コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

大山(神奈川県) 1252m -下り編-

2016-03-31 05:57:23 | 山歩き

2016年3月26日 神奈川県

大山(神奈川県) 標高:1252m

-下り編-

ルート(復路) 

山頂→雷ノ峰尾根→見晴台→二重の滝→
阿夫利神社下社→大山ケーブル乗車→大山 バス停

▲山頂 
   

どろどろ道

 

  

▼見晴台

▲大山か?
      

▲二重神社

▲二重の滝

阿夫利神社下社へ戻ってきた
 

 再び阿夫利神社下社境内へ:疲れた足にこの階段はキツイ

 名水を飲んでみたが・・・

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足は限界!ケーブルカーで下山 阿夫利神社駅

     

 ▲大山寺駅で上下がすれ違う

 ▼大山ケーブル駅

   

江戸中期から受け継がれている郷土玩具の「大山こま」

 

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大山(神奈川県) 1252m -上り編-

2016-03-30 05:41:30 | 山歩き

2016年3月26日 神奈川県

大山(神奈川県) 標高:1252m

都心から約90分。丹沢大山国定公園の大山は丹沢山塊の東端、神奈川県伊勢原市にあり、標高1252mのピラミッド型の美しい山容を見せています。 相模平野のどこからも見える大山は古代から霊山として関東一円の農民からは農業の神、漁民からは航行守護の神として崇められ、江戸の庶民には福を授け災害除けにあらたかな神として信仰を集め、落語の大山詣りや浮世絵にいきいきと写されています。大山が別名「雨降山」とも呼ばれるのは山頂に年中水のしたっている霊木があるからです。

関八州の展望台と言われ、「かながわの景勝50」に選定された山頂からの眺めはすばらしく、空気の澄んでいるときは相模平野から三浦、房総半島、東京都心の高層ビル群も望見でき、振り返れば丹沢表尾根から富士、箱根の連山、秩父多摩の山並みがつづき、東京近郊の山で隋一の眺望を誇っています。

-上り編-

ルート(往路)

大山ケーブルバス停→(こま歩道)→女坂→大山寺→
阿夫利神社下社→25丁目→山頂(阿夫利神社本社)

ルート(復路)

山頂→雷ノ峰尾根→見晴台→二重の滝→
阿夫利神社下社→大山ケーブル乗車→大山 バス停

 

▲左が女坂
 

 ▲追分社 八意思兼神社

黄色い花は「ミツマタ」?

▲次から次へと階段が続く

  

▲爪切り地蔵:弘法大師様が道具を使わず、一夜のうちに手の爪で彫刻されたと伝えられている。
 

▲来迎院客殿?

▲前不動明王

▲龍神堂(八大堂)

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▼大山寺

 

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 ▲左に見える階段を登ると阿夫利神社下社

▲大山ケーブル駅 乗らずに頂上へ

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阿夫利神社下社

 

    

鹿と遭遇(二頭)。写真左隅にも・・・

 夫婦杉
  

これは雪じゃない?

 

▲天狗の鼻突き岩:天狗が鼻を突きたててあけた穴・・・・・
  

まさかの雪景色

山頂まで200m
 

鳥居が見えてきた、頂上まであと少し
  

▲ 前社

阿夫利神社本社(山頂)

   

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小田原城2016(100名城)~神奈川県小田原市城内

2016-03-29 05:44:57 | 100名城

2016年3月13日 神奈川県

小田原城 100名城

神奈川県小田原市城内

室町時代、西相模に進出した大森氏が築いた山城が前身。これを早雲が攻め取ってのち、北条氏の居城として関東に君臨した。徳川氏の関東入国とともに功臣大久保忠世が領有し、その子忠隣は改易、72年目にまた大久保忠朝に復した。その間、稲葉氏(稲葉正勝・正則)が近世城郭として整備、度々の震災で復興・改修を重ねた。現在は天守閣が昭和35年、常盤木門が昭和46年に復興、銅門が平成9年に復元。ほかに隅櫓などが復興されている。 じゃらん

