コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

大照院(重要文化財)~山口県萩市青海

2016-09-30 05:44:50 | 神社・仏閣・教会

2016年8月25日 山口県

大照院 重要文化財

山口県萩市青海

霊椿山大照院は、臨済宗南禅寺派の寺院で、荒廃していたものを、2代藩主綱広が亡父の初代藩主秀就の菩提所とするために、承応3年(1654)から明暦2年(1656)にかけて再建しました。隣接する萩藩主毛利家墓所は、秀就以下2代から12代までの偶数代の藩主と夫人及び一族、秀就に殉死した7藩士の墓石があり、墓前には藩士が寄進した石灯籠が600数基あります(国指定史跡)。当寺は延享4年(1747)の火災で焼失しましたが、6代藩主宗広によって寛延3年(1750)に再建されました。本堂、庫裏(くり)、書院、鐘楼門、経蔵は国指定重要文化財に指定されています。 ぶらり萩あるき

※残念ながら改修工事中でありました。。。。。。。

鐘楼門 重要文化財

これは、本堂の改修工事のため臨時の覆屋

覆屋の中。なにがなんだか分からない。。。

▼書院 重要文化財
  

 

萩藩主毛利家墓所

この墓所は、山口市に所在する香山墓所、萩市に所在する旧天樹院墓所、東光寺墓所とともに、長州藩36万石の藩主の墓地。 1651年(慶安4)初代藩主毛利秀就の死後、旧観音寺跡に墓地造りを始め、1656年(明暦2)に大照院を完工しました。 この墓所には、初代藩主毛利秀就のほか、2代、4代、6代、8代、10代、12代の歴代藩主及び夫人の墓があります。 じゃらん
 

  

この夥しい数の灯篭は、主君の墓を守る家臣の如し
  

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JR萩駅~山口県萩市椿

2016-09-29 06:20:30 | 鉄道・駅

2016年8月25日 山口県

JR萩駅

山口県萩市椿

現存する数少ない鉄道開通時の駅舎。1998年に改修し、現在は「萩市自然と歴史の展示館」となっています。

▲藩政時代の町人のちょうちん

 

   

東京は京橋のたもとに、日本で最初の電話ボックスが登場したのが、明治33年(1900)のことであった。当時の呼び名は「自動電話」。屋根の形は六角形で、ひときわ目立つ白塗りのボックスだった。 当時流行の「エビ茶の袴、三つ編み長髪、長靴下」。等のスタイル姿の女学生が、電話をかけていようものなら、たちまち人だかり。雨宿りにも格好だと、庶民の人気を呼んだ。 

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金谷神社と金谷天満宮~山口県萩市椿

2016-09-28 05:44:55 | 神社・仏閣・教会

2016年8月25日 山口県

金谷神社

山口県萩市椿

社伝によると、鎌倉時代の初め、1186年に長門守護の佐々木高綱が大宰府から勧請したとされます。1720年に城下入り口にあたる現在地(萩市椿)に遷宮されました。

▲郷社とは・・・?

▲燈籠には説明書きがくくってありましたが、内容は全く覚えておりませぬ

▼金谷天満宮

学問の神様・菅原道真公をまつる神社

 ▲たぶん金谷天満宮の社殿?だと思われますが????

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桂太郎旧宅~山口県萩市川島

2016-09-27 05:41:52 | 建築物(洋館以外)

2016年8月25日 山口県

桂太郎旧宅

山口県萩市川島

明治維新後、3回にわたって内閣総理大臣を務めた桂太郎の旧宅。桂太郎は、萩藩士桂與一右衛門の長男として、萩城下平安古に生まれ、3歳の時に川島に移り住みました。この旧宅は、明治42年(1909)に新築したもので、主屋は派手さを抑え、規模も比較的小さなもので、藍場川沿いの生活を穏やかに楽しむために造られています。藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園内には桂太郎公銅像が建っています。また、縁側には水琴窟(すいきんくつ)があり、澄んだ音色を楽しむことができます。 ぶらり萩あるき

 

