昨日のつづきをもう少し書こうかな。
なんせ、「名前、年齢、性別」といった、
「自分は誰か」ということの根幹の部分で違和感があるので、
なかなか、自分というものが確立しにくかった、という話だった。
そう言う割には、私を少しでも、ブログだけででも、知っている人は
あんたはあんたらしいじゃないか!と言うと思う。
けれどどうも私は、「わたしはこういう者です」と言うのが苦手だ。
音楽をずっとやってきたけれど、どうしても、
それだけをとことんやって、たとえばそれで飯を食う、というような
ふうにならないのも、
そんなことが原因のひとつになっている、と思っている。
※
ほぼ四六時中、違和感はつきまとう。
他の人、他のみんなとは、違う。
みんなが得ているものを、自分は得られない。
みんなのような生活は、自分はできない。
みんなのしている話に、自分は入れない。
ひとの一生を見たときに、
親から生まれて、育てられて、成長して、大人になったら、
今度は自分が親として子を生み育てる。
子どもを生み育ててこそ、人として一人前。
という価値観は、今の世になっても案外根強く、ある。
しかし、社会通念としてあるだけでなく、自分の中にもそういう欲求がある
というのもどうやらたしかなようだ。
わりにガキの頃から、好きな女性ができれば、そのひとの子を見たい、と思った。
しかし、だったら自分が関わってはいけない、という思いも
そこにすぐに加わってくる。
自分は女性と恋愛はできても、生殖はできないからね。
私の親は、うるさくものを言う人ではないので、わりに気にすることなく
過ごしてこられた。
しかしそんな親でも、稀にぽろりと、孫が見たい、というようなことを
口走ることがある。
親に生んでもらって育ててもらった恩というのは、
親に対して返すものではなく、自分が親になって子を育てることによって
社会全体に対して返すものだ、と考えている。
私が出身校のオーケストラの指導を続けたのも、同じ理由による。
オーケストラはいい。恩返しはできる。
私でも、音楽については、何人もの若い人を育てることができたと思っている。
しかし、生殖できない自分は、親と社会に堂々と恩返しができない。
あらゆる場面で、そのことは、自分は半人前だと思わせる。
つづく
なんせ、「名前、年齢、性別」といった、
「自分は誰か」ということの根幹の部分で違和感があるので、
なかなか、自分というものが確立しにくかった、という話だった。
そう言う割には、私を少しでも、ブログだけででも、知っている人は
あんたはあんたらしいじゃないか!と言うと思う。
けれどどうも私は、「わたしはこういう者です」と言うのが苦手だ。
音楽をずっとやってきたけれど、どうしても、
それだけをとことんやって、たとえばそれで飯を食う、というような
ふうにならないのも、
そんなことが原因のひとつになっている、と思っている。
※
ほぼ四六時中、違和感はつきまとう。
他の人、他のみんなとは、違う。
みんなが得ているものを、自分は得られない。
みんなのような生活は、自分はできない。
みんなのしている話に、自分は入れない。
ひとの一生を見たときに、
親から生まれて、育てられて、成長して、大人になったら、
今度は自分が親として子を生み育てる。
子どもを生み育ててこそ、人として一人前。
という価値観は、今の世になっても案外根強く、ある。
しかし、社会通念としてあるだけでなく、自分の中にもそういう欲求がある
というのもどうやらたしかなようだ。
わりにガキの頃から、好きな女性ができれば、そのひとの子を見たい、と思った。
しかし、だったら自分が関わってはいけない、という思いも
そこにすぐに加わってくる。
自分は女性と恋愛はできても、生殖はできないからね。
私の親は、うるさくものを言う人ではないので、わりに気にすることなく
過ごしてこられた。
しかしそんな親でも、稀にぽろりと、孫が見たい、というようなことを
口走ることがある。
親に生んでもらって育ててもらった恩というのは、
親に対して返すものではなく、自分が親になって子を育てることによって
社会全体に対して返すものだ、と考えている。
私が出身校のオーケストラの指導を続けたのも、同じ理由による。
オーケストラはいい。恩返しはできる。
私でも、音楽については、何人もの若い人を育てることができたと思っている。
しかし、生殖できない自分は、親と社会に堂々と恩返しができない。
あらゆる場面で、そのことは、自分は半人前だと思わせる。
つづく
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