密集密接を避けようという話なんだけど
OKマートは結構混雑してた
でもOSCオリンピックはそんなに混んでなかった
時間帯にも依るんだろうけど
どこの店がどれだけ混雑しているのかリアルタイムでネット上で見れるようになっていると密集を緩和できるんじゃないだろうか
食料品店ばっかりは行かないわけにもいかないから 何とか工夫して密集を緩和しないとどうにもならん気がする
Ende;
密集密接を避けようという話なんだけど
OKマートは結構混雑してた
でもOSCオリンピックはそんなに混んでなかった
時間帯にも依るんだろうけど
どこの店がどれだけ混雑しているのかリアルタイムでネット上で見れるようになっていると密集を緩和できるんじゃないだろうか
食料品店ばっかりは行かないわけにもいかないから 何とか工夫して密集を緩和しないとどうにもならん気がする
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NHKでも「減点法ではなく 加点法で」と言ってたけど
子供達が広場で元気に駆けずり回っているのは悪いことばかりでもなさそうだし
近年子供の体力低下が問題になってたくらいなので
この際新型コロナウイルスが収束に向かうまでは外で体力強化のために遊ぶ期間だとしておいても良いと思う
校庭とかの屋外なら大人の目が届くので悪質なイジメも起きなさそうだし
学力低下が問題になりそうだけど そもそも現状の学力成績というのは本質的な知能の論証があるわけでもなし
全世界的に学力低下は起きるだろうから国際競争力の観点からはそれほど問題にはなりそうにないし
プログラミングの学習ならむしろ家でも充分できそうだし
文科省でスマホでも学習できるコンテンツこさえたらよかろうと思う
◇
ガーゼマスクって織目が荒すぎて飛沫すらもほとんど軽減できないそうだ
だとしたらガーゼマスクの内側に何かしらの素材を介して装着したら効果が向上するのではないか
例えば
○ティシュ
○キッチンペーパー
○お茶を濾す不織布フィルター
○眼鏡拭きって引き伸ばすと意外と目が荒い
○フェルトって圧縮して密度上げるとしても均一に圧縮するのは難しそうだ
○クイックルってどうなんだろ 不織布ではあるけど…
○コーヒーフィルター的な濾紙って 理科実験用のは入手が困難なのかしら
○それなら油濾し紙的なものはどうか
身近に入手が簡単なもので どれが最も有効な素材なのかを誰か実験して公開して欲しいな
◇
電解水を作る装置って そんなに難しいもんじゃないような気もするんだけど
大量生産に乗せれば一万円くらいでできんじゃねぇかと思うのだが
これから半年以上も新型コロナウイルス対策を続けるっていうなら 安価に殺菌効果の高い電解水を大量に作れる装置を開発しても良さそうだが
あ スーパーとかに浄水を売る装置みたいのあるじゃん
あれの次亜塩素酸水バージョンとかできねぇかな
◇
先日OSCオリンピック行ったら次亜塩素酸水の消毒液が1,980円もしやがった
近所の薬局なら498円で買えたのに
OSCオリンピックなので決してぼったくっているわけではないと思う
多分新しくプラント増設して設備投資が嵩んだのかも
◇
「ご家庭で次亜塩素酸水」と称してハイターに炭酸水を入れる方法がネット上にあったんだが
純水の炭酸水なんか見たことないんだが
炭酸水って大抵何か入ってるよな
Ende;
哲学とは 「考える」ことである
考えてみて 答えがわからなくても良いのだが
これは科学的検証実験において 仮説に基づいた実験がうまくいかない場合でも 「この仮説と方法論では立証出来ない」ことがわかっただけでも意味があるのと同じことで 哲学的な思考実験においても仮説や検証によって答えが出なくても わからなくても その仮説と検証方法では答えが出せなかったことがわかっただけでも意味はある
砂漠の真ん中でトカゲを探して一匹も見つからなかったとしても 「こうした環境下におけるこの探し方ではトカゲを見つけることはできなかった」ことの証明にはなるからだ
だから 哲学的に論理検証をしてみて答えが見つからなかった場合であっても 一定の意味はあるのだ
だが 本当は論理的には何も「わかって」などいないにも関わらず わかったような感覚に陥って満足することは 哲学ではない
科学哲学者のカール:ライムンド:ポパーは 「プラトンの呪文」と称して権威に対する盲目性を厳しく批判している
真理を追求する上においては 間違った話は間違っていると明確に批判する精神が必要であり 「わからなくても 答えが出なくても良い」からといって非論理的な観念に基づく気分的満足に陥ることは哲学の逸脱(オカルト)でしかない