▲桂太郎の銅像

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旧湯川家屋敷~山口県萩市川島

2016-09-26 05:44:46 | 建築物(洋館以外)

2016年8月25日 山口県

旧湯川家屋敷

山口県萩市川島

江戸時代の藍場川を利用した生活が残る建物。内部見学が可能で水を引き込んだ庭園や水回りが珍しい。じゃらん

 

藍場川

  

▲この家の最大の特徴である、室内の船着場!外を流れる藍場川につながっている。

▼水の取り入れ口

  

▲茶室

▲風呂場

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奥平家長屋門~山口県萩市土原

2016-09-25 05:45:59 | 長屋門など

2016年8月25日 山口県

奥平家長屋門

山口県萩市土原

この門は同家の表門で西に面し、寄棟造桟瓦葺、桁行26.65m、梁間5.0mの長い建物である。門構えは中央からやや南に片寄って幅3.87mの通路があり、入口は袖壁付き片引板戸を建てている。内部の部屋は通路の南側に3室と土間・板の間があり、通路の北側には床や仏壇構えのある部屋など9室と土間および縁がある。道路に面した西側には4箇所の出格子窓があり腰部は下見板張りとし、上部は外大壁である。建築年代は技法などからみて、19世紀初頭のものと思われるが、門構えや出格子など当初の形態をよく残している。 ぶらり萩あるき

 

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小川家長屋門~山口県萩市土原

2016-09-24 05:40:33 | 長屋門など

2016年8月25日 山口県

小川家長屋門

山口県萩市土原

小川家は萩藩の大組士(500石)で、藩政末期の当主小川厚狭佐(こがわあさのすけ)は慶応元年(1865)から明治元年(1868)までの3年間萩町奉行を勤めた。この長屋門は同家の表門で、木造平屋建入母屋造桟瓦葺、桁行27.39m、梁間6.0mのかなり長い建物である。門構えはほぼ中央付近に幅2間の通路があり、正面から1.5m入った所に冠木を架け、入口は袖壁付きの観音開きになっている。北側の屋根及び妻部分には改造した跡があり、本来の姿ではないのが惜しまれる。  ぶらり萩あるき

☆cosmophantom

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萩の様子(松本川~藍場 川界隈)

2016-09-23 06:09:35 | 町並み

2016年8月25日 山口県

萩の様子(松本川~藍場 川界隈)

▲松本橋

▲松本川

 ▲小川家長屋門
  

▲井上勝旧宅跡

井上勝は、1843(天保14)年、萩藩士井上勝行の三男として生まれた。1863(文久3)年、5人の留学生(長州ファイブ)の1人としてイギリスへ渡り、鉱山と鉄道について学んだ。1868(明治元)年に帰国後、初代鉄道頭となり、日本初の鉄道、新橋・横浜間の敷設にあたった。以後1910(明治43)年にヨーロッパを視察中イギリスで死去するまで、日本の鉄道の発展につくし、「鉄道の父」と呼ばれている。

▲奥平家長屋門

 

▲松陰大橋

▲城下町らしさを物語る直線的な道

▲中津江橋
 

▲旧湯川家屋敷 
  

▲桂太郎旧宅 

善福寺

▲藍場 川に設けられているこれなんだろう?(あちこちにある)

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佐々並市(重要伝統的建造物群保存地区)~山口県萩市佐々並市

2016-09-22 05:48:45 | 重要伝統的建造物群保存地区

2016年8月25日 山口県

佐々並市 重要伝統的建造物群保存地区

山口県萩市佐々並市

佐々並市は、萩市の南部を占める旧旭村の南縁に位置する農村集落で、かつての萩城下町と三田尻(防府市)を結ぶ萩往還の中間点に位置することから、参勤交替の際などに藩主が休息する御茶屋を中心とした、宿駅機能を有する集落として栄えました。佐々並市の町並みは、江戸初期に農業を基盤としつつ、萩往還の整備に伴って宿駅機能を備えた町並みとして成立し、近年に至るまで町並みの地割に大きな変化はなく、かつこの町並みの特徴を示す建築物や工作物、環境物件が現在まで数多く残っています。

