青森の旅の報告として、第一弾はなんと
秋田県の物を挙げる。
南東の三戸の方から田子町を経て、国道104号つまり秋田街道を行くと
十和田湖に出る。
十和田湖はながく県境争いがあったそうだが、
秋田街道で来たのだもの、秋田県の部分に着く。
湖岸の道にぶつかった交差点の名前は和井内。
左手には何か養魚場がある。
田子でにんにく料理を食べようと思っていたが品切れだったので、
私は腹ペコでここにたどり着いた。
前日は吹雪いたりしたが、この日はそこそこの天気なので、
営業している店も見つかるかもしれない。
右に行けば青森県に入って休屋という所に何軒も店がある。
十和田湖名物のバラ焼き定食が食えるだろう。
が、昨日通ったのでくやしいからもう行きたくない。
左へ。
ブナの木が高い。
見事な森だ。
十和田湖はカルデラ湖で、魚が棲まなかったが今は棲むと言うが、
これだけ豊かな森に囲まれているのなら、
水も豊かになって魚も棲みやすくなってきたのだろう。
樹齢はどれくらいだろうか。
魚が棲むようになったのはいつ頃だろうか。
さらに行くと、学校カフェという看板があった。
もうなんでもいい。カフェ飯程度でもいい。
と思って入ったら、ヒメマス料理があるという。
焼いたり揚げたり、いろんな料理があったが、
ここはなるべく生で食べたい。
漬け丼を注文した。
メニューの冊子に、パンフレットが入っている。
読んで、胸が熱くなった。
もともと魚の棲まなかった十和田湖にヒメマスがいるのは、
和井内貞行(わいないさだゆき)という人の功績なのだ。
さっきの交差点の名前はさては、この人から取ったのだろう。
それまで、何人もの人が十和田湖への魚の放流を試みてきたが、
失敗に終わっている。
貞行はまず、コイの放流に取り組んだようだ。
当時は十輪田鉱山という銀山があり、そこで働く人々の食糧となる
見込みがあった。
交差点の横にあった養魚場のところに、当時の孵化場も遺っているそうだ。
青森や日光から卵を仕入れるが、うまくいかない。
鉱山は閉山して、経営していた旅館もやめざるを得なくなり、
生活は困窮する。
その頃たまたま聞いて、北海道の支笏湖から卵を取り寄せたところ、
孵化に成功した。
三万の稚魚を十和田湖に放流した。
この稚魚たちが成長してまた姿を現すまで、さらに3年かかる。
明治38年(1905)、ついに成魚が湖で見られるようになった。
不作の年には、貞行は湖畔の人々にヒメマスを捕って食べるように言う。
苦労続きであった妻はしかし病に倒れ、46歳で亡くなる。
私は今ちょうど46歳だが、死ぬほどの苦労もしていない。
そんなことを思っていたら、お膳が来た。
付け合せにはコゴミの胡麻和えやばっけ味噌(ふき味噌)やいぶりがっこ、
味噌汁には蕗も入っている。
ウェイトレスのおばちゃんが膳を下げにやってくる。
「完食ありがとうございます」
ふっふ、私が食った後の器はきれいなのだ。
「十和田のヒメマスは、貞行さんが養殖に成功したもので…」
と説明してくれる。
読みました。
「涙が出てきます。おかげで今の私たちの十和田湖での生活があるんです。」
今年のヒメマス漁は4月23日に始まったばかりだそうだ。
「私みたいに体格が良くて、今のお客さまはラッキーです。」
と、おばちゃんは言う。
脂が乗ってトロトロで、うまい。
あ、ヒメマスの話よ。
私は今まで好きな魚はハマチと言ってきたが、
今後は十和田のヒメマスと言おうかと思いながら食った。
学校カフェには資料室もあり、
そこには放流の許可を求める申請書や、
妻カツが使っていた櫛かんざしなども展示されていて、
また胸が熱くなる。
秋田県の物を挙げる。