「わからなくても 答えが出なくても良い」というのは「わけのわからぬ話でも鵜呑みにしておいて良い」という意味ではない
科学や哲学というのは徹頭徹尾 論理的な「考え」に基づいて検証することが求められるのである これがゆらいではならない
ところがヒトの多くは論理的な「考え」を放棄して 目先の安心満足感に溺れ 論理的証明や根拠もないのに盲目的に信奉することで哲学を逸脱し 危険なオカルトにも簡単に騙され陥る先天的習性がある
なにが論理検証的な「考え」で 何が主観的観念に過ぎぬ「思い込み」なのかを区別認識するのは論理検証性の方であり 主観ではない
ところが ヒトの多くは哲学というものを主観的な満足や安心を求めるものであると勝手に勘違いしているため 簡単に哲学を逸脱してオカルト観念に陥り 論理的には意味のわからぬ話であっても簡単に鵜呑みにするようになる
ヒトという種の生物の認知能力には 先天的に重大な欠陥が存在するのである
ヒトの多くは「頭が良くなる話を聞けば必ず気分が良くなるものだ」という先入観があり 気分が良くなる話さえ鵜呑みにしておけば「自分は頭が良くなった」と勝手に勘違いして満足してしまう
マイケル:サンデルの講義を聞いて サンデルが提示する命題の中だけで考えることを促されていても それが思考停止への誘導であることにはほとんどのヒトは気づくことすら出来ない
論理思考が信条の電子工学者の松尾豊ですら「サンデル命題には倫理が含まれている」と勘違いしているのである
どういった経緯で野井良治が「主観が大事」などと言い出したのかは知らないが たとえノーベル賞受賞者であっても権威が間違えている場合には批判する精神が 哲学には必要不可欠である
他人と話を丸めて主観的に共感したり満足することが哲学ではないことを 断じて忘れてはならない
主観的な共感による満足や安心というのは 客観的論理検証性を不具にするものでもあり 科学や哲学の思考から逸脱する大きな要因なのである
フリードリヒ:ニーチェを読んで 原田まりるが主観的に「かっこいい」だの「センター性がある」などといった主観的感想をいくら多数他人と共有しても それがニーチェが哲学であることの論証には一切ならない
それは 亀山郁夫が興奮してドストエフスキーの読書感想をいくら饒舌に主張しても ドストエフスキーが哲学書であることの論証には全くならない
私が亀山郁夫のドストエフスキー論が哲学ではないことを指摘したことで 亀山は「哲学者」ではなく「ロシア文学者」と肩書が変わることになった
どんなに悩ましい文学であっても それはサンデル命題の「悩ましさ」と同じで 哲学としての論理検証とは全く別物なのである
虚無主義的指向に陥り不道徳な政策を正当化する輩の話が時折出てくるのだが
「多くのヒトがバカ」であることをどんなにたくさん立証しても 「全てのヒトがバカから脱することが絶対に不可能であることの論理証明」にはならないのである
どんなに多くのバカを集めてきても 全てのヒトのバカが治らないことの論理的証明にはならない
ヒトという種の生物が 遺伝的進化とは別の社会的進歩を遂げるとすれば それは「より多くのヒトがバカに陥らないようにすること」である
それによって多数決による民主主義も正常に機能するようになる
Ende;
サンデル命題というものを シンプルに説明しておこう
幾つかの選択肢しか存在しない命題で どの選択肢を選んでも 倫理や人間性の論証などには一切ならない命題である
マイケル:サンデルはこうした何の論証にもならない命題を提示しておいて「倫理の話」だと言い張るが
これはただのペテンに過ぎない
ヒトの多くは与えられた命題の中だけしか見えなくなる習性があり
たとえば 白と黒の服を着た人達がバスケットボールのパスをしている動画映像を見せられ 「黒い服の人が何回パスしたのかを数えて下さい」と言われると 途中から黒いクマの着ぐるみを着た人が闖入してきても 多くの人は全く気付かない
サンデルはこうしたヒトの先天的習性を利用して 何の役にも立たない命題を提示しておいて あたかも人間性や倫理の論証になるかのように不毛な議論を延々とさせ 人命に関わる命題で気分的に「悩ませ」ることで 何かを「考えた」かのような錯覚に陥れているに過ぎない
ヒトの多くは気分的に「悩む」ことと 論理的に「考える」ことの区別がつかない
そうした欠陥が先天的にあるため ヒトは簡単に騙されるのである
人命に関わる命題でありさえすれば なんでもかんでも倫理や人間性の論証になるわけではない
哲学というものは 「考える」ことである
