コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

大菩薩峠(1897m)~大菩薩嶺(2057m)

2016-07-31 05:43:44 | 山歩き

2016年6月18日 山梨県

大菩薩峠(1897m)~大菩薩嶺(2057m)

職場の登山部会の山行に参加。新宿駅から中央本線で甲斐大和駅へ。さらに甲斐大和駅からバスで上日川峠へ。上日川峠から登山開始。

 

甲斐大和駅構内 混んでいるぞ・・・・

▲バス停は長蛇の列。バス会社の臨時バス運行により、なんとか乗車することができました。

バス移動中、バスの運転手さんのはからいで、停車し富士山を撮影することができました。

▲上日川峠 登山開始
 

ルート

上日川峠→福ちゃん荘→大菩薩峠→雷岩→大菩薩嶺
 

熊出没注意の看板を見つつ登山開始 10:47

 ▼福ちゃん荘到着 11:06

    

▲頂上(大菩薩峠)到着 11:51
  

▲富士山
 

▲先に見えているのは雷岩
     

▲標高2000m地点 12:38

▲雷岩にて

▲雷岩の先に大菩薩嶺

大菩薩嶺頂上 見晴らしは悪い 2057m 13:33

下山 雷岩まで戻り、別ルート(唐松尾根)で下山(福ちゃん荘~上日川峠) 

 

 ▲このあたり、何故か木が生えていない????
  

 瓦礫の道は歩き辛いのだ
  

 ▲上日川峠に戻ってきた。ここから大菩薩の湯へ 14:56

道は谷のようで、雨が降れば川のようになるに違いない

▲左側に白く見えるのは「砂」!掘じると簡単に穴が開きます。なんで山の中にこのような「砂」があるのだろうか?
 

 ▲千石茶屋 17:17

 

 ▲大菩薩の湯 温泉に浸かり疲れを癒し、バスで塩山駅へ

▲塩山駅

塩山で打ち上げし、帰宅。お疲れ様でした。

2016-07-31 05:43:44

cosmophantom

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長浜・大垣・関ヶ原・・・2016

2016-07-30 06:12:55 | 旅行

2016年5月26・27・28日

長浜・大垣・関ヶ原・・・2016

先輩に同行する旅も今回で9回目!今回はお城、関ヶ原古戦場などを巡るものです。まずは小牧山城を目指します。

---2016年5月26日---

▼鮎沢PA(東名高速道路)

▼掛川PA(東名高速道路)

 ▼小牧山城

▼長浜城

▲豊臣秀吉之像

▲旧長浜駅舎

▲慶雲館

▼宿泊先 天然温泉 すがたに(滋賀県長浜市須賀谷町) 二泊

奥の湯船の温泉の色は「茶色」。鉄分が多いんだろう

  

---2016年5月27日--- 

宿泊先から大垣城へ
 

伊吹山

 

▲大垣城

 ※関ヶ原古戦場へ

▲関ヶ原古戦場

---2016年5月28日(最終日)--- 

 

 ▲ 小谷城(登城できず)

※最終目的地も岡崎城へ
 

▲守山PA(東名高速道路)

▼岡崎城

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岡崎城2016(100名城)~愛知県岡崎市康生町

2016-07-29 05:47:38 | 100名城

2016年5月28日 愛知県

岡崎城 100名城

 愛知県岡崎市康生町

家康天下統一への拠点であり、岡崎市の歴史文化の象徴である岡崎城は、享徳元年(1452)から康正元年(1455)にかけて三河守護代大草城主、西郷稠頼により築かれ、70年ほど後に家康の祖父・松平清康が入城しました。家康の父・広忠が殺された後は、今川氏の勢力下におかれていましたが、桶狭間の合戦後、家康が再び入城しました。家康は永禄7年(1564)三河一向一揆をおさえ、城郭の整備を行ない、ほぼ全三河を平定したことで、後の天下統一に向けて動き出します。

▲東隅櫓

このやぐらは、平時に弓矢などを収める武器庫として使われる一方、合戦が起きれば城壁に近づく敵を攻めるための陣地とすることになっていた。今回完成したやぐらは江戸時代の様式で、はりや柱に松やヒノキを用いた「木造望楼式二重櫓」として復元された。 2010年3月

 

  

天守閣

城郭の大部分は明治6年から7年にかけて取り壊されてしまいました。 このあとは、堀と石垣が昔日の面影をわずかに伝えるばかりでありましたが、岡崎の象徴である天守閣がないままではしのびないとする市民の思いは強く、昭和34年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観の天守閣が復元されました。

