[あらすじ] LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスの頭文字を取ったもので、
性的指向や性自認によるマイノリティを総称するものだ。
中学生の頃、理解者が欲しかった。
好きなひとに思いが通じることはもちろん願っていたが、それよりも、
友達なり年上の人なりの中に、自分を受け入れてくれる人がいて欲しかった。
アライという言葉がある。
まだあまり知られてはいないようだが、
性的マイノリティに理解があるひとのことを言う。
英語のallyの意味は、1.同盟国(第一・第二次世界大戦での)連合軍
2.協力者、味方。
ストレート・アライなんて言い方もする。
マイノリティは、マイノリティ:少数派というくらいなもので、
身の周りのほとんどは、自分と違う人たちに囲まれて暮らしている。
この、孤立感がまずこたえる。
そこに、ぽつ、ぽつとでも、理解者がいると、かなり安心できる。
とにかく、毎日24時間、常に周囲との違いを感じながら生活している。
日常の会話や、ちょいとトイレに行く時や、名前を呼ばれる時や、
電話に出る時や、書類に書き込む時や、店で買物する時や、
あげだしたらキリが無い。
そういうことを理解することが、理解するということなのだ。
「わたしは同性愛とか気にしないよ」という人は、いる。
そのとおり。そこに同性愛者がいても、いちいち気になるような事は、
実は無い。
それは、その人が同性愛者だと知らなくても知っても同じことだ。
理解するというのは、ともにいて痛みを味わう、ということだ。
どんな時に不便や痛みを感じているのかに気付くことは、
かなり鮮烈な体験だ。
目の見えない人の感覚を味わうために、目隠しをして誘導してもらう体験法や、
真っ暗な部屋で過ごすダイアログ・イン・ザ・ダークというワークショップや、
難聴疑似体験プログラムや、車椅子に乗ってみるといった体験法などもある。
どれも、想像していた以上あるいは思いがけない事柄に満ちている。
性的マイノリティの疑似体験がどうすればできるか考えるとちょっとおもしろいが、
ひとつには、プライド・パレードを一緒に歩く、という方法もある。
そちら側の人間として衆目にさらされて、どうか。
私が、日本で初めてのゲイ・パレードの実行委員をやった時、
私は発着点の公園で待機する係でパレードを歩けなかった。
その代わりというのでもないが、古い女友達がカップルでパレードに参加してくれた。
沿道から手を振ってくれる人、チラシを受け取ってくれる人、
「これは何?」と聞いてくる人、奇異な物を見る目、など、
様々な反応を見たそうだ。
『IS~男でも女でもない性~』という漫画がある。
インターセックス(性分化疾患により、性別がはっきりしない)を
丁寧に取材して描いている。
毎回、登場人物のうち誰か一人がフォーカスされるのだが、おもしろいのは、
インターセックス本人だけではなく、その周辺のひとを主人公にして、
インターセックス周辺の、家族や友達や先生の視点も取り上げているのだ。
マイノリティと深く関わる中での戸惑いや発見。
中でも、本人がいかに日々痛みを抱えて暮らしているかを知る、
知るというより、周囲の人も痛みを感じ、それを通じて理解が深まることが
描かれている。
好奇の目にさらされ、社会の中の生きづらさを感じ、日々葛藤を抱え、
必ずしも本人のそばにはい続けられず、苦しむ。
「おかしい、きもちわるい」と思わないだけでは、無関心と大差無い。
関わり、痛みを味わい、ともに乗り越えたり乗り越えられなかったりするのが、
アライだ。
性的指向や性自認によるマイノリティを総称するものだ。
中学生の頃、理解者が欲しかった。
好きなひとに思いが通じることはもちろん願っていたが、それよりも、
友達なり年上の人なりの中に、自分を受け入れてくれる人がいて欲しかった。
アライという言葉がある。
まだあまり知られてはいないようだが、
性的マイノリティに理解があるひとのことを言う。
英語のallyの意味は、1.同盟国(第一・第二次世界大戦での)連合軍
2.協力者、味方。
ストレート・アライなんて言い方もする。
マイノリティは、マイノリティ:少数派というくらいなもので、
身の周りのほとんどは、自分と違う人たちに囲まれて暮らしている。
この、孤立感がまずこたえる。
そこに、ぽつ、ぽつとでも、理解者がいると、かなり安心できる。
とにかく、毎日24時間、常に周囲との違いを感じながら生活している。
日常の会話や、ちょいとトイレに行く時や、名前を呼ばれる時や、
電話に出る時や、書類に書き込む時や、店で買物する時や、
あげだしたらキリが無い。
そういうことを理解することが、理解するということなのだ。
「わたしは同性愛とか気にしないよ」という人は、いる。
そのとおり。そこに同性愛者がいても、いちいち気になるような事は、
実は無い。
それは、その人が同性愛者だと知らなくても知っても同じことだ。
理解するというのは、ともにいて痛みを味わう、ということだ。
どんな時に不便や痛みを感じているのかに気付くことは、
かなり鮮烈な体験だ。
目の見えない人の感覚を味わうために、目隠しをして誘導してもらう体験法や、
真っ暗な部屋で過ごすダイアログ・イン・ザ・ダークというワークショップや、
難聴疑似体験プログラムや、車椅子に乗ってみるといった体験法などもある。
どれも、想像していた以上あるいは思いがけない事柄に満ちている。
性的マイノリティの疑似体験がどうすればできるか考えるとちょっとおもしろいが、
ひとつには、プライド・パレードを一緒に歩く、という方法もある。
そちら側の人間として衆目にさらされて、どうか。
私が、日本で初めてのゲイ・パレードの実行委員をやった時、
私は発着点の公園で待機する係でパレードを歩けなかった。
その代わりというのでもないが、古い女友達がカップルでパレードに参加してくれた。
沿道から手を振ってくれる人、チラシを受け取ってくれる人、
「これは何?」と聞いてくる人、奇異な物を見る目、など、
様々な反応を見たそうだ。
『IS~男でも女でもない性~』という漫画がある。
インターセックス(性分化疾患により、性別がはっきりしない)を
丁寧に取材して描いている。
毎回、登場人物のうち誰か一人がフォーカスされるのだが、おもしろいのは、
インターセックス本人だけではなく、その周辺のひとを主人公にして、
インターセックス周辺の、家族や友達や先生の視点も取り上げているのだ。
マイノリティと深く関わる中での戸惑いや発見。
中でも、本人がいかに日々痛みを抱えて暮らしているかを知る、
知るというより、周囲の人も痛みを感じ、それを通じて理解が深まることが
描かれている。
好奇の目にさらされ、社会の中の生きづらさを感じ、日々葛藤を抱え、
必ずしも本人のそばにはい続けられず、苦しむ。
「おかしい、きもちわるい」と思わないだけでは、無関心と大差無い。
関わり、痛みを味わい、ともに乗り越えたり乗り越えられなかったりするのが、
アライだ。
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