死を選択することは誰しも求めるものであることからも、それは疑う余地はありません。

 個人が生存し続けるのはヒトという種の生物に普遍的な「理由」によるものではなく、「生きるに値すると感じる。」から生きているのであって。単に本能的に「死にたくないから、生きている。」などという結果論に依存したPassiveな論拠だけでは不充分なのです。こうした本能だけならサルでもイヌでも持っているものであり、そこには何ら人間としての存在価値など証明不可能な結果論に過ぎないのです。そこには個人が個人であることの根拠もありません。

 殺人をしてはいけないことも。それは論理的「理由」によって導き出されるような短絡的なものではないということです。

 バカな西洋哲学カブれ達は真理の追求によってあらゆる物事に「理由」を付けることにばかり固執しますが。真理の追求や、それによって導き出される「理由」というのは、それ自体が「目的」ではないことを忘れているのです。

 「目的」とは、平和な社会を構築することであって、真理や「理由」はその「手段」でしかありません。

 西洋哲学カブれがなぜ「理由」に固執するのか、それは彼らの目的が「理由」を発見することによって社会的功績を得ることが「目的」であって。個人的欲望に囚われているからこそ思考が固定化されて、具体的な「考え」に及ばなくなっているからなのです。哲学者であることに固執していて、その前に社会の中の一人の人間であることを忘れていると言えるでしょう。

 バカ学生相手に「ニーチェは素晴らしい。」だとか吹聴していれば生活には困らないというのであれば、わざわざ「理由」なんぞ発見しなくても良いということもあるでしょう。どちらにせよ現在の哲学界は怠慢という他ありません。

 §:理由以外の根拠

 人が人を殺すなどの危害を加えるのはなぜでしょう。現実的事例としても「理由」などありません。ただ「ムシャクシャしたから。」とか「ムカついた。」といった気分。すなはち大脳辺縁系が促す情動反射によるものです。

 他人に対しての嫌悪という、好き嫌いによる感情が他人への危害を加える基礎的原理です。

 しかし、嫌悪したからといって多くの人は原理構造のままに危害を加えたりはしないものです。大抵は嫌な奴とは付き合わなければ良いだけのことだからです。

 通り魔が論ずる「社会が悪い」という話も、具体的にどこがどのように悪いのかには全く言及していませんし。極めて抽象的な話しか出てきません。

 詳しく追求しても「俺のような人間は、死刑になったらいいんじゃ。」などとはぐらかすのは、最初から論理的根拠や具体的論拠は全くなく、ただ気分的に「他人に危害を加えたら気分が良くなるような気がした。」だけに過ぎないからです。

 秋葉原の通り魔が一部の人達には人気があるそうですが。ニーチェ同様に抽象短絡的に「社会が悪い」的に正義を振り回すことは、無思考な凡民にとっては大脳辺縁系に快楽を与えるようです。養老孟司の人気も似たような理由だと思われます。具体的にどうすれば人気が得られるのかにはここでは言及しません、そこには普遍性というものがなく、特定の時代とか社会に依存した結論しか導き出されないことが明らかだからです。

 個人が生きる個人的理由とは、生きるに値する社会であることが前提です。しかし、この「生きるに値する社会。」という基準自体は個人によって大きく異なるものです。通り魔とか振り込め詐欺師であれば、本能のおもむくままに他人からあらゆるものを略奪破壊できることが「生きるに値する社会。」であると言い出すでしょう。

 シエラレオネなら、妊婦を殺害して腹の中の子供が男か女かを賭けて殺害するような残虐性こそが、「生存」に値する基準となる社会も存在しうるのです。

 しかし、残虐なゲリラしかいない社会に持続可能性があるでしょうか。残虐性を競争し続けなければならないような恐怖が支配する社会こそが望みであるというのであれば、今すぐシエラレオネでもアンゴラでも行けば良いのです。でも本当に望んでゲリラになる日本人は全くいません。通り魔に同意している者であってもです。