         

   

  

大手門 1993年(平成5年)に再建
    

 

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小谷城(登城できず)100名城~滋賀県長浜市

2016-07-28 05:43:28 | 100名城

 2016年5月28日 岐阜県 

小谷城 100名城

滋賀県長浜市

小谷城は、長浜市の小谷山(495.1m)にあり、浅井(あざい)家が3代にわたって居城としていました。築城は1524年ごろで、中世三大山城のひとつです。湖北の大名・浅井長政と織田信長の妹で戦国一の美女といわれたお市の方、その間に生まれた3人の娘・浅井三姉妹(茶々、初、江)ゆかりの城です。城跡からは琵琶湖や湖北の地を一望することができます。織田信長との戦いで浅井家が滅んだ後、羽柴(はしば)(豊臣)秀吉(ひでよし)に与えられましたが、秀吉は今浜(いまはま)(現在の長浜)に城を築いたために、そのまま廃城となってしまいました。小谷山全山におよぶ城跡の遺構から、当時の面影を偲ぶとともに、お市の方と3人の娘たちの生涯に思いをはせます。自然の地形を利用して、東西の尾根づたいに各郭が配置され、本丸、大広間跡などから建物の礎石が出土しました。最頂部の大獄(おおずく)(495m)にも土塁が残っています。

▲大手門

頂上まで歩く、体力なく資料館を見学。。。。残念

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関ヶ原の戦い史跡巡り~岐阜県不破郡関ケ原町

2016-07-27 05:45:18 | 遺産・遺跡など

2016年5月27日 岐阜県

関ヶ原の戦い史跡巡り

岐阜県不破郡関ケ原町

関ヶ原の戦い:1600年、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が東西を二分するこの地で繰り広げた、戦国最大ともいわれる天下分け目の戦い

前回、関ヶ原を訪れたのは2013年6月。街道ウォークでのこと

当方は関ヶ原の戦いの知識に乏しい。同行した先輩はどうやら石田三成派のようだ!何も言わずに先輩の後をついてまわりました。

まずは、最大の決戦地といわれる「関ヶ原古戦場」へ 

関ヶ原古戦場

右に関ヶ原古戦場 左の小山が笹尾山(石田三成)

笹尾山へ

▲島左近陣地

石田三成の家臣。黒田軍等との激戦により討ち死にす。

ここ笹尾山一帯の石田隊六千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、前衛隊長の島左近らの指揮のもと、すさまじい死闘を展開した。小早川らの裏切りは、戦況を一変させ、西軍の実践兵力は3万5千前後に激減し、西軍の負色濃厚となるや、最早これまでと三成は北国街道沿いに敗退していったのです。(掲示板)

▲笹尾山からは関ヶ原古戦場(中央)がよく見渡せる

▼島津義久陣地

関ケ原合戦において島津義弘は西軍のほぼ中央部に布陣しました。合戦において島津隊は石田三成の依頼にも応じず、自らの前の敵のみを討ち取る姿勢で合戦に臨んだと言われています。合戦の行方が明らかになった頃、徳川家康陣地の前を敵中突破します。薩摩にたどり着いたのはわずか80名でした。
 

▼関ヶ原古戦場開戦地

慶長五年九月十五日、霧が薄くなり視界も広がった午前八時。先鋒の福島正則は井伊隊の旗の動くのを見て、先陣の手柄を取られてなるものかと、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせました。一方井伊隊福島隊に遅れまいと、島津隊に陣に向かって攻撃を開始し、合戦の火蓋が切って落とされたところです。(説明板)

 

▼小西行長陣跡
 

小西行長は、ここ北天満山に六千余の兵を率いて、石田三成に組し、西軍として参戦した。午前八時頃、戦闘開始の狼煙をあげ、味方に合図をすると共に、西軍主力の一つとして勇戦しています。しかし、小早川らの裏切りの衝撃は小西隊の混乱を招き、それに乗じた本多隊の襲撃で、兵士たちが敗退し始めたのは午後一時過ぎのことでした。(掲示板)

▼大谷吉隆(吉継)墓

吉隆は三成の挙兵に対し、再三思い止まるよう説得しましたが、三成の決意は変わりませんでした。旧友の苦痛を察した吉隆は、とうとう死を共にする決意をし、死に装束でここ宮上に出陣してきたのです。壮絶な死闘の末、吉隆は、首を敵方に渡すな、と言い残して自害しました。これは敵方藤堂家が建てたものです。(掲示板)

