[あらすじ] 28日、台風の接近する中、映画『性別が、ない!」の公開初日トークショーに行ってきた。
昨日、うさきこうさんのことを新井祥さんのアシスタントと書いたが、
今は漫画家デビューしてアシスタントはしていないようで、
「パートナー」と書くべきだった。
新井は最新刊の『学校では教えてくれないセクマイの話』の中で
照れながら紹介している。
さて
映画の終盤に、そこまでは無かった監督の質問の声が入る。
声の方を見て、こうくんが口早に答える。
「思ってました、思ってました。センシティブなところがあることは分かってましたし、
取材によって、浮き沈みのある日々になるとは思ってました。」
新井は、元女性で今は中性である自分が、ゲイであるこうくんと付き合うことに
ひどく戸惑う。
こうくんがゲイである以上、
自分もゲイにならなければいけないのではないか。
つまり男性にならなければいけないのではないか。
自分は、相手の性別は男性であれ女性であれ中性であれ、気にしない。
そういう人のことはパンセクシュアルと呼ぶ。
と言っているのに、
パートナーがゲイだから、自分も男性でありゲイであらねばならないのではないか、と悩むわけだ。
私は、見ていてとても引っ掛かった。
この辺りの表現がもととなって、二人は「二度と会わないレベル」の喧嘩をする。
新井が「死のうと思いました。」と語るシーンが予告編で使われていて、
私は心配というか絶望というか不安というかなんというか
ひとごとなのにずいぶん真っ白になった。
映画の中で、こうくんは語る。
男性だと思って付き合っていた人がFTMだと分かったら別れよう、という
悩みの無い人はいる。
自分は先生(新井)のことを男だと思っていたが、作品を読んで性分化疾患ということを知った。
ここのところがとても重要なのだが、こうくんは思いの強さからか、速い。
メモが追いつかなかった。
とにかく、こうくんは乗り越えた。
自分がゲイである、対象は男性である。という枠組みを乗り越えた。
私は、自分自身の経験を思い起こした。
私の性自認は、女性でも男性でもない。
女性として見られることはすごくイヤだが、
かと言って、男性になりたいとか男性のように振る舞いたいという気持ちは無い。
以前付き合っていた女性は、私に時々、
「す~さんは男だ!」と言ったり、「す~さんは子どもを産むといい」と言ったりした。
私としては、どっちも違う。
どうして私をそのまま受け入れてくれないのか。
それが無理なら、一緒に暮らすことも難しい。
しかし、今回の映画を見て、少し考えが変わった。
自分の性自認と、パートナーが自分をどう見ているかが食い違っても、
いいじゃないか。
と、映画直後は感じたのだ。
こうくんがサインをしてくれている間に、私はそんな映画の感想を述べた。
しかしもうちょっと考えると、
食い違いが有れば、やはり食い違いは食い違いであり、大きないさかいのもとになる。
お二人は、それを越えてきたのだ。
当時のパートナーと私は、その食い違いを乗り越えられなかったのだろう。
乗り越えると言うのは、相手がどう見ているかということと、自分の性自認を
一致させる、という意味ではない。
食い違っているなら食い違っているで、お互いの認識を受けとめ合えれば良いのだろう、と思う。
悩まずに「無理」と片付けてしまうこともできるが、そこで終わり。発展性は無い。
相手の性別を限定するものとか、ゲイとはこういうものであるとか、
自分はこういう性別で対象は誰とか、
そういったものを作り出しているものは何なのか。
しっかり対面すると、そういう課題が次第にクリアになってくるのだと思う。
昨日、うさきこうさんのことを新井祥さんのアシスタントと書いたが、
今は漫画家デビューしてアシスタントはしていないようで、
「パートナー」と書くべきだった。
新井は最新刊の『学校では教えてくれないセクマイの話』の中で
照れながら紹介している。
さて
映画の終盤に、そこまでは無かった監督の質問の声が入る。
声の方を見て、こうくんが口早に答える。
「思ってました、思ってました。センシティブなところがあることは分かってましたし、
取材によって、浮き沈みのある日々になるとは思ってました。」
新井は、元女性で今は中性である自分が、ゲイであるこうくんと付き合うことに
ひどく戸惑う。
こうくんがゲイである以上、
自分もゲイにならなければいけないのではないか。
つまり男性にならなければいけないのではないか。
自分は、相手の性別は男性であれ女性であれ中性であれ、気にしない。
そういう人のことはパンセクシュアルと呼ぶ。
と言っているのに、
パートナーがゲイだから、自分も男性でありゲイであらねばならないのではないか、と悩むわけだ。
私は、見ていてとても引っ掛かった。
この辺りの表現がもととなって、二人は「二度と会わないレベル」の喧嘩をする。
新井が「死のうと思いました。」と語るシーンが予告編で使われていて、
私は心配というか絶望というか不安というかなんというか
ひとごとなのにずいぶん真っ白になった。
映画の中で、こうくんは語る。
男性だと思って付き合っていた人がFTMだと分かったら別れよう、という
悩みの無い人はいる。
自分は先生(新井)のことを男だと思っていたが、作品を読んで性分化疾患ということを知った。
ここのところがとても重要なのだが、こうくんは思いの強さからか、速い。
メモが追いつかなかった。
とにかく、こうくんは乗り越えた。
自分がゲイである、対象は男性である。という枠組みを乗り越えた。
私は、自分自身の経験を思い起こした。
私の性自認は、女性でも男性でもない。
女性として見られることはすごくイヤだが、
かと言って、男性になりたいとか男性のように振る舞いたいという気持ちは無い。
以前付き合っていた女性は、私に時々、
「す~さんは男だ!」と言ったり、「す~さんは子どもを産むといい」と言ったりした。
私としては、どっちも違う。
どうして私をそのまま受け入れてくれないのか。
それが無理なら、一緒に暮らすことも難しい。
しかし、今回の映画を見て、少し考えが変わった。
自分の性自認と、パートナーが自分をどう見ているかが食い違っても、
いいじゃないか。
と、映画直後は感じたのだ。
こうくんがサインをしてくれている間に、私はそんな映画の感想を述べた。
しかしもうちょっと考えると、
食い違いが有れば、やはり食い違いは食い違いであり、大きないさかいのもとになる。
お二人は、それを越えてきたのだ。
当時のパートナーと私は、その食い違いを乗り越えられなかったのだろう。
乗り越えると言うのは、相手がどう見ているかということと、自分の性自認を
一致させる、という意味ではない。
食い違っているなら食い違っているで、お互いの認識を受けとめ合えれば良いのだろう、と思う。
悩まずに「無理」と片付けてしまうこともできるが、そこで終わり。発展性は無い。
相手の性別を限定するものとか、ゲイとはこういうものであるとか、
自分はこういう性別で対象は誰とか、
そういったものを作り出しているものは何なのか。
しっかり対面すると、そういう課題が次第にクリアになってくるのだと思う。
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