ここから佐々並市の中心部へ下る。

三田尻へ向かう萩往還:萩往還を歩くウォーカーがいるとのこと。

市の棚田

   

石州瓦が美しい

 ▲萩往還
 

貴布禰神社:江戸時代後期の建築
  

 

  

 

  

▲佐々並橋(佐々並川)

  

  

▲西岸寺
 

 

▲萩往還:萩城下町へ

 

 

2016-09-22 05:48:45

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津和野駅⇒益田駅⇒東萩駅

2016-09-21 05:41:28 | 鉄道・駅

2016年8月24日 島根県・山口県

津和野駅⇒益田駅⇒東萩駅

第一日目は山口市、津和野を巡り最初の宿泊地の東萩駅へ向かう。

津和野駅から東萩駅へは、まず、津和野駅からJR山口線を北上し益田駅で山陰本線下りで東萩駅へ。

▼津和野駅

津和野駅は、島根県鹿足郡津和野町後田にある、西日本旅客鉄道山口線の駅である。 「山陰の小京都」と称される観光の町、津和野の玄関口の駅で、蒸気機関車C57 1が牽引する快速「SLやまぐち号」の終着駅である。

 

  

▲各駅で益田駅へ

▼益田駅

 山陰本線を所属線としており、当駅を終点とする山口線を加えた2路線が乗り入れている。
 

益田駅から各駅で東萩駅へ

▼東萩駅 

萩市の代表駅であり、市内の中心部に最も近い駅である。

2016-09-21 05:41:28

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津和野カトリック教会・~島根県鹿足郡津和野町後田

2016-09-19 05:44:26 | 神社・仏閣・教会

2016年8月24日 島根県

津和野カトリック教会

島根県鹿足郡津和野町後田

内部は畳敷きで、鮮やかなステンドグラスが印象的な石造りの教会。 昭和6年、ドイツ人ヴェケレーによって建てられたもので、城下町の古い町並みに西洋ゴシック建築の建物がひときわ目を引きます。津和野観光協会

 

 

2016-09-19 05:44:26

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津和野町津和野2016(重要伝統的建造物群保存地区)~ 島根県鹿足郡津和野町

2016-09-18 05:43:19 | 重要伝統的建造物群保存地区

2016年8月24日 島根県

 津和野町津和野2016  重要伝統的建造物群保存地区

津和野町津和野伝統的建造物群保存地区は、江戸前期までに整備された津和野城下町のうち、上級家臣の居住地であった武家町及び旧山陰道を中心とした商家町からなり、近世からの地割はよく旧態を保持している。武家屋敷の一部や、江戸末期から昭和初期にかけて建築された町家等の伝統的建造物群が、各通り沿いに流れる水路等と一体となって特色ある歴史的風致を形成しており、我が国にとって価値が高い。

幸橋(津和野川)から津和野駅へ向かう

      

▼多胡家老門

多胡家は亀井氏 11代にわたって家老職を務め、藩財政に大きく貢献した家柄。瓦葺きで、間口4m、長さ26mの立派な武家屋敷門が今も残っています。津和野町観光協会
   

▼ 養老館(津和野民俗資料館):津和野藩の藩校。安政年間に、菁々舎と改名された
 

 ▼大岡家老門

養老館があるあたりは、かつて家老屋敷が集まっていたところで、津和野のシンボル的なスポット。なかでも多胡家は、津和野藩筆頭家老を亀井氏11代にわたって務めた家柄。風格ある武家屋敷門の左右には門番詰所や物見部屋が残っている。隣接して立つ大岡家も家老の家柄。中は一部、津和野町役場として使われている。るるぶ

   

 ▼津和野町役場津和野庁舎:大正時代の建物らしい。
  

▲??