 残虐性と破壊が正義の社会が望みであると言いながら、実際には多くの人がそれを望まない日本で通り魔を行うというのは、そこに全く選択可能性が働いていないことの証明でもあります。要するに社会の平穏に「甘えて」いるということなのです。

 持続可能性がない社会を求めること自体、そもそもが論理的合理性を持たない、その場限りの気分に由来する欲望に過ぎません。

 そもそも、本能欲望といったもの自体が自己自身が意識的に選択したものではないことは既に述べました。

 ニーチェのような雰囲気重視の大衆迎合であれば、本能と理性はバランス問題にでもしておけば簡単でわかったような気分にでも誘うことができるでしょう。それは単なる思考停止によって大脳辺縁系が楽になっているだけのオカルトでしかなく、真理を途中放棄した怠慢でしかありません。

 持続可能性を持った社会を求めない時点で、そもそもが論理矛盾に過ぎないわけです。


 持続可能性を持った社会を求める人と、そうでないヒトとの相違はどこにあるのでしょう。それは論理的な考えに基づいて統合的な観点から「生きるに値する社会。」を想像しているかどうかの違いと言えるでしょう。

 暴力団とか通り魔同士、或は振り込め詐欺師同士で考えが共通しているのであれば、こういった人達だけで閉鎖空間で自給自足生活でもさせればよろしいわけです。果たして社会生活が成立できるでしょうか。ありていに言って不可能なのは検証する必要もないでしょう。破壊とか搾取する対象が存在しないところで自立的に社会を構築することなど最初からする意欲すら存在しない人達だからです。

 必ずしも持続可能性を持った社会を望む人達の全てが、その論理的な理由を言語で述べられるとは限りません。むしろ、自分が生きる理由などというものは常日頃考えて生活しているようなものではありませんから、何となく漠然と望んでいる人の方が多いのは当然であるとも言えるでしょう。それはそれで何ら問題はありません。

 問題なのは理由をいちいち説明しないと自発的には持続可能性を求めないような「甘え」のひどいヒトの短絡思考が問題なのです。

 単に生存だけを論ずれば、生物種としての「ヒト」でありさえすれば構わないわけです。それこそ暴力や破壊を伴った「力」だけに依存した自然淘汰の結果論だけを優先すれば、ニーチェのような超人だの、フランシス:ゴルトンの優生学が正当化されることになります。

 その超人とかいうヒトは、さぞかし丈夫な身体と高い身体能力を持ち、他人を騙すことに長け、狡猾で繁殖力が高く「生存」だけに特化した生物に違いありません。それこそ宇宙空間でも生存可能なそういう生物ならシガニー:ウイバーさんにM40マシンガンで抹殺して頂くことを私は望みます。

 単に生存価だけを論ずれば、先天的疾患によって繁殖不能な子供であれば殺しても構わないという理屈も成立しうることになります。そんな理屈を本気にするような奴は「ヒト」ではあるかも知れないですが「人間」とは言えないでしょう。

 ところが生物学者のほとんどは、生存価万能主義を貫こうとするキチガイしかいないのが現状なのです。

 生存も生存本能も、これらは全て「結果」であって意識的論理的に選択した意思に基づく行動選択ではありません。それこそスペースシャトルチャレンジャー号の固体燃料ロケット技術者であれば、乗組員の安全と引き換えに自己の保身を優先するような選択をするべきではなかったと論じます。

 それがたとえ生存に適さないとしても、人間としては正しい行動選択であったからです。

 「人が人を殺すような社会に生存し続ける理由。」もまた普遍的には存在しない個人的な主観によるものに過ぎず、個人の意識の広さや思考の深さに依存します。

 必要なのは「理由」ではなく、個人の意識の広さによる統合的な論理思考に基づく自律判断こそが「ヒトが人間である所以。」であり、それによって築かれる社会の平穏なのです。