小田原城2013年

▲隅櫓
 

 ▲二の丸御殿跡

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銅(あかがね)門

馬屋曲輪(うまやくるわ)から二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正門にあたります。渡櫓門(わたりやぐらもん)、内仕切門(うちじきりもん)と土塀で周囲を囲む枡形門(ますがたもん)の構造を持ちます。渡櫓門にはその名の由来となった銅板の装飾が映えます(平成9年復元)。

▲常盤木門が見える

 ▼馬出門

 

 

 

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小田原城 二の丸観光案内所

以前は小田原町図書館とのこと。詳細不明

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▲銅門土塀模型

▼常盤木門

小田原城本丸には常盤木門、鉄門の2つの城門がありました。このうち常盤木門は本丸の正門にあたり、重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られていました。多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。元禄16年(1703年)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多門櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870年)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれています。
常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。現在の常盤木門は、市制30周年事業として再建したもので、昭和46年(1971年)3月に完成しました。 小田原市ホームページ

▲この石碑には「常盤木門」と刻まれている
 

▲天守閣は改修工事中でした・・・

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▲三の丸土塁跡

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2016年3月13日~14日

職場の仲間と箱根湯元への温泉旅行で小田原城を訪れる。翌日は朝からの雨で、早々に帰宅。あちこちと旅行計画を立てえいただけに残念でした。ちなみに 大涌谷は未だに立ち入り禁止!

▲モチーフは 富士山、箱根山、小田原城、酒匂川の渡し

▼箱根登山鉄道 小田原駅

 

▲ホームから小田原城が見える

 

 

▲ 宿泊したホテルのベランダから

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福山城(100名城)~広島県福山市丸之内

2016-03-28 05:55:17 | 100名城

2015年12月28日 広島県

福山城 100名城

広島県福山市丸之内

福山城は徳川幕府から西国鎮護の拠点として,譜代大名水野勝成が元和5年(1619年)備後10万石の領主として入府し築いた城で,江戸時代建築最後の最も完成された名城としてたたえられていました。また,伏見櫓は、元和8年(1622年)築城の際に、京都伏見城の「松の丸東やぐら」であった遺構を徳川秀忠が移建させたもので白壁三層の豪華な姿に桃山時代の気風が伺えます。歴代の藩主は、水野氏5代、松平氏1代、阿部氏10代と続き廃藩置県に至るまで福山城が藩治の中心でした。明治6年(1873年)に廃城となり、多くの城の建物が取り壊され,更に昭和20年(1945年)8月の空襲により天守閣と御湯殿も焼失することとなります。 福山市ホームページより

▲左から 月見櫓、鏡櫓、天守閣が見える

▲月見櫓

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伏見櫓

伏見櫓は、桁行8間、梁間3間、3層入母屋造、本瓦葺の建物で、福山城築城にあたり、伏見城松の丸東櫓を移築して建てられた。初層と二層は同じ平面で、その上にやや小さい三層を載せ、内部は階段を付け、床板敷き、小屋梁天井としている。城郭建築史上、初期の様式を残しており、伏見城の確かな遺構としても貴重である。 説明板より

 

 

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筋金御門

筋鉄御門は、桁行10間、梁間3間、入母屋造、本瓦葺の脇戸付御門で、伏見櫓と同じく伏見城から移築された。下層の各柱には根巻き金具を付け、四隅に筋金具を打ち、扉にも12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾るなど堅固な造りとなっている。 説明板より

 

 

 

 

▲伏見御殿跡

湯殿

京都伏見城内にあった豊臣秀吉の居館を移した伏見御殿に付随した建築で、国宝に指定されていた。建築の一部は石垣上に張り出し、内部は物見の段と風呂の間に分かれていた。昭和20年の戦災により焼失したが、昭和41年秋、天守閣とともに外装、内部ともに復原されたものである。 福山城博物館ホームページより

 

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月見櫓

もと京都伏見城内にあったものを移築したもので、本来は着見櫓のことであるとも言われている。追手側(南側)も入江方面も展望できる南東隅に築かれ、藩主などの到着を見極める役割をなしていた。1階南側に石落としがあり(実際の石落とし機能は不明)、古い建築様式をもっている。 福山市ホームページ

