ひとりごと
12月18日の、バガヴァッド・ギーターの3回講義の最終回までに
全編を原語のサンスクリットで読んでおきたい。
と考えて、着手したのが9月15日で、3ヶ月しか無い。
一つ一つの語彙の解説(意味と性・数・格)付きの日本語訳の有るサイトを見つけた。
http://note.sitarama.jp/category/%e3%83%90%e3%82%ac%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%83%83%e3%83%89%e3%83%bb%e3%82%ae%e3%83%bc%e3%82%bf%e3%83%bc/
大助かり!
ここを読めばOKということにして読んでいるが、
今日やっと第5章を読み終えたところ。
全部で12章有る。ギリギリ間に合うか。
と思ったら、そのサイトには第10章までしか無いことに気付く。
さらに、12章というのは勘違いで、本当は18章まで有ることに気付く。
あきらーめーましたー
かもめのこころ。
まあ、探せば逐語解説も見つかるだろうけれど、今のペースではどうにもならない。
ここは原語で読むことはすっぱり諦めて、
訳書をひととおり読むことを優先させるべきだろう。
とは言え、
原文を読んでいると、クリシュナの教えの言葉がひときわ強く響く。
なぜだろうか。
原語の力か、韻文の力か。
それを総合してサンスクリットの力と呼ぶべきか。
サンスクリットとは、正しい言語という意味だという。
真理を伝えるための言葉だから、狂いは許されない。
話し言葉なんぞ、どんどんずれてゆく。
現代の日本なら、数年単位で言葉は変わってゆく。
庶民の使う言葉なら、それは宿命だと思う。
いくら「ら抜き言葉はけしからん」なんて言っても、
大きな流れには逆らえない。
それでいいのだ。
しかし、サンスクリットはワケが違う。
何千年だか知らないが、ずーっと同じ形で
謡い継がれている。
インドすげえ
※
जातस्य हि ध्रुवो मृत्युर् ध्रुवं जन्म मृतस्य च ।
तस्मादपरिहार्येऽर्थे न त्वं शोचितुमर्हसि ॥ २७ ॥
jātasya hi dhruvo mṛtyur dhruvaM janma mṛtasya ca |
tasmādaparihārye'rthe na tvaM śocitumarhasi || 2-27 ||
なぜなら、生まれた者にとって、死は必定であり、また、死んだ者にとって(再)生は必定である。
それゆえ、不可避のことのためにあなたは嘆くべきではない。
とか
感覚器官の対象を思念する人には、執着が生じる。
執着から欲望、欲望から怒りが生じる。
怒りから迷妄、迷妄から記憶の混乱、
記憶の混乱から知性の滅亡、知性の滅亡から人は滅びる。
一方、愛憎を離れた感官をもって対象に向かう、
自己を制した人は、平安に達する。
平安において、彼にとってのすべての苦しみに消滅が起こる。
なぜなら、静穏な心において、知性はすみやかに確立するから。
専心しない人に知性はなく、瞑想は無い。
瞑想しない人に平安はない。平安でない人にどうして幸福が有ろうか。
とかなんとか、
クリシュナはズバズバ言う。
※
何のためにこんなにズバズバ言っているかと言うと、
アルジュナという戦士が、今もう戦場にいるという状況なのに、
てんで腰抜けだからなのだ。
クリシュナがずいぶん励ましても、
「でも~」
「だって~」
「そう言うけど~」
「じゃあどっちがほんとに大事なのさ~」
とかなんとかグズグズ言って、ちっとも奮い立たないのだ。
これが、延々と18章まで続くわけか…。
と、グズグズ言っている暇に訳書を読んでしまおう。
何、18章と言っても韻文であり、短いもんなのだ。
はいはい
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