コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

岐阜城(岐阜県岐阜市)100名城

2013-04-29 20:52:32 | 100名城

2013年4月19日  岐阜県岐阜市

岐阜城 100名城

岐阜県岐阜市

金華山(きんかざん)山頂に位置し、1201年に鎌倉幕府執事二階堂行政により初めて砦が築かれたといわれています。岩山の上にそびえる岐阜城は、難攻不落の城としても知られ『美濃を制すものは天下を制す』と言われるほどでした。戦国時代には小説「国盗り物語」の主人公である斎藤道三の居城でもありました。その後、永禄10年(1567年)に織田信長がこの城を攻略し、城主となりました。信長は「井の口」と呼ばれていた地名を「岐阜」に、「稲葉山城」を「岐阜城」に改めたといわれています。天正4年(1576年)に岐阜城を息子信忠に譲るまでの間、「天下布武」の朱印を用いて天下統一の志をかかげ、城下町の復興に力を注ぎました。楽市楽座の保護など当時としては斬新な政策により岐阜城下は大変な賑わいでした。1600年、関ヶ原合戦の前哨戦の際、信長の孫 秀信が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城し、天守閣・櫓等は加納城に移されました。岐阜市観光情報より

 

▲お城時計

大名時計・和時計ともいう。西洋の機械時計が日本に入ったのは、フランシスコ・ザビエルが周防国(現在の山口県)の大内氏に献上したのが最初である。当時の時計は壁掛け式であり、操作も複雑であつた。このため日本の時計師は工夫と改良を重ね、日本独自の十二支を目盛りとする櫓時計を作りあげ、その精密さは世界一であった。1872年(明治5)11月太陰暦が太陽暦に改められ、和時計は製作されなくなった。岐阜城では、お城の時計と称された江戸時代前期の大型櫓時計を所蔵・展示している。岐阜市

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岐阜公園(岐阜県岐阜市)

2013-04-29 12:47:37 | 庭園・公園

2013年4月19日

岐阜公園

 岐阜県岐阜市

▲岐阜城は金華山の頂上。ロープウェイで山頂へ
 

 

▲板垣退助避難の地

明治15年4月6日午後1時時の自由党総理板垣退助が中教院にて演説を行う参会者100余名夕刻板垣総理すべてを終え玄関から数歩出るや「国賊」と叫んで相原尚褧が総理の胸を刺す。総理「板垣死すとも自由は死せず」と有名な言葉を残したのである。
 
 
▲板垣退助銅像
 

織田信長居館跡 

永禄10年(1567)織田信長は、稲葉山城主・斎藤龍興を追放し、「井口」から「岐阜」とその名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点とした。金華山の西麓にあたるこの辺りには人工的な二~三段のテラス状地形があり、最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下という。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイトがその著書の中で壮麗なものとして紹介した信長の居館の跡といわれている。以下省略
 
  
 
  
 
 
   
 
   
 
▲三重塔: ロープウェイより
 
 
▲ 長良川: ロープウェイより
 
 
 
 
 ▲ご当地B級グルメ どて丼
 
 
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岐阜駅へ~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-29 07:43:19 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

岐阜駅へ

 

▲旧道は直進 岐阜駅は自販機を右折

 

▲右折箇所に加納宿の説明板

 

 

▲駅前の黄金の信長!

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加納天満宮(岐阜県岐阜市加納天神町)

2013-04-29 07:43:15 | 神社・仏閣・教会

2013年4月19日 岐阜県

加納天満宮

岐阜県岐阜市加納天神町

加納天満宮(かのうてんまんぐう)は、岐阜県岐阜市にある神社(天満宮)である。旧県社。沓井城の守護神であった。かつて加納地区には9台の山車があったのだが、1台を除き太平洋戦争の戦災で焼失している。唯一残った山車「鞍馬車」は加納天満宮に保管され、岐阜市の有形重要民俗文化財に指定されている。境内には、岐阜和傘を始めた松平光重をたたえる、「傘祖彰徳碑」がある。

加納天満宮の山車は、総高4.985メートル屋根を大唐破風造りとした三層構造で二層目高欄間が正面2.055メートル奥行き3.235メートルの大きさを持っています。各層と屋根を動物や花の彫刻で装飾し、二層目が後方へ向かって曲線でせり上がっていることは、この山車に変化と美しさを与えています。この山車は、濃尾震災で消失したものを明治35年前後に再建したものと思われています。大唐破風や高欄の手法から長野県諏訪の立川流といわれる一門の作と推定されます。平成6年5月 岐阜市教育委員会

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加納天満宮(岐阜県岐阜市加納天神町)~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-29 07:43:14 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

加納天満宮

岐阜県岐阜市加納天神町

加納天満宮(かのうてんまんぐう)は、岐阜県岐阜市にある神社(天満宮)である。旧県社。沓井城の守護神であった。かつて加納地区には9台の山車があったのだが、1台を除き太平洋戦争の戦災で焼失している。唯一残った山車「鞍馬車」は加納天満宮に保管され、岐阜市の有形重要民俗文化財に指定されている。境内には、岐阜和傘を始めた松平光重をたたえる、「傘祖彰徳碑」がある。

加納天満宮の山車は、総高4.985メートル屋根を大唐破風造りとした三層構造で二層目高欄間が正面2.055メートル奥行き3.235メートルの大きさを持っています。各層と屋根を動物や花の彫刻で装飾し、二層目が後方へ向かって曲線でせり上がっていることは、この山車に変化と美しさを与えています。この山車は、濃尾震災で消失したものを明治35年前後に再建したものと思われています。大唐破風や高欄の手法から長野県諏訪の立川流といわれる一門の作と推定されます。平成6年5月 岐阜市教育委員会