   

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鏡櫓 

本丸の東側に位置し,東南隅の月見櫓から北へのびる塀でつながれている。明治6年の廃城の際取り壊されたが,昭和48年9月30日外観復元がなされ,その姿を現在にとどめる。 福山市ホームページ

   

 ▼ 天守閣 1966年再建

    

▲天守礎石

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鐘櫓

この鐘櫓は築城当時の福山城絵図面にも描かれている遺構で,上層にある鐘は城下や近隣諸村に”時の鐘”を告げ,また緊急時に武士を召集する太鼓も合わせ備えていた。明治以降,屋根の葺替えや附属の建物の後補など変容と荒廃が激しかったが,昭和54年旧規に修復(当時の柿【こけら】ぶきか桧皮【ひわだ】ぶきを銅板ぶきに改めた)された。城地内に鐘櫓が所在するのは全国的に稀である。 福山市ホームページ
    

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三原駅⇒糸崎駅⇒福山駅

2016-03-27 06:00:45 | 鉄道・駅

2015年12月28日 広島県

三原駅⇒糸崎駅⇒福山駅

※三原駅からJR呉線で糸崎駅へ 糸崎駅からJR山陽本線で福山へ

三原駅

広島県三原市城

三原駅(みはらえき)は、広島県三原市城町一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅。三原城本丸跡を横切るように建てられている。山陽新幹線と、在来線における当駅の所属線である山陽本線、および当駅を起点とする呉線が乗り入れており、後者は竹原・呉方面を回り、海田市駅で山陽本線に合流して広島駅に至る。

 

糸崎駅 広島県三原市糸崎四丁目

この駅は1892年(明治25年)の7月に山陽鉄道の尾道駅から当駅までの延伸に伴い山陽鉄道の終着駅である三原駅(みはらえき)として開業した。当初は終着駅であり、開業当初は三原の町に一番近かった。開業から2年後の1894年(明治27年)6月には山陽鉄道が当駅から広島駅までを開通させ、三原の中心街により近い位置に三原駅ができたため当駅は糸崎駅(いとざきえき)に改称した。1906年(明治39年)12月には山陽鉄道が国有化され、そのおよそ3年後の1909年(明治42年)の10月には線路名称の制定により神戸駅から下関駅までと兵庫駅から和田岬駅までが山陽本線とされたため、この駅は国有鉄道・山陽本線の駅となった。

    

▲西日本車両の227系 愛称「Red Wing」
  

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福山駅 広島県福山市三之丸町30-1

福山駅は山陽鉄道の駅として、1891年(明治24年)に福山城の三の丸南側を東西に横断するように建てられた。そのため現在まで城から最も近い駅と呼ばれているが、正確には城内そのものである。現在のコンコースが二の丸正門である鉄御門及びその外枡形のあった場所である。1935年(昭和10年)には、駅北側の両備福山駅から北に延びていた両備軽便鉄道が国有・準軌化に伴い、西から迂回する形で福山駅に引き込まれた。また、これに関連する駅施設拡幅により、二の丸南側も削られ現在の福塩線は二の丸櫛形櫓・鉄砲櫓跡に敷設されている。

     

▲ この先の「鞆の浦」があるのだが今回は訪れる時間なくスルー

▼プラットホームからは福山城の二つの櫓(月見櫓と伏見櫓)が見える)

 

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三原城跡~広島県三原市城町

2016-03-26 05:41:17 | その他の城

2015年12月28日 広島県

三原城跡

広島県三原市城町

三原城は永禄10年(1567年)、毛利元就の三男・小早川隆景によって、大島・小島をつないだ埋め立て地に建てはじめられたと伝わっています。現在は天主台や舟入櫓の一部しか残っていませんが、当時は、東は湧原川から西は臥龍橋付近まで約900m、南北には約700mもの長さだったといわれています。この中に本丸、二之丸、三之丸があり、櫓が32と城門が14もあるとても大きな城でした。特に天主台は広島城の天守閣が6つも入る日本有数の広さです。満潮時に城の姿が海に浮かぶように見えたことから別名「浮城」とも呼ばれています。この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。しかも余人では真似るべきではないといわれた「アブリ積み」という特殊の工法は、古代の石積形式を400年以上経た今でも立派に伝えています。 三原観光navi

