街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
一色の様子 (滋賀県米原市一色)
cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
一色の様子 (滋賀県米原市一色)
cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
国道21号
▲この道標の先を左折し旧道へ
cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
梓の様子 (滋賀県米原市梓)
▲ 梓川
▲推定横川の駅家跡の説明板
▲中山道松並木▼
cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
街道で見かけた石碑達
cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
山東町指定文化財 番の面遺跡 (昭和42年5月15日指定)
番の面遺跡は、昭和30年に京都学芸大学(現、京都教育大学)により発掘調査が実施され、後方の小高い丘陵から近畿地方で最初の縄文時代中期末(約4000年前)の竪穴式住居跡と多数の土器・石器などが発見されました。竪穴式住居とは、地面に穴を掘り、その底面をたいらに整えて床とし、上部に屋根をかけたもので、番の面遺跡で発見されたものは一辺の長さが四メートル前後の方形をしており、その内に四本の柱の穴と、中央に炉の跡と思われるくぼみ(0.7×0.5メートル)が一個ありました。土器は、中型の甕と思われる破片が多く発見されましたが、文様などから関東地方と深いかかわりを持っていたと思われ、また、石器類は、石鏃(矢の先に付けた矢じり)、石錐(いしのきり)、石斧(いしのおの)などが発見されましたが、石鏃の中には中部山岳地産の黒曜石で作られたものも含まれており、広い交流圏を持った遺跡といえます。 平成六年十二月 山東町教育委員会
cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
旧道
▲右が旧道
▲旧道出口の道標 左 旧中山道と刻まれている。
cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
小川の関と菖蒲池跡
▲小川の関
「坂田郡史」に稚淳毛両岐王(わかぬけのふたまたおう)の守りし関屋(関所の施設・現存しない)と書かれ、大字柏原小字小川の辺りに比定、小川、古川、粉川または横川の転訛せし地名としている。一面何処も植栽され、あるいは野原となっているが、戦時中は食糧増産のため開墾、畑となっていたところである。したがって、往事を偲ぶようすはないが、古道の山側には整然と区画された屋敷跡「館跡」を確認することができる。 米原市・米原観光協会
▲菖蒲池跡
君がながしき例しに長沢の 池のあやめは今日ぞ引かるる 大納言俊光
「此の池の芹、名産なり、相伝う。古昔二町(218メートル)四方の池なりと。今は多く田地となりて、漸く方二十間(36メートル)計りの池となれり。」
享保十九年(1734)『近江與地志略』
その後、天保十四年(1843)には、「菖蒲ケ池と申し伝へ候旧地これ有り。」と
『中山道宿村大概帳』
江戸後期には消滅したようである。
『近江坂田郡志』は、この池が天野川の水源だったと述べている。
cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
掃除丁場と並び松
掃除丁場とは、街道掃除の持場・受付区域のこと。貴人の通行に備え、街道の路面整備・道路敷の除草と松並木の枯木・倒木の処置・補植に、柏原宿では江戸後期二十一ケ村が夫役として従事した。丁場の小さい所は、伊吹上平等村で15m、大きい所では、柏原宿を除き長浜の加田村で488mもあった。江戸時代の柏原宿では、松並木のことを「並び松」と呼んでいた。また、東西両隣り(長久寺・梓河内)、村境までの街道松の本数は、明治五年の調査から逆算、幕末には約450本植えられていた。
cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
鶯が原
▲中山道 柏原宿と刻まれている
▲鶯が原
「木曽路名所図会」(文化二年〈1805〉)に、
長沢(ながそ)村を過て、鶯が原に至り、
柏原の宿に着く。
また、太田道灌、江戸から京都への旅日記「平安紀行」(文明十二年〈1480〉)に、
鶯の原といふ所にて
聞ままにかすみし春そしのはるる
名さえなつかし鶯の原
道灌は、この旅で寝物語の里(現米原市長久寺)でも一首詠んでいる。道標に有り。
cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
東山道と九里半街道