 いうなれば「ヒトとして普遍的な理由はない。」が「人間として普遍的な個人的要望。」は存在しうるということです。

 ジョン:レノン曰く、「戦争は終わる、全ての人が望めば。」ということです。

 持続可能な社会を求めないという論理矛盾は、そこに論理的思考が働いていないからであり。固定観念や意識狭窄によって思考が拘束されているからです。

 「ニーチェは偉大な哲学者である。」などというのは虚構であり、単なる振興宗教の教祖に過ぎないのです。それを多数派同調バイアスという錯覚に惑わされて危険なものに気分的に安心し続けるというのは愚かと言う以外ありません。実害が及んでからでは遅いのです。

 先ずは自らの愚かさを認識し、既に行った選択判断を事後正当化するなどというバカの上塗りを重ねないことが肝要です。自己が自己足りうる証明とは、今現在における選択可能性にこそ存在するというのは。既に存在するあらゆる価値観の全ては必ずしも本当に自分自身では選択したものではないということに基づく帰結です。

 ヒトは長く続くことは永遠に続くと錯覚しがちです。錯覚を錯覚であると認識するのは意識の役割であり、認識できなければ間違った認識に基づいて行動判断を下すことに陥るのは当然のことです。










End;
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被災写真。

2011年10月18日 23時28分47秒 | ネタ帳
 被災地での写真検索システムをリコーが作ったらしいんだけど、被災者の多くがPCの操作に馴れていないので縦スクロールだけで見られるようにしたらしい。

 やっぱり普通のPCっていうのはとっつきにくい。とにかくキーの数が異常。

 単純にタブレットPCで閲覧させればいいのではないか。ソフトバンクがマシンと通信システムを提供すればいいんでないのかね。



 え?。大江麻里子がトレたま?。違った、白石小百合さんでした。大江麻里子さんに似てる。

 トレたまは採血をしなくても血液検査ができる装置の紹介。そのうち医師や看護師がいない簡易健康診断とかできるようになるかな。(どんだけ人嫌いなんだ。)



 そういえば、草刈り機の回転刃に櫛状のカバーを着けたら草が逃げたり、足に当たっても切れなかったりして良いのではないかとおもた。


 世田谷の瓶入りラジウムだけど、3.11の震災で家ごと倒壊しなくてよかた。解体にユンボとかで引っかき回したりしたらと思うと背筋が寒い。(゜Д゜;)


End;
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初めから壊れている。

2011年10月18日 17時03分51秒 | 意識論関連
 ニーチェの言っていることっていうのは、とにかく「~ではないのか。」「~かもしれない。」「~らしい。」っていうあやふやな予測予言が多すぎる。

 論理的根拠に基づいた証明とか、普遍「的」に見られる傾向性とか、そういうものに基づいて論証しておらず、ただひたすら抽象的な憶測を並べて格言風味を装っているだけである。

 にも関わらず多くの西洋哲学かぶれ達は「なるほど」だとか「鋭い」だとか形容する。ちっとも鋭くないし、具体性がないので糞の役にも立たない話でしかない。要するにわかったような気分に陥って気分的に満足しているだけであって、批判精神も論理的検証性も何にもないのである。

 もっとも顕著なのが「できそうにないことを自分に要求するな。」っていう話。

 できそうかどうかっていうのは、主観的な予測、気分によって左右されうる基準であって。気分的にできそうにないことを権威者に「やめとけ」って言われて安心して諦めることで満足したいだけなんですね。

 一方で「自分を度外視することも必要。」だとか言い出す。

 これらは読み手が自分の気分に応じて勝手な解釈をすることによって、その場限りに気分的満足を得ることで「元気が出る。」とか「勇気がわく。」だけのことでしかない。気分とは大脳辺縁系の反射的反応に過ぎず、それ自体は本質的には自己選択ですらないのである。