 

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モチーフは「みはらやっさ」

永禄10年(1567年)、戦国時代の智将とうたわれた、毛利元就の三男小早川隆景が、瀬戸内の水軍を統率するために水、陸、交通の要地である備後の国三原の湾内に浮かぶ小島をつないで海城を築きました。 やっさ踊りは、この築城完成を祝って老若男女を問わず、三味線、太鼓、笛などを打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのがはじまりと言われ、それ以来、大衆のなかに祝ごとは"やっさ"に始まり"やっさ"に終わる習わしになったと伝えられています。

    

 ※三原駅から「JR呉線で糸崎駅へ 糸崎駅からJR山陽本線で福山へ

 

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竹原(広島県竹原市)の町並み

2016-03-25 06:21:17 | 町並み

2015年12月27・28日 広島県 

竹原(広島県竹原市)の町並み

広島県竹原市

遥か平安時代、京都下鴨神社の荘園として栄えた歴史から「安芸の小京都」と呼ばれる竹原。特に上市・下市には、江戸時代後期に製塩そして酒造業で栄えたお屋敷や由緒あるお寺と町並みが今もそのまま保存されています。この町の落ち着いた静けさと時代を超えた雰囲気は訪れる人々の心を和ませます。ゆっくりと散策しながら、竹原の歴史に触れてください。 きてみんさい竹原

---2015年12月27日---

 

▲竹原港
 

▲竹原駅

▲頼山陽先生之像

頼山陽:江戸後期の儒者・勤王家。大坂生。広島藩儒頼春水の長男。名は襄、字は子成、通称を久太郎、別号に三十六峰外史。初め叔父頼杏坪について広島で学び、さらに江戸で尾藤二洲・服部栗斎に師事する。のち京都に出て私塾を開き、書斎山紫水明処を営む。門弟教育の傍ら日本各地を歴遊、篠崎小竹・梁川星巌・大塩平八郎・浦上春琴ら多くの文人墨客と交わった。著に『日本外史』『日本政記』『山陽詩鈔』『日本楽府』『山陽遺稿』等がある。天保3年(1832)歿、53才。

 ▲重要伝統的建造物群保存地区
 

マンホールのモチーフも竹

 ---2015年12月28日---

 

▲三井金属鉱業竹原製錬所の煙突か?
 

▲竹原駅

▲竹原駅前
 

※ 三原駅へ

関連記事 竹原(重要伝統的建造物群保存地区)

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松坂邸~広島県竹原市本町

2016-03-24 05:55:49 | 建築物(洋館以外)

2015年12月27日 広島県 

松坂邸

広島県竹原市本町

この家は竹原の町並みの中でも、独特の雰囲気をもっています。入母屋造り、平入り、間口七間の木造つし二階建の主屋の裏側に、平行にもう一棟、本瓦葺の建物とその二棟を直角の角屋でつないだ、表屋造りとなっています。建築は江戸末期(1820頃)のものを明治12年(1879)に全面的な改造を行い、現在の形となりました。「てり・むくり」をもった波うつような独特の大屋根、その下のうぐいす色の漆喰、大壁造り、塗込めの窓額つき菱格子の出窓、ゆるやかにカーブした本瓦葺の下屋、彫をもった出格子、与力格子など、非常に華やかな建築意匠です。座敷は全体が数寄屋風の意匠で統一されています。初代は延宝2年(1674)広島から移住、沢田屋と称して塩田の必需品である薪問屋・石炭問屋を業とし、塩田経営、廻船業、醸造業と多角経営を行うかたわら、下市庄屋、割庄屋、竹原塩浜庄屋、竹原町長などをつとめるとともに文化活動を行いました。 きてみんさい竹原