ところが多くのヒトは気分的に「悩む」ことと 論理的に「考える」ことの区別が出来ないために 「考え」を逸脱して意味のない話で何かを「わかった」と勘違い錯覚してしまうことで気分的に満足し 思考停止に陥ることで 洗脳に誘導することも可能なのである
人間性や倫理の本質とは 個人が自律的な社会的責任判断選択を行うことである
そして 自律とは自発的選択の中にあり 他にはない
先天的本能習性によって ヒトという種の生物の人間性を証明できるかのような嘘が蔓延しているが
これはヒトの多くが「自己の先天的本能習性として人間性が組み込まれている」と思い込むことによって 自己の先天的優秀さを妄想して気分的に満足しているに過ぎない
実際に 先天的本能習性として人間性を立証することは構造原理的に不可能なのである
そもそも本能習性というものは 環境依存性に基づくその場限りの気分的行動バイアスに過ぎず 自律的判断にはならない
ある特定の環境下においてのみ 利他的行動などを必ずするとしても 環境が異なれば発揮されないのでは自律にならない
東電社内という環境下においては 社員の多くが原発の津波に対する脆弱性を放置していたため 福島第一原子力発電所の事故は発生したのである
何度も言うが 福島第一原子力発電所の事故は畑村洋太郎が明確に「人災」として認定しているのであり 決して「天災」などではない
自己の生活や健康と 社会的責任判断を量りにかけるような選択というのは 気分的には「悩ましい」選択ではあるが 倫理や人間性の観点からは選択の余地はないのである
主観的には家族を露頭に迷わせたくはないと「思う」気持ちもわからないではないが だからといって何もせずに放置しておいて良い話ではないのである
「思い」という主観的感覚の強度程度で行動選択が決定していては人間性も倫理もヘッタクレもあったものではない
臨床の最前線にいる医療関係者が 新型コロナウイルスに感染することを恐れて治療を放棄してしまえば 社会はトンデモナイことに陥るのである
倫理や人間性というものは 原発運転や医療だけに求められるものではなく あらゆる個人に求められるものであり その責任の程度は異なれ 逃げることは許されないものなのである
医療関係者でなくとも感染拡大を阻止するための行動選択は 全世界の国民全員に求められるものであって 「俺が感染したらどうせ助からねぇや」とばかりに自暴自棄にフィリピンパブをハシゴされては大迷惑なのである
社会分類上「哲学者」として扱われているとしても 実際には哲学を逸脱したペテンや洗脳に過ぎないものが大半である
それを指摘している「哲学者」が誰一人としていないことからも 現状の哲学界というものは哲学としての社会的役割を放棄した文芸や大衆迎合に過ぎないのである
哲学というものは「答えが出なくても良い」のだが ではなぜ「サンデル命題は答えの出しようがない」ことや「サンデル命題には倫理の本質が含まれていない」ことに多くのヒトが気付かないことや「なぜマイケル:サンデルには人気があるのか?」といったことにも考えを巡らすことが必要なのだが
ヒトの多くはマイケル:サンデルの洗脳手法に気付かず サンデルが提示した命題の中だけで答えを探してしまい 思考の自由度を簡単に奪われてしまうのである
こうしたペテンの手法は現状の哲学界において蔓延しており 昨今話題のマルクス:ガブリエルも「世界は存在しない」だの「時間は無限に分割すればなくなる」などといった論理的根拠も示されない実証不能の観念をひけらかして大衆人気を集めているのである
哲学は「役に立たなくても良い」のだが
哲学を逸脱した「役に立たないばかりか むしろ危険で有害な実証不能の観念に基づく洗脳に多くのヒトが気付かなければ バカのままでも良い」わけではない
バカは迷惑である
自律的な社会的責任判断が出来ない人間性の欠如した迷惑な奴のことを「バカ」と言うからである
それは学力偏差値とは何の相関もなく 学習障害でも「何が人間として正しい行動であるかを判断出来る」バカではない人はたくさんいるし
むしろ学力偏差値が高いバカの群れによって 社会は破綻に導かれているのである
Ende;
「N95」などの医療用高性能マスクと異なり そこいらへんで60枚入400円くらいで売っている普通のマスクでは エアロゾル化したウイルスを防ぐことはできないのだが
ある程度の大きさの「ウイルスを含む飛沫」に対しては一定の効果はある
ところが 一般的な不織布マスクというのは密閉度が低いため 不織布フィルターの本来の能力を充分に発揮できていないという