 基本的に勝ち負けという結果論だけを基準にした権力欲至上主義に基づいた、社会的成功だけが「目的」であり。ニーチェには本質的自己意思とか自律選択っていうものへの言及が全くない。

 ニーチェ読んで喜んでいる時点で、かなりイタいことを認識すべきである。できないんだろうな、100万部超っていう多数派同調バイアスが強力に働いているからね。それがかつてのドイツでは虐殺炎上という悲劇を引き起こしたことは意識から外して。

 結局哲学者と呼ばれる学者のほとんど全員は、精神の救済だとか言って、気分的に救われること、大脳辺縁系が楽になることにしか興味はない。

 最初から「考え」たくない人達なんですね。

 だから思考停止して満足するための屁理屈ばっかり探している。「文系」の奴っておしなべてそう。哲学っていうのは文系に属するもんだから論理的検証とか誰もしないので簡単に体制腐敗を招くんだろう。

 マスコミもね。



生きることはなんのことか、 生きるとは、 死にかけているようなものを、絶えず自分から突き放していくことである フリードリヒ・ニーチェ ドイツの哲学者・古典文献学者
由佳 2010年10月2日 かっこいい
銘無き石碑 2010年11月28日 ニーチェの言葉の刄は、鋭く人の心の奥底をえぐり、生き方を考えさせられる。


 「かっこいい」っていうのは外見上の雰囲気しか述べていない。「生き方を考えさせられる。」だとか言っても実際には何ら善い影響など全く及ぼすことはない。なぜなら具体的な内容が全くないカッコつけでしかないからだ。考えたような錯覚に陥って満足しているに過ぎない。少しでも「考え」が伴えば意味がないことに気付くはずである。その場限りに感慨にふけって、それで考えたつもりに陥って「あぁ、自分は何て思慮深いのだろう。」と勝手に思い込んでいるだけの変態西洋かぶれに過ぎない。文系の者というのはこんな奴ばっかりである。

あなたがたは、父と祖父の国を追われた者でなければならない。 あなたがたは、あなたがたの子供たちの国を愛さなくてはならない。

 何で「追われた者でなければならない。」のか意味不明。なぜ国を愛さなければならないのか、論理的根拠が全くない。

善悪において一個の創造者となろうとする者は、まず破壊者でなければならない。そして、いっさいの価値を粉砕せねばならない

 見境なく破壊していれば単なるテロリストに過ぎない。

いっそ、あなたの悪魔を育てて大きくしたほうがいい!

 短絡思考の典型である。「いっそ。」って何が基準なのか。

蝿どもはすこしも悪意なく、あなたの血を欲しがっているのだ。 かれらの血のない魂が血を渇望しているのだ。 だから、かれらが刺すのも、まったく罪はない。

 本能こそが正しいというニーチェ特有の勝手な観念に基づく御託宣である。欲望によって導かれた行動の全ては正当化されるかのような解釈を可能とする危険思想である。

悪人がいくら害悪を及ぼすからといっても、善人の及ぼす害悪に勝るものではない。

 こんなものは程度問題であって、別に悪人の害悪が問題にならないわけでもない。そもそも悪意を持っていたら善人ですらない。結局何の意味も最初からないのである。こんな稚拙な内容で酔っている時点で、かなりイタいのである。



 養老孟司とかもそうだけど、社会的成功とか社会的認知が得られなければ、いないも同然という、多数他人からの評価だけが自己存在価値の全てという基準自体が、そもそも本質的自己の欠落を示すのであり。本質的自主性、自発性の欠落の現れである。

 他人ありきの自己でしかないのであれば、それこそ他人任せという環境依存的な存在価値観であり。本質的自己はそこには存在しないのである。

 バカ学生であれば「だって、他人から認められないとやる気がおきないじゃないですか。」などと酒の席で「本音」を漏らすのである。

 この場合の「本音」とは、気分の問題であり。短絡的な感情論に過ぎない。


End;
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論理的思考能力。

2011年10月17日 13時19分56秒 | 意識論関連
 論理的思考能力を必要とされる問題を出され、それを解くことができるとしても。解答が予め用意された「問題」を解いているだけであれば、その能力とは必ずしも常に論理的思考が働くことを証明しているわけではない。

