犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
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産まない性

2014年06月24日 | LGB&T
昨日のつづきをもう少し書こうかな。

なんせ、「名前、年齢、性別」といった、
「自分は誰か」ということの根幹の部分で違和感があるので、
なかなか、自分というものが確立しにくかった、という話だった。
そう言う割には、私を少しでも、ブログだけででも、知っている人は
あんたはあんたらしいじゃないか!と言うと思う。

けれどどうも私は、「わたしはこういう者です」と言うのが苦手だ。

音楽をずっとやってきたけれど、どうしても、
それだけをとことんやって、たとえばそれで飯を食う、というような
ふうにならないのも、
そんなことが原因のひとつになっている、と思っている。



ほぼ四六時中、違和感はつきまとう。
他の人、他のみんなとは、違う。
みんなが得ているものを、自分は得られない。
みんなのような生活は、自分はできない。
みんなのしている話に、自分は入れない。

ひとの一生を見たときに、
親から生まれて、育てられて、成長して、大人になったら、
今度は自分が親として子を生み育てる。
子どもを生み育ててこそ、人として一人前。
という価値観は、今の世になっても案外根強く、ある。

しかし、社会通念としてあるだけでなく、自分の中にもそういう欲求がある
というのもどうやらたしかなようだ。

わりにガキの頃から、好きな女性ができれば、そのひとの子を見たい、と思った。
しかし、だったら自分が関わってはいけない、という思いも
そこにすぐに加わってくる。
自分は女性と恋愛はできても、生殖はできないからね。

私の親は、うるさくものを言う人ではないので、わりに気にすることなく
過ごしてこられた。
しかしそんな親でも、稀にぽろりと、孫が見たい、というようなことを
口走ることがある。
親に生んでもらって育ててもらった恩というのは、
親に対して返すものではなく、自分が親になって子を育てることによって
社会全体に対して返すものだ、と考えている。

私が出身校のオーケストラの指導を続けたのも、同じ理由による。
オーケストラはいい。恩返しはできる。
私でも、音楽については、何人もの若い人を育てることができたと思っている。
しかし、生殖できない自分は、親と社会に堂々と恩返しができない。

あらゆる場面で、そのことは、自分は半人前だと思わせる。

つづく

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