東山道と九里半街道
〈古道東山道の道筋〉
東山道は、横河駅があった梓を中山道と同じ道で東へ進み、長沢を過ぎ、ここ北畠具行卿参道入口のある谷間で、中山道と分かれ山越えをする。徳源院のある清滝へ降り、右へ折れ、成菩堤院裏山の北側を東進する。JR野瀬(山)の踏切に至り、再び中山道と合流して、県境長久寺へと向う。
〈九里半街道〉
中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原から中山道に入り番場宿で、船積みの米原湊道へ進む。牧田から米原湊までの行程は九里半あった。関が原・今須・柏原・醒ヶ井・番場の五宿は。この積荷で、六、七軒と問屋が多かった。
☆cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
旧道と西見付跡
柏原宿西の入口で、道の両側に喰い違いの土手(土塁)がある。見付の語源は城門で、宿場用語になった。この地点の海抜高度は、174メートル。(磨針峠は154.2メートルで、ここより低い。)彦根城と比較すると、天守閣の上に天守閣を更に一つ、大垣城では、なんと六つ積み上げないと、ここの高さに届かない。柏原宿は、東見付まで十三町(1.4キロ)。長く高地の町並が続く。
☆cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
柏原一里塚跡 (復元)
一里塚は、旅人の里程(みちのり)の目安・駕篭・馬の乗り賃銭の目安と旅人の休息場所として造られた。慶長九年(1604)、徳川家康の命をうけ、秀忠はまず東海道と中山道・北陸道での一里塚築造に着手した。そして奉行には永井弥右衛門白元・本多佐太夫光重を任命、江戸は町年寄りの樽屋藤左衛門・奈良屋市右衛門、街道沿いでは天領は代官、私領は領主に工事参加の沙汰が出された。工事現場の総監督はすべて大久保長安が担当した。一里塚の規模は、五間(9m)四方に盛土して、一本または複数本の木が植えられた。おもに榎が選ばれた。成長が早く根が深く広く張って塚が崩れにくい利点から採用された。柏原一里塚は、江戸日本橋から数えて百十五番目で、柏原宿内の西見附近くに街道を挟んで北塚と南塚があった。(両塚ともに現存しない。)北塚は、街道沿い北側で、愛宕神社参道の石段東側(現中井町集会所)の場所にあった。 南塚は、街道を横切る接近した二筋の川のため、やむを得ず東側の川岸で街道より奥まった所に築かれた。(現在では、大幅な河川工事が行われてので、この地点から東寄りの河床の位置になる。)なお、江戸時代刊行の道中記等を見ると、両塚とも三本の榎が描かれている。
cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
郷宿跡
柏原宿で現存する一軒の貴重な加藤家。郷宿とは、脇本陣と旅籠屋の中間、武士や公用で旅する庄屋などの休泊に使用されてきた
cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
「やくし道」道標
最澄が創立したと云う明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。太平洋戦争までは、眼病に霊験ありと賑わったが、門前の明星村も消え、今は往年の面影がない。この道標は享保二年(1717)と古く、正面が漢文、横に面が平仮名・変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。出町(小字)長沢にも、同型の道標がある。
▲ふれあい会館
☆cosmophantom
街道ウォーク<旧中山道<関ヶ原宿(駅)~高宮宿(駅)
2013年6月7日 20回目
西の荷蔵跡と柏原銀行跡
運送荷物の東西両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中処理出来ない場合、荷物を蔵に預かった。この蔵は西蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。荷蔵は宿東部にもあった。なお、当宿は、寺院の数が中山道二番目と多く、寺院は荷蔵や宿屋に利用され、柏原宿は大通行定番の宿泊地となった。
明治三十四年(1901)、江戸時代艾(もぐさ)屋の山根為蔵家は、同業・旅篭屋・呉服屋であった家筋五軒に働きかけ、自宅別棟に柏原銀行を創立した。中世・江戸期を通し大きな宿場として栄えた柏原村は、その当時も多くの商店が立ち並び、国鉄沿線の醒ヶ井・近江長岡と岐阜県隣り村今須村地域の中心地であった。柏原銀行の支店出張所は、米原・醒ヶ井・近江長岡・野一色・岐阜県隣り村今須にも設置された。その後、米原・野一色は閉鎖されたが、昭和十八年(1943)、滋賀銀行に合併する迄の四十二年間、この地方の産業活動を支援した功績は大きい。
cosmophantom