2015年12月26日 山口県
岩国の町並み2015①
岩国の名前は万葉集にも見られ、古くから山陽道の交通の要衝であった。守護大名・大内氏が中国地方を統治していた室町期まで、岩国氏・広中氏といった豪族がこの地を治めていた。関ヶ原の戦いの後、長門・周防の2国に減封された毛利家前当主・毛利輝元は、東の守りとして、毛利元就の次男・吉川元春の三男で、吉川家を相続していた吉川広家に岩国を与えた。以後、岩国は、吉川家が治める岩国領6万石の城下町として発展していく。後述のように、関ヶ原敗戦の原因を毛利両川(小早川の裏切りと吉川の内応)のためと考えていた毛利本家から、幕府に対して支藩としての推挙がなかったため、岩国領と称された。吉川氏が諸侯に列し、大名となったのは慶応4年のことである。したがって岩国藩と呼べるのは、それ以後からのこととなる。旧市街である、錦見(にしみ)・岩国・横山といった現西岩国駅・川西駅の周辺が繁栄した。江戸年間、岩国藩と長州藩は幕末まで吉川家の家格をめぐって疎遠であった。このためか旧岩国市域の住民は山口県に帰属しているという意識は薄い。Wikipedia
▲錦帯橋
▲槍倒しの松:参勤交代で大名行列が藩の要所を通る時は、槍を倒すのが礼儀だが、わずか6万石では誰も倒さなかったという。そこで、枝ぶりのよい松の木を橋の袂に植えたところ、嫌でも槍を倒すようになったという。岩国藩士の心意気といえるが、本当に意識して植えたという記録はない。 じゃらん
▲巌流ゆかりの柳:佐々木巌流小次郎は宮本武蔵との勝負に敗れましたが、小次郎の「つばめ返し」の剣法は天下無双であったということです。吉川英治氏は小説『宮本武蔵』のなかで、岩国で産まれた小次郎は、母からの家伝の長光の刀(一名物干し竿)を授かり、この辺りの柳とつばめを相手に独りで工夫し、努力を重ね、遂に『つばめ返し』の術を編み出したと記しています。 説明板より
▲佐々木小次郎像:吉川英治の小説「宮本武蔵」で、佐々木小次郎は錦帯橋畔で、柳の枝が燕を打つのを見て「燕返し」の術を得たと岩国に来て自ら創作した。 おいでまっせ山口へ
刀の柄を持つ手に注目: 「燕返し」の為の構えかもしれない。
▲昌明館附属屋及び門
▲ 旧吉川邸厩門
▲ 錦雲閣
▲ 吉香神社 ▼
▲ 白山比神社
▲ 岩国高等学校記念館
ロープウェイで岩国城へ
▲ ロープウェイ内から 錦帯橋が眼下に見える
▲ 岩国城
▲ 旧目加田家住宅
▲ 香川家長屋門
▲ 吉香公園
▲ 吉香公園の十月桜
▲ 紅葉谷:紅葉谷公園は、江戸時代からあったいくつかの寺院跡地を公園化したもので、昔はこの辺りは「寺谷」と呼ばれ、多くの寺院が集まっていました。常に静かで落ち着いた雰囲気に包まれた風流な公園で、新緑のモミジ、紅葉のモミジともに趣があり、観光客の目を楽しませています。 ひろしま観光ナビ
▼ 吉川家墓所
▼ 永興寺庭園 名勝
吉川家、大内氏ゆかりの寺です。また、庭園は枯山水庭園の例として貴重で、岩国市指定文化財です。 おいでまっせ山口へ
▼ 六角亭
紅葉谷公園の一角に立つエキゾチックな建物 「六角亭」 (ろっかくてい)は、岩国出身で朝鮮総督を勤めた長谷川好道元帥が朝鮮から贈られたものを1918年 (大正7年) に移築しました。元々六角亭は朝鮮各地で身分の高い人々が景観のよい場所に建て憩いの場として利用していたものと言われています。 岩国の観光.com
▼ 吉川 広嘉公像
岩国藩三代藩主吉川広嘉公の像で、錦帯橋創健の偉業をたたえて建てられたもの。しかし、岩国藩では二代藩主から十一代藩主までの肖像画が残されておらず、この銅像は、初代藩主と子孫の方の肖像画と写真を合成して作られたものです。 おいでまっせ山口へ
関連記事:岩国(大明小路)の町並み2015②
2016-02-25 21:43:22
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