 

 

  

 

 

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竹原市歴史民俗資料館・~広島県竹原市

2016-03-23 05:52:39 | 洋館

2015年12月27日 広島県

竹原市歴史民俗資料館

広島県竹原市

昭和の初期、図書館として建てられたレトロモダンな洋風建築。もともとは江戸時代中期の儒学者、塩谷道碩の旧宅跡で、頼山陽の叔父、春風が志を受け継いで学問所にしていたところです。館内には、当時赤穂の塩とともに名を馳せ、町に繁栄をもたらした製塩業の歴史や資料などが展示されています。 ひろしま観光ナビ

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竹原(重要伝統的建造物群保存地区)~広島県竹原市

2016-03-23 05:52:38 | 重要伝統的建造物群保存地区

2015年12月27日 広島県 

竹原  重要伝統的建造物群保存地区

広島県竹原市

平安時代、京都・下鴨神社の荘園として栄えた歴史から、「安芸の小京都」と呼ばれる竹原。そのシンボルといえるのが、落ち着いた風情を漂わす国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定された町並み保存地区です。製塩地として飛躍的に発展した江戸時代、豊かな経済力を背景に頼春水・春風・杏坪の兄弟、また、頼山陽ら、多くの優秀な学者を輩出しました。塩田と町人文化の隆盛が生んだ重厚な家々は、今日まで往時の姿を伝えています。 ひろしま観光ナビ

   

竹鶴酒造

「竹鶴」醸造元の竹鶴酒造は、元々「小笹屋」として製塩業を営んでいました。 その後、享保18年(1733年)に酒造業を開始しました。日本のウイスキーの父と称される竹鶴政孝も竹鶴家の生まれです。 竹鶴酒造のホームページより 

 

 

松坂家住宅
 

 

 

   

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春風館:頼山陽の叔父で頼春風の邸宅。武家屋敷風の長屋門と門構えをもつ建物でドマを持っています。頼春風(1753~1825)は医学と儒学を大阪で学び、安永2年(1773)故郷に戻り医業を開業しました。安永末年(1780)には塩田経営に乗り出し、天明元年(1781)には春風館を建築。紺屋は叔父伝五郎にゆずりました。 建物の奥には祠堂の茶室を持ち内装は奇屋風の意匠に統一されています。また、安政元年(1854)に焼失し、安政2年(1855)再建され現在、国の重要文化財に指定されています。ひろしま観光ナビ

   

  

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竹楽

江戸末期の文政~安政期(1827~1856)に町年寄りであった菅超右衛門の家と伝えられる。この建物の特徴は母屋の屋根が3段である。文政年間(1861~)には呉服屋「いずみや」があり明治9年の文書では吉井平吉郎と手島平作の名前が見え、のち呉服屋(村上氏)となる。江戸末期頃の建物は本瓦葺、片側入母屋(ねずみ漆喰壁)、母屋の北側に間口3間奥行き6間の本瓦葺妻入の土蔵がある。土蔵の下部はナマコ壁、庇のある鉄格子の小窓、母屋の南側に瓦葺白壁の塀が続き大型町屋の格調を高めた建物。 竹楽ホームページより

  

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▼竹原市歴史民俗資料館

昭和の初期、図書館として建てられたレトロモダンな洋風建築。もともとは江戸時代中期の儒学者、塩谷道碩の旧宅跡で、頼山陽の叔父、春風が志を受け継いで学問所にしていたところです。館内には、当時赤穂の塩とともに名を馳せ、町に繁栄をもたらした製塩業の歴史や資料などが展示されています。 ひろしま観光ナビ

  

 

ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝の生誕120年を記念して、生誕地の竹原市に政孝、リタ夫妻の銅像が建てられた。2015年6月