 ▼徳川家康最後の陣地

戦がたけなわとなると、家康は本営を桃配山から笹尾山の東南1キロのこの地点に進出させました。ここで、家康は陣頭指揮に当たるとともに、戦が終ると、部下の取ってきた首を実験しています。周囲の土塁や中央の高台は、天保12年(1841)に幕府の命により、この地の領主竹中家が築いたものです。(掲示板)

 

 

-----

以下前回訪問時撮影(2013年6月)

▼浅野幸長陣跡

幸長(よしなが)は、五奉行の一人であった浅野長政の嫡男で、甲斐府中十六万石の領主であった。関ヶ原の戦いでは、豊臣秀吉恩顧でありながら石田三成と確執があったため東軍に属し、その先鋒を務め、岐阜城を攻略。本戦ではこのあたりに陣を構え、南宮山に拠る毛利秀元ら西軍勢に備えた。戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石を与えられた。

▼山内一豊陣跡 

慶長5年(1600年)、徳川家康に従い会津の上杉景勝討伐の従軍した一豊は、関ケ原の戦いで西上に際し、居城の掛川城を明け渡しての出陣となりました。岐阜・大垣の兵と戦い、ここ野上に入ると、一豊他八将は一里塚より桃配山までの間の中山道左右に並列し、南宮山の敵に備えました。その後、家康の進旗にあたり、南宮山の隊に東軍攻撃の形勢がないため、使番による家康の命令を受け、山内隊は有馬、蜂須賀の隊と共に芝井の地まで前進して戦いました。戦後、妻の内助の功もあって、土佐の国主となっています。

▼東首塚

この塚は関ヶ原の戦い直後に、この地の領主竹中家が築いたもので、家康によって実験された将士の首が、ここに眠っています。文部省の史跡指定時に、標柱や石柵が建てられた後、昭和十五年には、徳風会によって、名古屋から護国院大日堂とその門が塚の脇に移築されて、東西両軍の戦没者供養堂となりました。

合戦で討ち取られた西軍将士の首は、家康によって首実験され、その後塚を造ってねんごろに葬られました。首実験に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられています。戦国期の戦場では、首実験後は敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くと言うのがならわしだったのです。

▼松平忠吉 井伊直政 陣跡

慶長5年9月15日の合戦の役に中山道の敵を目標とする福島、藤堂、京極隊、北国街道を黒田、竹中、細川等の隊、その中央にあたるこの地に家康の4男松平忠吉後の彦根城主井伊直政が約6千の兵で陣を構えた。午前8時頃、軍監、本多忠勝より開戦を促され、直政、忠吉を擁して前進し宇喜多秀家の前面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し開戦の火ぶたが切られた。

田中吉政陣跡

田中隊はここから石田隊に向かって兵を進め、笹尾山麓より討って出る先手の兵と激突。本隊が二、三百メートルほど引き下がる。そこに他の東軍の諸隊の兵が食らいつく。というように、両軍間で激しい白兵戦が展開されたという。三成が自分の意志で、残党狩りの吉政配下の兵の手に落ちたのは、合戦後六日目のことだったと伝わる。

 ▼西首塚

関ヶ原合戦での戦死者 数千の首級 を葬ったと云われている 西首塚 です。この上に江戸時代から、十一面千手観世音及び馬頭観世音の堂が建てられ、付近の住民の手によって供養がされている。

▼福島正則陣跡

東軍の先鋒となった福島正則(約六千人)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣しています。一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防戦が続きました。 首取りで手柄を立てた可児才蔵が、家康の称賛を受けたとされています。

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大垣城址2016~岐阜県大垣市郭町

2016-07-24 05:29:25 | その他の城

2016年5月27日 岐阜県

大垣城址2016

岐阜県大垣市郭町

大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に創建されたと伝えられています。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。その後、戸田氏が十万石の城主となり明治まで太平の世が続きました。昭和11年(1936)に国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)7月戦災で焼失。昭和34年(1959)4月、4層4階の天守を再建し、名実ともに城下町大垣のシンボルとなりました。観光用に造られたもの。(外見復元)

▲水之手門跡

▲艮隅櫓(うしとらすみやぐら)

全盛期にはこういった櫓が10を数えたと言われています。
 

東門:七口之門の 1つである柳口門がここに移築されました

▲鉄門跡

  