 解答することによって評価が得られる出題された「問題」を解く「能力」とは、出題している者が規定した基準に基づくものであって、その基準自体が論理的根拠があるのかどうかにまでは言及されることは「普通は」ない。

 つまり、出題者の決めた能力基準という規定だけに基づいて解答者は評価されるのであり。本当の論理的思考能力というのは、出題された問題を解いているだけでは測ることができないのである。

 どんなに難解な問題を解くことが可能であるとしても、予め解答が用意されている問題を解いている時点で、出題者の脳を超えることはないのであり。そもそも出題者の脳がマトモかどうかに言及しても成績評価にならないから考えないのが「普通」なのである。

 学生であれば、教授が出題した問題を解いているだけで成績評価になるが。出題している教授に対して異議を唱えて「機嫌を損ねる」ことで成績が悪くなることを恐れて「考えないようにしている。」のが「普通」なのである。

 これらの「普通」とは、ありていに言って「凡人」を意味する。


 どんなに学力が高くても、与えられた環境以上の能力を発揮できないのであれば、それは結局「凡人」に過ぎない。

 あらゆる学力成績基準のほとんど全ては認知科学的に厳密な検証をされてはいない。だから学力が高いバカが少なくないのである。

 茂木健一郎は養老孟司と話を丸めていた奴である。この時点で茂木は科学者としてはポンコツであり、ただの大衆人気取りを「目的」としたペテン師に過ぎない。茂木は散々脳トレ類を推奨して、論理的根拠もなく「これが脳に良い。」などと吹聴し続け。結局与えられた問題を解く能力以外に何の能力も得られないことが実証されたにも関わらず。今度は「特定の能力が向上する問題。」などと称して相変わらずクイズ番組の監修などをしている。

 これは「言い逃れ」とか「取り繕い」でしかない。それでもマスコミは数字(視聴率)が取れる「オイシイ」話として、茂木の規定した基準を垂れ流すのである。

 基準の根拠の全てが茂木が規定しているわけではなかろう、どっか海外の大学教授が作り出した基準を鵜呑みにしているだけかも知れないが。鵜呑みにしている時点で科学者としては無能であることを認識すべきである。ハーバード大学のハワード:ガードナーのMI理論が論理的根拠が欠落していることも、私以外に誰一人として指摘していないのである。既に脳科学者、認知科学者のほとんど全ては全く役に立たないデクノボウであり。バカ同士で話を丸めて馴れ合いで同調しているだけの集団腐敗に陥っているのである。

 だからこそ私の話に誰も耳を貸さないのである。

 特定の学者が規定した論理的思考能力基準として、私よりも高い能力を発揮する者は相当数いるはずである。しかし、そのほとんど全員は養老孟司や茂木健一郎やハワード:ガードナーの言っていることの論理的検証をできないし、最初からしようともしないのである。

 その原因の一つが「権威」が作り出す盲目性、思考停止によるものである。

 「アイヒマン実験」などで立証されている権威への盲目的服従というものは、たとえ学力成績が高くてもヒトという種の生物である限り生物学的な社会形成習性として無意識的に発揮されてしまうものなのである。

 原発の暴走を許したのも、結局は権威による論理的根拠のない決め付けが最大の原因である。「絶対に安全」であることの論理的検証をマスコミも含めて誰もやらなかったからである。

 クイズ番組でどんなに高い得点を得られたしても、クイズ以外に糞の役にも立たないのは明白である。単なる他人との比較による優越感に浸っているだけなら社会的には全く無能なのである。多くの凡人はクイズの正答率が高いことを短絡的に「頭が良い。」と決め付けるであろう。こうした凡人の基準をどんなに多数抽出してきても、それが本当に「頭が良い。」ことの論理的普遍性証明にはならないのである。

