2014年10月11日 栃木県
畠山陣屋跡(栃木市嘉右衛門町地区)
陣屋:江戸時代,郡代,代官,旗本などが任地あるいは知行地に所有した役所。ほかに無城の大名,交代寄合などの居館をもいう。
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2014年10月11日 栃木県
畠山陣屋跡(栃木市嘉右衛門町地区)
陣屋:江戸時代,郡代,代官,旗本などが任地あるいは知行地に所有した役所。ほかに無城の大名,交代寄合などの居館をもいう。
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2014年10月11日 栃木県
岡田記念館
栃木県栃木市嘉右衛門
当家は現当主岡田嘉右衛門をもって26代を数える栃木市屈指の旧家です。古くは武士でしたが、帰農して江戸時代慶長の頃、士豪として栃木に移住し、荒地を開墾し、地域発展のために尽くしました。以後代々の当主は嘉右衛門を襲名し、「嘉右衛門町」という地名の起こりともなりました。また、日光例幣使街道の開通とともに名主役、本陣を勤め、代官職を代行するなど要職を担いました。 岡田記念館ホームページより
※ 荒れた建物があり少しばかり残念
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二号館
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三号館
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▲一号館
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書斎
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栃木市で一番古い床屋「岡田家理髪店」
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2014年10月11日 栃木県
栃木市嘉右衛門町地区③ 重要伝統的建造物群保存地区
栃木県栃木市
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油屋傳兵衛・油傳味噌
栃木市にある油伝(あぶでん)味噌株式会社は、江戸時代から230年続く老舗のみそ屋さんです。明治期に建てられた木造の店舗やみそ蔵が今も使われており、とても趣のある店構えです。栃木市は、かつて京都から日光東照宮に向かう使者が通った宿場町でした。また川を利用した舟運により、商都としても古くから栄えてきました。
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2014-12-25 21:34:56
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2014年10月11日 栃木県
栃木市嘉右衛門町地区② 重要伝統的建造物群保存地区
栃木で一番古い床屋
岡田記念館・代官屋敷
畠山陣屋跡
明神神社
明神神社の蔵
関連記事:栃木市嘉右衛門町地区① 栃木市嘉右衛門町地区③
2014-12-24 06:03:54
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2014年10月11日 栃木県
栃木市嘉右衛門町地区① 重要伝統的建造物群保存地区
栃木県栃木市
栃木市嘉右衛門町伝統的建造物群保存地区は、日光例幣使街道に沿って形成された敷地割りを良く残し、江戸時代末期から近代にかけて建築された、主屋や土蔵など伝統的建造物が残り、街道沿いに発展した在郷町の特色ある歴史的風致を伝え、我が国にとって価値が高い。
京都から日光東照宮へ幣帛を奉納する勅使が通った道 元和3年(1617)、徳川家康の霊柩が日光山に改葬されたが、その後正保3年(1646)からは、毎年京都の朝廷から日光東照宮への幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使という)がつかわされた。その勅使が通る道を例幣使街道と呼んだ。例幣使は京都から中山道(なかせんどう)を下り、倉賀野(くらがの)(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至った。この例幣使街道が通る栃木の宿は、東照宮に参拝する西国の諸大名も通り、にぎわいをみせた。この例幣使街道の一部が今の中心街をなす大通りや嘉右衛門町通りであり、その両側には黒塗りの重厚な見世蔵や、白壁の土蔵群が残り、当時の繁栄振りを偲ばせている 栃木市観光協会
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関連記事:栃木市嘉右衛門町地区② 栃木市嘉右衛門町地区③ 岡田記念館 畠山陣屋跡
2014-12-23 06:29:56
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2014年10月11日 栃木県
櫻井肥料店
栃木県栃木市万町
旧例幣使街道に東面して建つ。間口桁行7間半梁間3間,切妻造,桟瓦葺,平入の2階建大型町家で,前面に半間の下屋を設ける。南寄りに1間幅の通路をとり,その南側を板敷物置,北側をミセとする。南面のみ漆喰塗とし,1階に煉瓦造袖壁を建てるのも特徴。 文化財オンラインより
※この建物の前を通り過ぎようとしたところ、建物から出てきた女性に挨拶。敷地内を見せていただくこととなりました。ラッキーであります。
蔵
元肥料倉庫 レンガはフランス積み
爆撃の痕跡
トロッコ用の線路
これも爆撃の跡
丁寧に案内して頂きましてありがとうございました
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2014年10月11日 栃木県
蔵の街大通り③
栃木県栃木市
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古久磯提灯店見世蔵
旧例幣使街道である栃木市大通り東側にある提灯店は、通りに面して斜めに位置する2階建桟瓦葺の見世蔵とその奥に続く木造2階建ての住居部分とからなる。見世蔵は、小屋梁(中引梁)の墨書によって「弘化2年(1845)」の上棟であることが知られているが、これは、建築年代の判明した蔵造りの店舗として蔵の街の中でも最古のものであり、全国的にみても古い見世蔵に属する。また、現在では市内唯一の提灯店である。見世蔵は、切妻平入りで間口4間、奥行3間、前面に約5尺の下屋庇を設けている。店舗2階は2室の座敷が通りに面して並列し、南側の10畳に床の間が付く。2階軒先は出桁造り、窓は引戸(土戸)で黒漆喰の外壁は9寸あまりの厚みをもつものである。