戌亥櫓

西門と天守閣


-----大垣公園-----

濃飛護國神社

戸田氏鉄

戸田氏は古くから仁連木周辺に勢力を持っていた一族で、戦国時代は駿河の今川氏や三河の松平氏、牧野氏らと戦ったり、従属したりして戦乱の世を渡りますが、氏鉄は家康の近習として仕え、家康と共に各地を転戦。関ヶ原の戦いにも従軍し、慶長八年(1603)父・一西(かずあき)の死により家督を継いで、ぎ近江国膳所(おうみこくぜぜ:現在の滋賀県大津市)藩主となります。大坂の陣後、元和2年(1616)摂津尼崎五万石へ移封後、寛永十二年(1635)美濃大垣10万石へ移封されました。その後、代々戸田氏が大垣藩主となり、明治時代まで続いたので、氏鉄は大垣藩の藩祖としても有名な人物です。

  

 水門川を渡る船と住吉灯台とさつき

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慶雲館~滋賀県長浜市港町

2016-07-23 05:42:22 | 建築物(洋館以外)

2016年5月26日 滋賀県

慶雲館

滋賀県長浜市港町

治時代の長浜の豪商・浅見又蔵が明治天皇の行在所として建てた迎賓館。現在は公共の施設として、そのほか観光施設として一般公開されている。近代日本庭園の先覚者・七代目小川治兵衛作の回遊式庭園(国指定名勝)が有名。

 

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旧長浜駅舎・~滋賀県長浜市北船町

2016-07-22 05:46:29 | 洋館

2016年5月26日 滋賀県

旧長浜駅舎(旧長浜駅舎鉄道資料館)

滋賀県長浜市北船町

旧長浜駅舎は、1882(明治15)年に完成しました。日本で初めて新橋~横浜間を鉄道が走ってから、たった10年しか経っていないころでした。現存する駅舎としては日本最古のものです。まだ江戸時代の様子を残している当時では、とてもめずらしい洋風建物でした。壁の厚さは50cmもあって、窓枠や出入口は当時人気のあった赤レンガを使って建てられています。まだ「駅」がめずらしい時代だったので、たくさんの人々が陸蒸気(おかじょうき)を「一目見たい」「一度は乗ってみたいと」と長浜にやってきました。

旧長浜駅舎は、木骨構造の石灰コンクリート造りで、四隅の角は、花崗岩の切石を積み、窓枠と出入口は、レンガを使って建てられています。 長浜鉄道スクエアホームページより

 ▼現在の長濱駅
 

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長浜城~滋賀県長浜市公園町

2016-07-21 05:45:32 | その他の城

2016年5月26日 滋賀県

長浜城

滋賀県長浜市公園町

戦国時代末期に豊臣秀吉が城主として過ごした長浜城は、江戸時代前期に廃城になり、遺構は彦根城や大通寺に移築されました。その跡には、僅かな石垣と井戸だけが残されていましたが、昭和58年(1983)に安土桃山時代の城郭を模して「昭和新城」を復元されました。内部は歴史博物館として公開されています。

太閤井戸:琵琶湖岸に建つ「太閤井戸」の石碑です。この井戸は昭和4年(1929年)に琵琶湖の渇水によって発見されたもので、発見当時は、厚さ3センチメートルほどの木の板で囲まれた状態であったといいます。現在は、長浜城ゆかりの遺跡として、周囲を石で囲んで保存されています。

長浜城天守閣跡と豊臣秀吉之像
 

▲豊臣秀吉之像

▲長浜城石垣根石

旧長浜領境界碑

長浜は、秀吉によって特別に町屋敷の年貢米三百石を納めることを免ぜられた。この特権は徳川幕府にも認められ、他地域とくぎるための石碑が、江戸時代のはじめ長浜町のまわりに建てられていたといわれる。なおこの境界碑は「これより東 長浜領・これより南 長浜領」と記され、もとは長浜町の西北隅に建っていたと思われる。

 天守閣風の長浜城歴史博物館
  

資料館からの琵琶湖

伊吹山

秀吉の馬印の千成瓢箪

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小牧山城~愛知県小牧市堀の内

2016-07-20 05:43:49 | その他の城

2016年5月26日 愛知県

小牧山城

 愛知県小牧市堀の内

濃尾平野の孤峰である小牧山に築城された城で、織田信長が美濃攻めを終えるまでの4年間しか使用されなかったため、急造の砦に近いものと想像されていたが、近年の発掘調査の結果で、城郭を取り巻く三重の石垣(三段の石垣で一番下の段は腰巻石垣)が発見された。そして城の南部の発掘調査では、小牧山築城によって移転してきた住民によって営まれた町割も発見され、戦時急造の城ではなく、清州城に代わる新たな拠点として築かれた城郭であることが判明した。現在は小牧山城が後に織豊系城郭と呼ばれる城郭体系の原点であるとされる。

南山麓から本丸のある頂上に向かう位置には防衛に不向きな大手道が設けられている。途中の中腹から折れのある道へと変化しており、後の安土城の縄張りとの類似性が指摘されている。

大手口から入城

▲土塁の断面が展示されている。本物だろうか?