 それは大学や研究機関で働いているかどうかとも無関係である。学術論文の体裁(外見)だけが整っていても、その内容が本当に論理的検証がなされているかどうかとは無関係である。実際生物学における進化に関するほとんど全ての論文は「結果」と「目的」を区別しておらず、ドーキンスのお伽話を本気にしているようなオカルト学者しかいないのである。

 遺伝子というのはDNA配列の中で偶発的に「遺った」結果であって、それ自体に「目的」などが存在することの論理的証明など原理的に不可能なのである。

 擬態や寄生が極めて高度であることを「不思議だ。」と言っても、その「不思議。」さとは生物進化の結果だけを見ている気分的な違和感を述べているだけであって、自然淘汰だけでは絶対に説明不可能証明があるというような論理的疑問ではない。

 多剤耐性菌の発現などにおいても、発現してからメカニズムを説明することはできても、予めいつ、どこで生ずるのかは誰にもわからないのである。今現在起こっている進化であっても予測不能なものを、数十億年の「結果」だけ見て全てを説明することができないのは論理的には「不思議」でも何でもない。




 巷ではニーチェの本がミリオンセラーだという。「元気」だの「勇気」といった、その場限りの「気分」さえ良ければ、多くのヒトの大脳辺縁系は「満足」するのであろう。

 それこそ原子力推進派の者であっても、ニーチェを読んで「勇気」を持って原発を存続させようとするであろう。

 かつてドイツでは「元気」に600万人以上のユダヤ人を死体に変換したのである。

 ニーチェは基本的に無能である。無能な人間が自己存在を事後正当化して気分的に満足するための屁理屈がゾロアスター教である。オカルトは、それをオカルトであると認識できなければ気分的には快楽を促すものなのである。だからオカルトは流行る。

 オカルトをオカルトであると、錯覚を錯覚であると認識するのは本質的意識であり、論理的思考である。本質的論理思考能力というものは、学校の成績で測れるようなものではないことは既に述べたはずである。

 促された考えだけをしていても、自発的に疑問を持たなければ、それは独自の「考え」ですらないのである。独自の考え以外に新しい発見は存在しえない。

 マシンの調子がおかしいので、今日は終わる。


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うまくゆかない。

2011年10月16日 13時13分59秒 | 日記
 以前工業系展示会で特殊鋼で出来たカッターナイフ用の替刃っていうのを見つけて、どこで売っているのかファインテックにメールしたんだけど、返事が来ない。

 参考出品で商品としては出ていないのなら、その旨返事くれても良さそうだけど、無反応。

ファインテック
http://www.f-finetec.co.jp/

 逆にキーエンスの場合、超高速撮影の画像とかが見ていて楽しいから見ただけなのに、営業の人から電話とかメールとかがすごい来る。

 アンケートに「興味ない」って書いていたのに、凄い積極的。
http://www.keyence.co.jp/microscope/special/vw_9000/movie/index.jsp

 なんだかな。

 ◇追記:記事下広告に丸紅の立体出力造形関係の広告が出てたので見てみたんだけど、紹介ビデオがサムい。面白いっていう体でやっているみたいなんだけど、内容がなかなか始まらなくてウザいんで戻ってきちゃった。

 お金のあるとこは良いね、下らないことにお金ばらまけて。

 丸紅
http://www.marubeni-sys.com/de/3d_modeling/index.html
 Pixivとかで絵描きさん探してマンガとかにした方がよっぽどよかろうて。

 表示不良が一回起こった。

 クリックするとこ(下のURLの方に)

 変えたら動いた。


 こっちから入って「RP&3Dプリンタ」とかってところをクリックした方がいいかも。
http://www.marubeni-sys.com/
 結局こっちでも見れなかった。ページ表示に凝りすぎてAndroidブラウザでは表示できないらしい。
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