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下野新聞社
この建物は元肥料豪商で知られた毛塚惣八が建てた蔵屋敷を修復したものである。毛塚家は江戸中期後半から昭和初期まで続いた県内きっての、肥料・麻苧の豪商であり「栃木の毛惣」とまで言われた。
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旧足利銀行栃木市店
旧例幣使街道に東面して建つ。建築面積111㎡。切妻造鉄板葺の周囲にパラペットを立ち上げ、外観を陸屋根に見せる木造平屋建。正面中央に出入口を設け、その両脇にトスカナ式オーダー風の角柱を建てる。古典様式になる昭和前期の銀行建築の好例である。 文化遺産オンラインより 昭和9年建築 平成19年移築
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2014年10月11日 栃木県
蔵の街大通り②
栃木県栃木市
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蔵の街観光館
この建物は、もと「八百金」の名で知られた荒物・麻苧問屋田村家の店舗(見世蔵・明治37年(1904年)上棟)、住居(母屋)、付属屋、土蔵群でした。土蔵群は戦後になり『蔵のアパート』として利用されてきました。現在、大通りに面した見世蔵では、観光案内と土産品販売、奥の土蔵群はお食事処と土産品販売を行う蔵の街観光の拠点施設として活用されています。 栃木市観光協会よち
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好古壱番館(旧安達呉服店店舗)
蔵造の町並に点在する洋風建築のひとつ。もと呉服商の店舗で大正12年の建設。木造2階建で,1階正面をポーチ状に張出し,銅板葺の寄棟マンサード屋根を架け,屋根窓を設ける。柱や扁平アーチ部を石張で石造風に仕上げるなど,大正期の意匠をよく表現する。
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関連時事
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2014年10月11日 栃木県
蔵の街大通り①
栃木県栃木市
江戸時代より例幣使街道の宿場町として、また舟運で栄えた問屋町として、北関東の商都と呼ばれた。京都から日光に至る例幣使街道が通る栃木の宿は、東照宮に参拝する西国の諸大名も通り、賑わいを見せた。この例幣使街道の一部が今の中心街をなす大通りや嘉右衛門町通りであり、その両側には黒塗りの重厚な見世蔵や、白壁の土蔵群が残り、当時の繁栄振りを偲ばせている。
▲栃木駅
▲上下が逆かも?
▲倭町(「やまとちょう」)
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2014年9月20日 東京都
塩船観音
東京都青梅市塩船
伝説によれば、大化年間(645年 - 650年)に、若狭国の八百比丘尼が、紫金の千手観音像を安置したことに始まるという。また「塩船」の名は、天平年間(729年 - 749年)に行基がこの地を訪れた際、周囲が小丘に囲まれて船の形に似ているところから、仏が衆生を救おうとする大きな願いの船である「弘誓の舟」になぞらえて、名付けられたものと伝えられている。貞観年間(859年 - 877年)には、安然が12の坊舎を建てるなど、興隆を極めたという。鎌倉時代には武蔵七党の流れを汲む金子氏の庇護を受け、室町時代には青梅・奥多摩方面に勢力をもっていた三田氏の帰依を得て栄えた。室町時代後期に建てられた本堂、阿弥陀堂、仁王門は、本堂内の厨子とともに国の重要文化財に、本尊の十一面千手千眼観世音菩薩(千手観音)像、眷属の二十八部衆像などは東京都の有形文化財に指定されている。
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仁王門 重要文化財
室町時代建立。八脚門・切妻造りの茅葺き屋根で、都指定有形文化財である金剛力士像二体が安置されています。当山の山号である「大悲山」の扁額が掛けられています。塩船観音ホームページより
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阿弥陀堂 重要文化財
阿弥陀堂:木造・単層・寄棟作りの銅板葺きで、昭和三十六年の解体修理において、国の指導により茅葺から銅板葺に変更となりました。天井には板張りが無く、簡素な技法で未完成のまま今日に伝えられたのではないかと言われています。
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▲塩船観音の大スギ
▲薬師堂▼
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本堂
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▲旧鐘楼
▲塩船平和観音
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おまけ
三菱マークを掲げた建物。さてなんでしょう?帰宅後調べてみたところ元ガソリンスタンドとのことでした
東青梅駅
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2014年9月20日 東京都
師岡(勝沼 )城跡
東京都青梅市
勝沼城は三田氏により築かれた平山城。築城年代は詳らかでないが、鎌倉時代から続く名族三田氏の居城として、16世紀半ばまで用いられた。三田氏が北条氏照により滅ぼされた後は師岡将景が城主となり、城名も師岡城と改められた。詳しい廃城時期は不明だが、1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐後に廃城になったと考えられている。Wikipediaより
※曲輪のようなものは見ることができるが、ここが城だったことを実感できることはなし
▲この先に城址がある
▲曲輪のようなみ見える
▲建物跡だろうか?