入城すると、広場となっている。左側は土塁と思われるものが続いている

  

▲発掘された石なのか?
 

▲転落石:上から転落してきた石らしい・・
 

 ▲天守閣:残念ながら、これは天守閣風に造られた小牧市歴史館
 

▲石垣の裏込石
 

▲信長の旗印「永楽通宝」
 

石垣の裏込石

▼本丸石垣復元模型(小牧市歴史館)
 

小牧市歴史館からの濃尾平野
  

 

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織田信長戦地本陣跡(長篠・設楽原の戦い)長篠設楽原PA(愛知県新城市)

2016-07-19 05:43:53 | その他

2016年5月26日 愛知県

織田信長戦地本陣跡(長篠・設楽原の戦い)長篠設楽原PA

愛知県新城市

 

天正3(1575)年、長篠の戦いに臨んだ織田信長は、設楽原の決戦を控えて上平井の極楽寺で軍議を開き武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った。そして、自らはこの茶臼山に進撃し、本陣をおいて指揮をとった。このすぐ北側には側近、羽柴秀吉を従え、徳川家康を最前線の弾正山に配置した。布陣は、当時の信長の権力の絶大さを示しているといえよう。ここには、珍しい信長の歌碑がある。
「きつねなく  声もうれしくきこゆなり  松風清き  茶臼山かね」

▼茶臼山

 

 

▲馬防柵(復元)?

▲本陣跡なのだろうね?

▼物見台から  戦場地は見えているのだろうか?

 

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泰明小学校・~東京都中央区銀座

2016-07-18 05:38:28 | 洋館

2015年7月12日 東京都

泰明小学校

東京都中央区銀座

都会の真中の小学校、中央区銀座5丁目にある泰明小学校は、2003年に開校125周年を迎えました。美しいアーチ型の窓をもつ建物に蔦の絡まる情景は、銀座のシンボルとなっています。 

明治11年、元数寄屋町1の1に第一大学区第一中学校区第十七番東京府公立泰明小学校として創立。当時は2階建ての赤レンガの校舎であった。

創設以後は増築や新築を繰り返し、大正12年9月の関東大震災により校舎全焼した後、現在の校舎落成。数少ない現役の復興小学校校舎。

 

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山陽+滋賀+京都の旅2015

2016-07-17 06:14:07 | 旅行

2016年12月25日~30日 【山陽+滋賀+京都の旅2015】

山陽+滋賀+京都の旅2015

山口県光市大字岩田の伊藤公記念公園から始まった5泊6日の旅も京都の平安神宮で終わりました。日頃から気になっていた重伝建、城、国宝・重要文化財などを巡ることができ、大満足の旅となりました。家族を残した年末に一人旅をする・・・ 僕が行ってみたい所は日本に沢山あります。次回はどこに行こうかな・・・

 

▲お馴染みの石碑

京都駅

京都駅から帰宅(東京都大田区)

 

 

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平安神宮~京都府京都市左京区岡崎西天王町

2016-07-16 05:41:54 | 神社・仏閣・教会

2015年12月30日 京都府 

平安神宮

京都府京都市左京区岡崎西天王町

平安遷都1100年祭(1895年・明治28)に市民の総社として鎮座。桓武、孝明両天皇を祀る。平安京大内裏の正庁を模した応天門、大極殿など朱塗りの建築が美しい。

▼応天門

 

▲向かって左から白虎楼、大極楼、 蒼龍楼

▼白虎楼

▼蒼龍楼

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京都市美術館(洋館)・~京都府京都市左京区岡崎円勝寺町

2016-07-15 05:41:34 | 洋館

2015年12月30日 京都府 

京都市美術館

京都府京都市左京区岡崎円勝寺町

京都市美術館は、昭和8年11月、東京都美術館に次ぐ日本で二番目の大規模公立美術館として設立されました。 設立の機縁となったのは、昭和3年に京都で挙行された天皇即位の大典であり、その記念事業として、関西の財界はもとより多数の市民の協力を得て「大礼記念京都美術館」との名称で開設されました。

 

▼事務棟

 

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