 

 ▼津和野カトリック教会

内部は畳敷きで、鮮やかなステンドグラスが印象的な石造りの教会。 昭和6年

 ▼古橋酒造「初陣」:明治初期の創業
 

  

   

 

2016-09-18 05:43:19

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太皷谷稲成神社~島根県鹿足郡津和野町後田

2016-09-17 05:49:51 | 神社・仏閣・教会

2016年8月24日 島根県

太皷谷稲成神社

島根県鹿足郡津和野町後田

津和野の町から城山の方向を眺めると、朱塗りの鳥居がぎっしりと並んだ参道が見える。信者から奉納された1,000本の鳥居がトンネルを作り、その中を 300mほど登ると太皷谷稲成神社がある。安永2年(1773)、津和野七代藩主亀井矩貞(のりさだ)が城の鎮護と領民の安穏を願って、城山の太皷谷に京都伏見稲荷を勧請したものである。

現在では東北の竹駒稲荷、関東の笠間稲荷、近畿の伏見稲荷、九州の祐徳稲荷とともに日本五大稲荷の一つに数えられている。一般には稲荷と書くが、ここは全国でただ一つ稲成と書く。稲成とされたのは願望成就ためであるという。 しまね観光ナビ

 

▲ナイスなコメント

  

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津和野城(100名城)~島根県鹿足郡津和野町後田

2016-09-16 06:05:27 | 100名城

2016年8月24日 島根県

津和野城 100名城

島根県鹿足郡津和野町後田

別名「三本松城」とも呼ばれ、中性の山城と近世の山城が一体となった全国でも数少ない山城です。

吉見氏は戦国時代には当初大内氏に属していたが、11代当主正頼は大寧寺の変で大内義隆を滅ぼした陶晴賢に対して挙兵。天文23年(1554年)に100日以上に及ぶ籠城戦が生じた(三本松城の戦い)。その後、厳島の戦いに勝利した毛利氏が防長経略を開始すると、吉見氏はその傘下に入って引き続き津和野城を居城とした。その後、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて毛利輝元を総大将とする西軍が敗れ、毛利氏が防長2か国に押し込められると、吉見氏も津和野を退去して萩に移住した。代わって東軍に属した坂崎直盛が3万石(後に加増され4万3468石)で入城し、石垣を多用した近世城郭へと大改修を行った。大手の位置を吉見氏時代の搦手側に改め、出丸や天守を築いた。直盛は元和2年(1616年)に千姫事件で自害(または家臣に殺されたとも)し、坂崎氏は改易となった。元和3年(1617年)因幡国鹿野藩より亀井政矩が4万3千石で入城。以後、明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となった。亀井氏により、山麓に居館(津和野藩邸)や外堀が設けられて、城下町が整備された。貞享3年(1686年)城は落雷にあい火災が発生した。この際に天守も焼失し、以後再建されることはなかった。

リフトで津和野城へ

リフトを降り天守を目指す

熊が出るの??よく読んだら生息地とある。ふ~
 

 堀切??どこ?分からないまま先に進む

   

 出丸

出丸からは津和野の街並みがよく見える

      

 本丸への途中、馬立・台所跡へ
 

▲馬立・台所跡

 

西櫓門跡

 

▲天守台石垣??たぶん

   

▲太鼓丸へ

 

☆☆☆

 

この櫓は、旧津和野藩邸表門の左方の角地に配置された隅櫓で、南西に馬場があったのでこの名が付けられています。構造は、重層入母屋の本瓦葺きで、外部漆喰(しっくい)仕上げの櫓構建築です。建築年代について記録はありませんが、藩邸が嘉永6年(1854)の大火で焼失し、安政3年(1856)に再建されていることから、この櫓も安政年間の建築と思われます。旧津和野藩邸の建物で現在残っているのは、この櫓と嘉楽園内の「物見櫓」の二棟があるが、もとの位置を変えずに旧状を留めている唯一の建物となっています。 

2016-09-16 06:05:27

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旧山口藩庁門~山口県山口市滝町

2016-09-15 05:46:11 | 長屋門など

2016年8月24日 山口県

旧山口藩庁門

山口県山口市滝町

この藩庁門は、毛利敬親が幕末の文久3年(1863)12月に一露山の麓、今の県庁の位置に藩庁の移転を計画し、慶応3年(1867)に竣工しました。この門はその藩庁の正門で、脇門付薬医門で、切妻造り、平入り、本瓦葺きです。西の京やまぐち

 

 

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