2012年6月23日 長野県
堀内家 重要文化財
長野県塩尻市堀ノ内
堀内家は旧堀の内村の名主を代々勤めた豪農。 長野県の大型板葺民家である。本棟造の中では大型で貭が良い。正面の外観は明治期の改造ではあるが、意匠は力強く優れている 。
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2012年6月23日 長野県
小野家 重要文化財
長野県塩尻市塩尻町39番
小野家は江戸時代「いてうや(銀杏屋)」の屋号で旅籠屋を営んでいた。建物は塩尻宿を通る中山道が塩尻峠に向かって上りかかる所に建つ。間口は八間、切妻造、平入、二階建の背面に棟を直角に平屋がつづく。内部は、二階の客室に、鶴、松などを建具や壁に描き、絵から部屋の名を付ける。なかでも「桜の間」は天井にまで極彩色の桜を描き、当時の宿場の風潮の一端を如実に示していて面白い。 幕末における宿場の雰囲気を示す好例である。 文化遺産オンラインより
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2012年6月23日 長野県
平出遺跡
長野県塩尻市大字宗賀
平出の泉の北側に広がる遺跡(史跡)。昭和25年(1950)からの調査によって発見された竪穴式住居は、縄文時代中期のものが106軒、古墳時代から平安時代のものが160軒を数え、かつての大規模な集落跡であることがわかった。るるぶ.com
平出の泉に育まれた平出遺跡は、縄文時代から平安時代にかけての大集落でです。昭和25年から現在までの発掘調査により、縄文時代では中期60、後期2、古墳時代79、平安時代28、時期不明30の計199軒がの住居が発見され、緑釉水瓶(りょくゆうすいびょう)をはじめとする土器、石器などが大量に出土しました。これからの発見の成果は、当地における縄文時代から平安時代までの村落のを解明するうえで極めて重要な遺跡であることから昭和27年に国史跡にしていされました。
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街道ウォーク>旧中山道>下諏訪宿(駅)~洗馬宿(駅)
2012年6月23日 9回目
平出遺跡
長野県塩尻市大字宗賀
平出の泉の北側に広がる遺跡(史跡)。昭和25年(1950)からの調査によって発見された竪穴式住居は、縄文時代中期のものが106軒、古墳時代から平安時代のものが160軒を数え、かつての大規模な集落跡であることがわかった。るるぶ.com
平出の泉に育まれた平出遺跡は、縄文時代から平安時代にかけての大集落でです。昭和25年から現在までの発掘調査により、縄文時代では中期60、後期2、古墳時代79、平安時代28、時期不明30の計199軒がの住居が発見され、緑釉水瓶(りょくゆうすいびょう)をはじめとする土器、石器などが大量に出土しました。これからの発見の成果は、当地における縄文時代から平安時代までの村落のを解明するうえで極めて重要な遺跡であることから昭和27年に国史跡にしていされました。
本文 cosmophantom
街道ウォーク>旧中山道>下諏訪宿(駅)~洗馬宿(駅)
2012年6月23日 9回目
平出一里塚(59里)
長野県塩尻市宗賀
平出地区の旧中山道を挟んで両側に一対の一里塚が現存しています。
▲南(左)塚
▲北(右)塚
所在 長野県塩尻市宗賀一二二のロ
指定 昭和四十六年三月五日
一里塚は慶長九年(一六〇四)より徳川秀忠の命により各街道に築かれ、同十二年にほぼ完成をみた。秀忠は、永井白元、本多光重等を一里塚奉行に任命して、中山道筋の幕府領、私領をとわず迅速を徴発して道を整備し江戸日本橋を基点として三十六町を一里として、一里ごとに道の両側に一里塚を築かせ、塚の頂上にエノキなどを植えて道程標とし、旅情を慰め、通行の便宜をはかった。その道路幅は五間(九m)塚は五間四方、高さ一丈(二、三m)と定められたが明治以後はその必要もなく、いうとはなく次々に消滅し、県下でも平出のように原形を保つものは極わずかとなった。江戸時代当塩尻市内は、三つの街道にそって、八ヶ所に一里塚が築かれていたが、両塚を残すのは、この平出のみとなってしまった。この一里塚は日本橋の基点より五十九番目のもの、また、宝暦六年(一七五六)頃には、この付近に茶屋二軒のあることがわかっている。 塩尻市教育委員会
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2012年6月23日 長野県
堀内家 重要文化財
長野県塩尻市堀ノ内
堀内家は旧堀の内村の名主を代々勤めた豪農。 長野県の大型板葺民家である。本棟造の中では大型で貭が良い。正面の外観は明治期の改造ではあるが、意匠は力強く優れている 。
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街道ウォーク>旧中山道>下諏訪宿(駅)~洗馬宿(駅)
2012年6月23日 9回目
堀内家 重要文化財
長野県塩尻市堀ノ内
堀内家は旧堀の内村の名主を代々勤めた豪農。 長野県の大型板葺民家である。本棟造の中では大型で貭が良い。正面の外観は明治期の改造ではあるが、意匠は力強く優れている 。
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