ある実験では 粉塵の6〜7割程度しか捉えることができず 3〜4割はマスクの周囲からダダ漏れしてしまっているそうだ
従って マスクの周囲の密着度を向上させてやることで より高いフィルター効果を得ることが出来ると考えられる
最も単純なのは マスクの周囲を手で抑えるという方法である
しかしこの方法ではマスクを手で触らなければならず 手指が汚染されている可能性がある場合には逆効果になりかねない上 そもそも常に両手を顔に当てておかなければならず 他の何も出来なくなってしまう
そこで マスクの上からマスク周囲を抑え込むカバーのようなものを考えてみた
Fig:
これはPP製クリアファイルを丸めてホチキスでとめたものに ゴム紐の先端に結び目をつけて これまたホチキスでとめただけの非常に簡単な品物である
新型コロナウイルスに対してどの程度効果があるのかは不明なのだが 少なくとも花粉(30μm)に対しては効果絶大で これさえしておけばスギ花粉がピークの時期でも鼻水やクシャミの症状はほとんど抑えることが出来る
もちろん眼は猛烈に痒いのだが 気道への花粉の侵入は大幅に抑制することが出来ていると思う
インフルエンザウイルスやコロナウイルスというのは 基本的に気道粘膜細胞に取り憑くものなので 呼吸気の清浄化が有効な対策であることに違いはないはずである
写真では白いテープ状のものが内側に貼ってあるが 気温の低い時期には内部に結露してポタポタと水滴が汚らしいので 窓用の結露吸水テープが貼ってあるのだ
◇追記:このマスクカバーは マスク以外のティッシュやハンカチだけでも顔に密着させることが出来るので 裁縫が苦手な人でも簡便に自作することが出来るのではないか
ただ どんな素材が最も有効なのかがわからない
Ende;
今回の新型コロナウイルス感染症対策というのは どうも半年以上は続けないとダメそうなのだ
となると スーパーやコンビニでのレジ係の従業員には 頭からスッポリかぶるポリ袋に浄化された空気をホースなどで送り込むような対策が必要なのではないか
「お店の雰囲気が悪くなるのではないか」と経営者は思うかもしれないが 客の立場からすると 雰囲気云々言っている場合ではないので あらゆる防疫措置を採るべきではないかと思うのだ
そもそもスーパーのレジ前というのは 陳列棚の間に列をつくるようになっているのが一般的で レジ前に会計待ちの客が列を作ってしまうと商品棚へのアクセスが悪くなってしまうという欠陥がある
レジ前には会計待ち列専用のレーンを作り 一定間隔を空けて並ぶようにしておくようにすべきではないか
そうなると陳列する商品棚を削減しなければならないが 文具など販売数の少ない商品から削減してスペースを確保すれば良いのではないか
飲食店の売上が著しく落ち込んでいる現状スーパーの売上は高く この状態は新型コロナウイルス感染症が沈静化するまで下がるとは考え難い
単なる売上だけではなく 企業としての社会的役割として防疫対策を徹底する義務があるのではないだろうか
企業であっても利己的利益だけを追求していれば社会を破綻へと導いてしまうことは同じことであり
企業というのは個人同様に社会安全性や持続可能性といった基準で運営すべきものだと言える
マスコミが囲み取材で密集することを自発的に改善することが出来なかったのは 今まで慣習的に続けてきたことに疑問を持たない頭の悪さが原因である
新型コロナウイルスの感染爆発が危惧されている現在の状況下では 従来の慣習的な「常識」は一回全て棄てて 徹底した防疫対策に基づいた新しい「常識」を構築すべきである
京都大学iPS細胞研究室では現在閉鎖されているという
別に感染者が出たわけではないらしいのだが 研究室はどうしても密閉閉鎖空間であるため 自主的に自粛しているらしい
食料品店というのは社会インフラとしての側面があり 従業員に感染者が出たからといって休止されると社会的混乱を招くものでもある
治療薬やワクチンの開発が軌道に乗るまでは あらゆる手段を駆使して継続営業することを優先すべきことが 食料品店としての社会的役割だと考えるべきであろう
Ende;
マスコミは密集囲み取材をやめようとしないわ
被取材者の周囲に集まんじゃねぇよ
「我も我も」でよってたかってコメント録ろうとするあさましさを自覚してねぇよ
都知事だったら都の職員が規制線張って3m以内にマスコミが近寄らないようにすべきだろ
音声が録れないっつうんなら都知事の音声はネット配信すればいいし
あれこれ工夫をしろよ
学力偏差値が高いだけで何の工夫もできねぇバカしかいねぇわ
言っていることとやっていることがチグハグ過ぎるだろ
Ende;