南東の三戸の方から田子町を経て、国道104号つまり秋田街道を行くと
十和田湖に出る。
十和田湖はながく県境争いがあったそうだが、
秋田街道で来たのだもの、秋田県の部分に着く。
湖岸の道にぶつかった交差点の名前は和井内。
左手には何か養魚場がある。
田子でにんにく料理を食べようと思っていたが品切れだったので、
私は腹ペコでここにたどり着いた。
前日は吹雪いたりしたが、この日はそこそこの天気なので、
営業している店も見つかるかもしれない。
右に行けば青森県に入って休屋という所に何軒も店がある。
十和田湖名物のバラ焼き定食が食えるだろう。
が、昨日通ったのでくやしいからもう行きたくない。
左へ。
ブナの木が高い。
見事な森だ。
十和田湖はカルデラ湖で、魚が棲まなかったが今は棲むと言うが、
これだけ豊かな森に囲まれているのなら、
水も豊かになって魚も棲みやすくなってきたのだろう。
樹齢はどれくらいだろうか。
魚が棲むようになったのはいつ頃だろうか。
さらに行くと、学校カフェという看板があった。
もうなんでもいい。カフェ飯程度でもいい。
と思って入ったら、ヒメマス料理があるという。
焼いたり揚げたり、いろんな料理があったが、
ここはなるべく生で食べたい。
漬け丼を注文した。
メニューの冊子に、パンフレットが入っている。
読んで、胸が熱くなった。
もともと魚の棲まなかった十和田湖にヒメマスがいるのは、
和井内貞行(わいないさだゆき)という人の功績なのだ。
さっきの交差点の名前はさては、この人から取ったのだろう。
それまで、何人もの人が十和田湖への魚の放流を試みてきたが、
失敗に終わっている。
貞行はまず、コイの放流に取り組んだようだ。
当時は十輪田鉱山という銀山があり、そこで働く人々の食糧となる
見込みがあった。
交差点の横にあった養魚場のところに、当時の孵化場も遺っているそうだ。
青森や日光から卵を仕入れるが、うまくいかない。
鉱山は閉山して、経営していた旅館もやめざるを得なくなり、
生活は困窮する。
その頃たまたま聞いて、北海道の支笏湖から卵を取り寄せたところ、
孵化に成功した。
三万の稚魚を十和田湖に放流した。
この稚魚たちが成長してまた姿を現すまで、さらに3年かかる。
明治38年(1905)、ついに成魚が湖で見られるようになった。
不作の年には、貞行は湖畔の人々にヒメマスを捕って食べるように言う。
苦労続きであった妻はしかし病に倒れ、46歳で亡くなる。
私は今ちょうど46歳だが、死ぬほどの苦労もしていない。
そんなことを思っていたら、お膳が来た。
付け合せにはコゴミの胡麻和えやばっけ味噌(ふき味噌)やいぶりがっこ、
味噌汁には蕗も入っている。
ウェイトレスのおばちゃんが膳を下げにやってくる。
「完食ありがとうございます」
ふっふ、私が食った後の器はきれいなのだ。
「十和田のヒメマスは、貞行さんが養殖に成功したもので…」
と説明してくれる。
読みました。
「涙が出てきます。おかげで今の私たちの十和田湖での生活があるんです。」
今年のヒメマス漁は4月23日に始まったばかりだそうだ。
「私みたいに体格が良くて、今のお客さまはラッキーです。」
と、おばちゃんは言う。
脂が乗ってトロトロで、うまい。
あ、ヒメマスの話よ。
私は今まで好きな魚はハマチと言ってきたが、
今後は十和田のヒメマスと言おうかと思いながら食った。
学校カフェには資料室もあり、
そこには放流の許可を求める申請書や、
妻カツが使っていた櫛かんざしなども展示されていて、
また胸が熱くなる。
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