2016年4月9日 青森県
弘前城(2016) 100名城
青森県弘前市下白銀町
津軽統一を成し遂げた津軽為信が1603(慶長8)年に建築を計画、その後2代目の信枚が1610(慶長15)年から1年で築いた居城。津軽藩の政治の中心地として廃藩まで260年機能した。城門や天守閣は当時の規模のまま残され重要文化財にも指定されている。現在弘前城史料館として津軽藩の史料を展示。津軽藩の栄華を伝える美しい天守閣 じゃらん
※石垣補修のため天守閣は移動されている。 弘前城2012
北門(亀甲門) 重要文化財
弘前城には、現在五棟の城門が残されているが、この北門は、これらの中でも特に規模が大きく、また形状も異なり最古の形式を呈する城門である。北門は、もと大光寺城(現在の南津軽郡平賀町)の城門を慶長一六年二代藩主信牧が築城にあたり弘前城追手門として移築再建したもので、昭和三十三年の保存修理工事に当たって、柱などから多数の矢傷跡が発見されている。弘前城は、築城以来、実践の経験がないため、この北門が城郭内で唯一の実践の痕跡をとどめる貴重な城門である。また、棟の両端にある鯱も他の門のものより古い形式のものである点、矢狭間、鉄砲狭間のない点など、見るべきところが多い門である。 弘前市
▼丑寅櫓 重要文化財
城郭に取りつく敵への攻撃や、物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、 銅版葺(当初はとち葺)となっている。軒下や出格子の木部は素木のままで飾り気がないが、独特の美しさを見せる。 櫓の方向をを十二支で示したもので、丑寅は北東に当たりる。説明版
津軽富士(岩木富士)がよく見えるぞ
鳥海火山脈に属する休火山で,青森県で一番標高の高い岩木山は、津軽平野のどこからでも見ることができ、広く裾野を引いた姿の美しさから津軽富士とも呼ばれる。昭和50年には津軽の名山として津軽国定公園に指定された。なお、古来より信仰の山として知られている。
▼天守閣 重要文化財
本丸唯一の現存建築である天守は層塔型3重3階の建物である。現在は独立式であるが、往時は北側に多聞櫓を付属させた複合式であった。この多聞櫓は明治29年(1896年)ごろまでに破却されている。天守の高さは約14.4メートルあり、現存する三重天守の中で最も低い。1627年(寛永4年)大爆発に焼失した5重天守の代用として、またロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て、本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として建てられた。1810年(文化7年)着工、1811年(文化8年)に竣工した。往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていたが、「事実上の天守」としての役割を持ち現在は書籍などの多くで天守として扱われている。昭和24年(1949年)に松前城天守が焼失したため、現在最も北に位置する現存天守でもある。
▲本来の天守閣があった位置。天守台
ここに天守閣が戻るのは10年後か?
▲亀石
この石垣の角に天守閣があった。
▲ 2012年の天守閣 写真をよく見ると石垣の角に天守閣が建っているのが分かる(楓の後ろ)
石垣のこの部分を修復するのだろう
▼二の丸東門与力番所
与力番所とは、城内の主要な箇所の見張り所として配置されたもので、藩政時代には追手門与力番所、三の丸東門与力番所等十二ヶ所に建てられていたようである。この与力番所の建築年代は定かではないが、柱や梁に残された墨書きは、江戸時代初期に建てられた三の丸東門の墨書き跡と酷似し、構築手法は江戸時代中期の様相を呈していることから古材を利用し、江戸時代中期に一度改修したものと推定される。廃藩以降取り壊されることもなく、そのまま放置されていたものを、大正四年頃に現在、緑の相談所が建てられているその東側に曳家移築し、以後公園管理人宿舎や作業員詰所として使用されていた。それを、昭和五十四年から三ヶ年をかけ、文化庁の指導協力を得て再度復元移築したものである。 説明板より
▼東内門
三の丸東門から本丸に向かうと、ほぼ一直線上にあるのがこの東内門です。南内門とともに、二の丸に現存する2つの城門となります。
▼東門 重要文化財
弘前公園に現存する5つの櫓門のうち、他の4つの門は昭和12年(1937)年に重要文化財として指定されました。
しかしこの東門のみ、昭和28年(1953年)の指定となっています。なぜ指定が遅れたかについては、現在調査中です。 弘前公園ホームページより
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北側の堀
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東側の堀
2016-04-20 07:42:46
cosmophantom