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頼推清旧宅 

 惟清は山陽の祖父で名を又十郎といい、晩年は亨翁と号しました。紺屋を営むかたわら馬杉亨安のもとで和歌を学び著書に「吾妻紀行」「高角紀行」「芳野紀行」などがあります。その子春水・春風・杏坪は、備後国の儒者菅茶山が「兄弟三人同気宇」と讃えたほどの俊才ぞろいで、長男の春水の子山陽も、よき理解者であった叔父の春風をしばしば訪れています。建物は重層屋根、入母屋造、本瓦葺きの母屋と道路に接する離れ座敷からなり、双方とも塗りごめ造です。 ひろしま観光ナビ

       

恵美須堂(胡堂):本町通りの北側に位置する胡堂は、大林宣彦監督の映画『時をかける少女』でもお馴染みのスポット。建築は、前室付、一間社流造りで、竹原の小祠中、最大の規模を持っており、最も古く、江戸時代中期のものと考えられる。 るるぶ

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▲照蓮寺

  

酒蔵交流館:江戸末期に建てられた酒蔵の一角を改造した酒蔵交流館は、太い柱や天井のはりが130年余りの伝統を物語り、ほんのりと酒の香りが漂っています。 きてみんさい竹原

    

光本邸:光本邸は、江戸時代に建てられた「復古館」の離れ座敷で、後年光本家が居住し、後に竹原市に寄贈された建物である。 きてみんさい竹原
 

  

   

 

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2016-03-23 05:52:38

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御手洗港~大長(おおちょう)港~竹原港

2016-03-22 05:49:31 | その他

2015年12月27日 広島県 

御手洗港~大長(おおちょう)港~竹原港

御手洗バス停から「とびしまライナー」で再び呉へ向かう予定でしたが、次の目的地である「竹原」へ行く船が大長港から出るということで、歩いて15分程のところにある大長港へ向かう。出航時間は迫っていて時間はあまりない。いそげ!

 

 

大長港

  

しまなみ海運の竹原行は一日7便しかない。竹原までは約45分
  

      

▲この施設はなんだ!気になる

 

 ▲竹原港 

大長港から45分程のクルージング^^でした。ここから路線バスで竹原駅へ

2016-03-22 05:49:31

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若胡子屋(わかえびすや)跡~広島県呉市豊町御手洗

2016-03-21 05:56:25 | 建築物(洋館以外)

2015年12月27日 広島県 

若胡子屋(わかえびすや)跡

広島県呉市豊町御手洗

県史跡の若胡子屋は、周防上関から御手洗へ遊女商売の出稼ぎを行っていて、享保9年(1724年)には茶屋営業許可を広島藩より受け店を構えました。若胡子屋跡は、この時期に建てられたものと考えられ、御手洗で最大規模の町家でした。主屋の座敷の天井には屋久杉を使用するなど贅を尽くしています。明治17年(1884年)、隆法寺に転用され、その際に2階部分が取り払われましたが仏壇部分の小屋組に一部再利用され現存しています。 ひろしま観光ナビ

 

 

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乙女座・~広島県呉市豊町御手洗

2016-03-20 05:58:54 | 芝居小屋

2015年12月27日 広島県

乙女座

広島県呉市豊町御手洗

昭和12年、御手洗に劇場がなかったことから乙女座の建設を計画。その建物は建築の粋を集めたモダン劇場として一際目立ちました。戦後は昭和30年代まで映画館として親しまれ、その後は選果場に転用されましたが、平成14年3月、現在の形に復元されました。 くれナビ

  

 二階へ

 

 

2016-03-20 05:58:54

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御手洗(重要伝統的建造物群保存地区)~広島県呉市豊町御手洗

2016-03-19 06:24:17 | 重要伝統的建造物群保存地区

2015年12月27日 広島県

御手洗  重要伝統的建造物群保存地区

広島県呉市豊町御手洗

江戸時代、風待ちや潮待ちの港町として栄えた御手洗は、平成6年重要伝統的建造物群保存地区として国から選定されました。土地が狭いため数度にわたって埋め立てられた御手洗は、大小の商家、茶屋、船宿、住宅、神社、寺院などが混在し、集落中心路、集落連絡路、集落生活路(小路)等が網の目のように巡っています。また大波止、石橋、高燈籠、石垣護岸、雁木等、港町の生活上必要な土木的建造物が当時のまま現存しているものもあります。 御手洗地区は17世紀の中頃形成されて以来、江戸時代の約200年間を経て昭和初期に至るまで、瀬戸内海交通の中継港として、時代時代に応じた発展を示し、その痕跡を今も集落内に留めています。  くれナビ

