コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

月心寺(滋賀県大津市大谷)~旧中山道を歩く(23回目)

2013-11-16 08:02:39 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<草津宿(駅)~三条大橋
2013年11月4日 23回目

月心寺

滋賀県大津市大谷

京阪電鉄京津線の大谷駅から西へ歩いてすぐのところにある寺院。歌川広重(うたがわひろしげ)が描いた東海道五十三次にある大津の錦絵には、溢れ出る走井(はしりい)の水のそばの茶店で旅人が休息している姿が見られますが、この茶店が現在の月心寺といわれている。滋賀県観光情報より

cosmophantom


大津算盤の始祖・片岡庄兵衛~旧中山道を歩く(23回目)

2013-11-16 08:01:24 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<草津宿(駅)~三条大橋
2013年11月4日 23回目

大津算盤の始祖・片岡庄兵衛

 

江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は慶長17年(1612年)片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝える。同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里塚)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。なお昭和初期まで、この碑の場所にも同家のご子孫が住まわれていた。

画像は大津市歴史博物館ホームページより

現代のものと異なり、五つ玉が2つある。

cosmophantom


かねよ(きんし丼)(滋賀県大津市大谷)~旧中山道を歩く(23回目)

2013-11-14 19:15:04 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<草津宿(駅)~三条大橋
2013年11月4日 23回目

かねよ 

滋賀県大津市大谷

▲きんし丼


きんし丼(きんしどん)は鰻の蒲焼の上に京風だし巻き卵が乗せられた丼料理である。 滋賀県大津市の料理店「かねよ」が発祥といわれる。 当初は細かく刻んだ錦糸卵を鰻丼に添えていたのが、厨房が追いつかないため、だし巻き卵をそのままのせて提供したのが始まり。Wikipediaより

cosmophantom


逢坂山関跡~旧中山道を歩く(23回目)

2013-11-13 18:44:06 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<草津宿(駅)~三条大橋
2013年11月4日 23回目

逢坂山関跡

京阪電鉄大谷駅の東約100m、国道1号沿いに「逢坂山関跡」の記念碑が立っています。逢坂越は、都と東国・北国を結ぶ東海道・東山道・北陸道の3つの主要道路が集中する交通の要衝でした。古くから貴族や武将をはじめ、文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)がこの道を通過し、この関所や峠を題材にした作品が万葉集や古今集に多く残っています。中でも「これやこのゆくもかえるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関」という蝉丸(せみまる)の歌は、百人一首にも採りあげられて広く親しまれています。また、大津八景「関寺(せきでら)の晩鐘(ばんしょう)」「逢坂(おうさか)の暮雪(ぼせつ)」では、厳しかった逢坂越での美しい景観がうかがえます。 実際に関所があったのは、記念碑から少し大津寄りで関寺の付近であったのではないかといわれています。 滋賀県観光情報

 

 

cosmophantom


逢坂の様子~旧中山道を歩く(23回目)

2013-11-13 14:53:45 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<草津宿(駅)~三条大橋
2013年11月4日 23回目

逢坂の様子

▲車石の説明板

江戸時代に東海道の大津札ノ辻から京都の三条大橋までの約12キロの間、坂道で物資を輸送する牛車が通りやすいように道路に敷いた切石。1805(文化2)年に完成。車道と人道に分かれていて京都に向かって右側に車道があり、左側は人や馬が通ったという。明治時代になって不要になり、撤去された。 京都・滋賀観光深堀り

cosmophantom


逢坂(石碑)~旧中山道を歩く(23回目)

2013-11-13 10:43:51 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<草津宿(駅)~三条大橋
2013年11月4日 23回目 

逢坂(石碑)

日本書紀によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。

cosmophantom


関蝉丸神社(下社)~旧中山道を歩く(23回目)

2013-11-13 10:21:24 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<草津宿(駅)~三条大橋
2013年11月4日 23回目

 関蝉丸神社 (下社)(滋賀県大津市逢坂)

蝉丸神社は市内に3社あり、逢坂(おうさか)一丁目の国道1号沿いに上社(かみしゃ)、国道161号沿いに下社(しもしゃ)(関蝉丸神社)、大谷町に分社(蝉丸神社)が立っています。蝉丸は平安時代の琵琶の名手で、今昔物語や謡曲「蝉丸」によると、目が不自由であったにもかかわらず、音曲の神として崇められました。彼が詠んだ「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」という和歌はあまりにも有名です。神社の入口に「せきのしみず」という石標があり、拝殿の横には時雨灯籠(しぐれとうろう)と呼ばれる六角形の灯籠があって、風情に満ちています。また、本殿裏の細い山道の入ロに、絶世の美女といわれた小野小町塚があります。〈重文〉石灯籠 滋賀県観光情報より

cosmophantom


義仲寺(滋賀県大津市)~旧中山道を歩く(23回目)

2013-11-13 07:47:22 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<草津宿(駅)~三条大橋
2013年11月4日 23回目 

義仲寺 

滋賀県大津市馬場

この寺の創建については不詳であるが、源義仲(木曾義仲)の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。寺は別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺、また義仲寺と呼ばれたという記述が、すでに鎌倉時代後期の文書にみられるという。戦国時代に荒廃したが、天文22年(1553年)頃、近江守・佐々木氏によって再興された。当初は石山寺の配下であったが、江戸時代には園城寺に属した。俳人松尾芭蕉はこの寺と湖南のひとびとを愛し、たびたび滞在した。無名庵で句会も盛んに行われた。大坂で亡くなった芭蕉だが、遺志により義仲墓の横に葬られた。又玄の句「木曽殿と背中合わせの寒かな」が有名。Wikipediaより

cosmophantom