▲これも曲輪跡か?
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2014年12月3日 東京都
将門首塚
東京都千代田区大手町
三井物産ビルの東側に、将門伝説の首塚がの碑が建っています。平安時代、朝廷に反逆し下総で討死した平将門の首が京でさらされ、その首を所縁の人々がもらい受け、当時の武蔵の国豊島郡平川村(皇居平河門あたり)の観音堂かたわらに埋葬したとも、怨念で京から首がこの地に飛んできたものを祀ったともいわれています。千代田観光協会より
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2014年12月3日 東京都
江戸城2014 石室・中雀門跡・ 大番所など
石室
抜け穴とか、金蔵とか諸説がありますが、大奥御納戸の脇という場所柄から、非常の際の、大奥用の調度などを納めたところと考えられます。内部の広さは、20平方メートルあります。伊豆石(伊豆半島産の安山岩)で作られており、天井には長い石の坂が使われています。皇居参観ガイドより
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中雀門跡
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大番所
中之門の内側に設けられ他の番所より格上で,位の高い与力,同心が詰めて警護にあたっていたところです。前の坂を上がったところが本丸の入り口で、中雀門がありました。 皇居参観ガイドより
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中之門跡
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百人番所
大手門から大手三の門を抜けたところの左手にあるのが、長さ50メートルを超える百人番所です。大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所でした。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で詰めていました。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たりました。同心が常時100人詰めていたところから百人番所と呼ばれるようになったといわれています。千代田区観光協会
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同心番所
同心番所には大手三の門を警固する与力・同心がつめていました。同心とは、江戸幕府の諸奉行・所司代・城代・大番頭などの配下に属し、与力の下にあって、庶務・警備の仕事をしていた下級役人を総称したものです。同心番所の屋根瓦の一番高いところには、徳川家の葵御紋の妻瓦があり、軒先は普通の三巴紋の瓦となっています。千代田区観光協会
▲旧大手門渡櫓の鯱
▲大手門から退城
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2014年12月3日 東京都
江戸城 北桔橋門から江戸城天守閣跡
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天守台
江戸城の天守は、慶長11年(1606)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であったともいえます。慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと考えられます。5層の天守の高さは、国会議事堂とほぼ同じくらいだったといわれています。元和・寛永の天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にありました。元和の天守は元和8年(1622)、2代将軍秀忠の本丸海造の際、慶長の天守を撤去して新しく建てたもので、翌9年に完成し、高さは慶長の天守を上回っていたといわれています。寛永の天守は、寛永15年(1638)、3代将軍家光のとき、元和の天守台(現存の天守台)に建てたもので、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣でした。 この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、四代将軍綱吉の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはありませんでした。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っています。江戸城の天守閣は、江戸初期の50年間だけ存在したのでした。なお、明治15年(1882)当時の気象台が天守台に設けられ各種の観測が行われていました。千代田区観光協会
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▲フユザクラ▼
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2014年12月3日
皇居乾通り一般公開
妻に誘われ秋の乾通り一般公開へ。妻は紅葉が目当て、当方は・・・・・
地下鉄大手町駅下車し大手門まで行くとなんと、乾通りまでは皇居を左周りに誘導されいったん桜田門まで迂回しそこから坂下門に向かう大回り!坂下門まで30分位歩いただろうか?
▲巽櫓
▲外桜田門
▲富士見櫓
手前の橋が「正門石橋」 奥の橋が「正門鉄橋」(二重橋)
▲富士見櫓
▲坂下門から入城
▲宮殿
▲宮内庁庁舎▼
▲富士見櫓?▼
▲トウカエデ
▲道灌濠
▲いろはもみじ?
▲乾濠と石垣▼
乾門
※ この日訪れたのは57000人とか
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