※ 御手洗港バス停から千砂子波止へ

  

 

 ▲住吉神社

▲石の太鼓橋

   
船宿:旅人をもてなした三軒長屋海沿いにあるかつての船宿。

 

▼ 大東寺
 

屋根に鍾馗様がいるのです。↓写真の質が悪すぎ

 

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鞆田家住宅

なまこ壁で明治時代に建てられた建築物。屋根は寄棟造浅瓦葺き妻入りの町屋で,建物は非常に保存がよく,江戸時代末期の御手洗の町屋建築様式を残しています。御手洗では規模の大きな町屋のひとつです。 ひろしま観光ナビ

  

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御手洗七卿落遺跡 

七卿落遺跡

文久三年八月十八日、公武合体派のクーデターによって敗れた倒幕派の公卿のうち 三条実美ら七卿が長州藩に守られて都落ちしたことはあまりにも有名です。元治元年長州藩は真木和泉守を先発として兵を京都に進めましたが、蛤御門の変で敗れました。この時三条実美、三条西季知、四条隆謌、壬生基修、東久世通禧の五卿は京都における長州の勢力挽回とともに入京しようとして長州を出て多度津(香川県)まで登っていましたが、京都の敗北を知り長州にひき返しました。その途中、七月二十二日から二十四日にかけて、この竹原屋(庄屋)で旅の疲れを癒したものです。尚、この竹原屋には維新の頃オランダ商館のテレーマン・パクという人が駐在して薩摩藩などと武器の密貿易もしていました。又、文久三年から慶応元年に至るまで広島藩は軍艦購入のため、薩摩藩から金十万両を借り、その返済方法として、米、銅、鉄、繰り綿などを御手洗で薩摩藩へ渡していました。(御手洗交易) このように、御手洗港が明治維新の影の舞台となったことは歴史家の知るところであります。 昭和十五年二月二十七日  広島県史跡指定
 
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越智醫院
 
    

▼乙女座

昭和12年、御手洗に劇場がなかったことから乙女座の建設を計画。その建物は建築の粋を集めたモダン劇場として一際目立ちました。戦後は昭和30年代まで映画館として親しまれ、その後は選果場に転用されましたが、平成14年3月、現在の形に復元されました。 くれナビ

 ▼村尾昌文堂 
 

松浦時計店:明治時代創業の時計屋。その時計店の目印になっているのが,レトロ調の赤時計の看板です。約70年前に造られたSEIKOの懐中時計を模した看板です。店内には140年前の創業時から休まず時を刻んでいるアメリカ製の大時計もあります。 ひろしま観光ナビ

    

 ▼北川家住宅

  ▼能地家住宅

▼川北家住宅

 ▼高田家住宅

▼旧柴屋住宅

 
▼今崎家住宅

 

▲天満宮

 

▼若胡子屋(わかえびすや)跡:御手洗で最大規模の町家

  

▼満舟寺の石垣
    

 

2016-03-19 06:24:17

cosmophantom


呉駅から「とびしまライナー」で御手洗へ

2016-03-18 05:52:56 | その他

2015年12月27日 広島県

呉駅から「とびしまライナー」で御手洗へ

次の目的地は「御手洗」ですがアクセスは悪い!さんようバスの「とびしまライナー」は一日4便しかない。バスは次々に島を渡り目的地の「御手洗」へ、乗車する人はほとんどいない。

乗車時間は1時間30分ほど。バスは島々を渡り御手洗へと進む。車窓からの風景は飽きることはない。

 

このバスは「見戸代桟橋」でトイレタイム!いいんじゃない^^

  

ミカン畑

 

採石場?

     

   

瀬戸内に ポカリと浮かぶ 島ひとつ

 白い橋が虹のよう

 

2016-03-18 05:52:56

cosmophantom