2015年4月25日 栃木県
鑁阿寺(ばんなじ) 100名城
栃木県足利市家富町
鑁阿寺(ばんなじ)は、栃木県足利市家富町にある真言宗大日派の本山である。「足利氏宅跡(鑁阿寺)」(あしかがしたくあと(ばんなじ))として国の史跡に指定されている。日本100名城の一つ。寺号は詳しくは「金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺(こんごうさん におういん ほっけぼう ばんなじ)」と称する。足利氏の氏寺。本尊は大日如来。鑁阿寺はもともとは足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、寺の境内の周りには土塁と堀がめぐっており、鎌倉時代前後の武士の館の面影が残されている。 Wikipedia
太鼓橋と楼門
楼門 栃木県指定文化財
足利幕府十三代将軍足利義輝の再建。両側の仁王像は桃山時代の作。
▼ 鐘楼 重要文化財
一、建久七年(1,196年)足利義兼建立
一、建築様式 形状簡古、手法稚撲 鎌倉時代の和様、
唐様折衷の代表的禅宗様式、桁行三間、梁間二間、袴腰付、
入母屋造、本瓦葺
一、明治四十一年、国宝建造物に指定さる。
一、大正五年 解体修理実施
一、昭和二十六年、国重要文化財に指定さる。
一、昭和三十六年 反解体修理実施
一、平成四、五年 半解体修理実施
・梵鐘は元禄時代の再鋳であるが戦時の供出は歴史資料としてまぬかれる。
真言宗 金剛山 鑁阿寺
▼ 本堂 国宝
本堂は鎌倉時代、建久7年(1197年)に足利義兼が持仏堂として建立したものを、その後足利義氏が方5間の大堂を建立したが、1129年の火災で失い、尊氏(たかうじ)の父・足利貞氏(さだうじ)により正安元年(1299)に再建したもの。
鎌倉時代に当時中国の最新の寺院建築様式の一つであった禅宗様(ぜんしゅうよう)をいち早く取り入れたもの。密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例として、また関東地方における禅宗様の古例として貴重な文化財である。平成25年(2013年)に国宝指定。ご本尊様は胎蔵内大日如来。申年、未年の守り本尊である。後方壇に弘法、興教の二大師、開基鑁阿上人(足利義兼)像をはじめ、明治維新まで、堀の外に祀ってあった塔頭十二支院の御本尊を安置している。鑁阿寺ホームページより
国宝 鑁阿寺本堂(大御堂)
鎌倉時代初期、建久七年(1,196年)足利義兼の建立。正安元年(一二九九)再建。本尊は源氏相伝の守本尊、大日如来。
建築は構造雄大、手法剛健、本瓦葺
唐様と和様を加味した折衷の代表的な建物で堂内の柱、天井、厨子等の価値は高い。明治四十一年 国宝に指定され昭和八年より二年間、解体修理を文部省の指導の下 実施した。戦後、法令の改正により重要文化財の指定を受く。境内に山門、鐘楼、不動堂、一切経堂、多宝塔、御霊殿等の七堂伽藍を備えた東国の 密教の代表的な寺である。創建以来、幸い火災にあわず多数の重要文化財を蔵している。開祖、義兼七世の孫は足利尊氏にして京都室町に幕府を構え、幕府は一五代二百三十年つづいた。大祭は五月三、四、五日、十一月三、四日 初詣、節分鎧年越等 厄除・開運の祈願寺として参拝者が多い。 真言宗大本山 金剛山 鑁阿寺
▼ 中御堂(不動堂)
鑁阿寺を開いた足利義兼により建久7年(1196)に建てられ、その後、文禄元年(1592)に再建されます。一山十二坊図[いちざんじゅうにぼうず]には護摩堂と書かれていて、大御堂[おおみどう]と屋根つきの廊下で結ばれていたことがわかります。今の建物はそのつくりから江戸時代中期以降の建造物と思われます。なお内部には平安時代作といわれる不動明王像が置かれています。足利市ホームページ
寺伝では開祖足利義兼公の創建とあるが、文禄元年(1,592年)生実御所国朝の再修になる。御本尊不動明王は往古千葉県成田山より勧請せるもので興教大師の作といわれ霊験あらたかな不動明王である。本堂が明治四十一年国宝に指定される迄は不動堂と廊下でつながっていて四度加行(しどけぎょう)の護摩法の道場として使用した堂宇である。昭和四十四年信徒の浄財により半解体修理を実施した。商売繁盛を祈念する堂であると同時に酉年守本尊なり。堂の右側に古井戸の跡あり八百年前足利氏が居住した時に使用したといわれる。 真言宗 大本山 鑁阿寺
▼ 経堂 重要文化財
当山開祖、足利義兼が妻の供養の為 一切経会を修する道場として鎌倉時代に創建したといわれるが、現在の建物は応永十四年(1,407年)関東管領足利満兼により再建された。足利家は鎌倉・室町の両時代に盛んに一切経会を営んだ事が当山古文書(国重文)にみられる。堂内に八角の輪蔵(経棚)があり一切経二千余巻を蔵するが、此の経棚は江戸時代宝永年間の大修繕のものなり。
昭和十一、二年 文部省技師阪谷良之進の指導の下、解体修理を実施した。
昭和五十九年 国重要文化財に指定さる。
平成十六、七年 屋根を主に文化庁指導の下、、大修繕を実施。
真言宗大本山 金剛山 鑁阿寺
▼ 校倉
宝庫、大黒堂とも称する。永享四年公文所奉行の再建をいわれているが現存の棟札では当山卅二世満慶上人が宝暦二年の再修となる。建築様式は校倉風(あぜくらふう)で元来当山の宝物を収蔵した。四十二世忍空上人の時、宝物は他へ移して足利家伝来の大黒天を祀った。昭和五十五年 市の助成を得て元文部技官安田昭二に依り半解体修理を実施した。 真言宗 金剛山 鑁阿寺
向かって右より 校倉(大黒堂) 、大酉堂(おおとりどう)、御霊屋
▼御霊屋
足利大権現と称し、俗に赤御堂とも云う
正和年間(1,312年~)の当山伽藍配置図にも境内西北に描かれている。創建は鎌倉時代といわれるが、現在の建物は徳川十一代将軍家斉の寄進しよって再建された。本殿に源氏の祖を祀り拝殿に県指定文化財 足利一五代将軍像を祀る。昭和三十二年境内整備のため以前の位置より北へ十二間後退させた。本殿の裏に当山開基 足利義兼の父、義康 祖父、義国の墓あり。昭和五十七年、八年度 栃木県及び足利市の助成を得て(株)安田工務店に依頼して半解体修理を実施した。真言宗 大本山 鑁阿寺
開祖足利義兼公創建と伝えられているが現在のは 元禄五年 徳川五代将軍綱吉の母、桂昌院尼公の再建と伝えられていたが、相輪の宝珠を調査したところ、寛永六年(1,629)銘のものが発見され搭の再建年代がさかのぼる事が判明した。徳川氏は新田氏の後裔と称し、新田氏は足利の庄より新田の庄に分家したるが故に徳川氏は祖先発祥の地なるを以て、此の宝塔を 祖先の菩提供養のため再建寄進した。・本尊は 金剛界大日如来 本尊前に勢至菩薩(俗に二十三夜尊) 両側に十六羅漢像を祀る。
・奥に足利家の大位牌と徳川歴代将軍のお位牌を祀る。・多宝塔としては我国で一番大きい。 (これ以上大きいのは大塔という。) 平成七、八年半解体修理を実施した。 真言宗 金剛山 鑁阿寺
▲ 大銀杏 樹齢550年前後
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