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当分本陣跡などなど~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-29 07:41:26 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

当分本陣跡などなど

▲当分本陣跡:当分とは臨時というらしい

▲本陣跡

▲西問屋場跡
 

▲脇本陣跡

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二文字屋~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-29 06:08:44 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

二文字屋

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旧道の様子~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-29 05:58:42 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

旧道の様子

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加納城跡~岐阜県岐阜市加納丸の内

2013-04-29 05:37:05 | その他の城

2013年4月19日 岐阜県

加納城跡

岐阜県岐阜市加納丸の内

関ヶ原合戦の結果、それまで岐阜城を本拠地にしていた織田秀信(信長の孫息子)が追放され、慶長6年(1601年)に岐阜城は破却された。そして、都市名は関ヶ原合戦前の「岐阜」から「加納」に改名され、岐阜城の代わりとして翌1602年7月1日から加納城が築城され、9月に徳川家康の義理の息子である奥平氏が入城した時には本丸・二ノ丸は完成していたようである。縄張は徳川家康自身が行ったとされ、普請奉行は本多忠勝とし近隣の大名を動員した。いわゆる天下普請である。建材は主に岐阜城のものが用いられ、岐阜城天守を二ノ丸御三階櫓として利用したと伝えられる。加納城は加納藩の藩主の居城となり、慶長7年(1603年)に奥平信昌が入った後、奥平氏の居城となった。寛永9年(1632年)に奥平忠隆が死去、嫡子がいないために改易されると従兄弟の大久保忠職が入城、一時的に城主となる。その後の寛永16年(1639年)に戸田光重が入城、3代にわたり城主を務めるが移封され、宝永8年(1711年)に安藤信友の居城となった。さらに時代が下って宝暦5年(1755年)に永井信陳が加納藩主となり、明治維新に至るまで永井氏の居城となった。Wikipediaより

この後に見えるのは加納城本丸北面の石垣です。岐阜市近傍の山で産するチャートという石を材料に積み上げられています。角以外の部分には加工の跡が認められない「自然石」が用いられ、石と石の間には川原石が詰められています。石垣の角の部分は「算木積さんぎずみ」という近世初頭頃までに多く用いられた積み方によるもので、近世加納城が築かれた17世紀の初め頃の姿を留めています。これほど良好に近世初頭の石垣が現存する事例は美濃国では他に見られず、極めて貴重な遺構です。加納城の石垣は本丸外周や二の丸北面(現加納小学校南側)などに現存しています。平成16年3月 岐阜市教育委員会

▲ 本丸跡は公園となっていて園児たちが走り回っておりました。

 

▼ 加納城 大手門跡

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加納城跡(岐阜県岐阜市加納丸の内 )~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-29 05:37:04 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

加納城跡

岐阜県岐阜市加納丸の内

関ヶ原合戦の結果、それまで岐阜城を本拠地にしていた織田秀信(信長の孫息子)が追放され、慶長6年(1601年)に岐阜城は破却された。そして、都市名は関ヶ原合戦前の「岐阜」から「加納」に改名され、岐阜城の代わりとして翌1602年7月1日から加納城が築城され、9月に徳川家康の義理の息子である奥平氏が入城した時には本丸・二ノ丸は完成していたようである。縄張は徳川家康自身が行ったとされ、普請奉行は本多忠勝とし近隣の大名を動員した。いわゆる天下普請である。建材は主に岐阜城のものが用いられ、岐阜城天守を二ノ丸御三階櫓として利用したと伝えられる。加納城は加納藩の藩主の居城となり、慶長7年(1603年)に奥平信昌が入った後、奥平氏の居城となった。寛永9年(1632年)に奥平忠隆が死去、嫡子がいないために改易されると従兄弟の大久保忠職が入城、一時的に城主となる。その後の寛永16年(1639年)に戸田光重が入城、3代にわたり城主を務めるが移封され、宝永8年(1711年)に安藤信友の居城となった。さらに時代が下って宝暦5年(1755年)に永井信陳が加納藩主となり、明治維新に至るまで永井氏の居城となった。Wikipediaより

この後に見えるのは加納城本丸北面の石垣です。岐阜市近傍の山で産するチャートという石を材料に積み上げられています。角以外の部分には加工の跡が認められない「自然石」が用いられ、石と石の間には川原石が詰められています。石垣の角の部分は「算木積さんぎずみ」という近世初頭頃までに多く用いられた積み方によるもので、近世加納城が築かれた17世紀の初め頃の姿を留めています。これほど良好に近世初頭の石垣が現存する事例は美濃国では他に見られず、極めて貴重な遺構です。加納城の石垣は本丸外周や二の丸北面(現加納小学校南側)などに現存しています。平成16年3月 岐阜市教育委員会

▲ 本丸跡は公園となっていて園児たちが走り回っておりました。

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加納城大手門跡~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-27 11:34:59 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

加納城大手門跡

 

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加納の様子2~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-27 11:19:05 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

加納の様子2

▲広井橋 清水川▼

 

 

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江戸中期の道標~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-27 07:31:19 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

江戸中期の道標

 

 

 この道標は、江戸中期(1750年頃)新町と南広江の交わる四ッ辻東南隅にたてられ中山道を往来する旅人の道案内の役目を果たしてきました。最初は「左中山道」「右ぎふ道」の道標でしたが、明治初年に「左西京道」「右東京道」の標識が追加されました。この四ッ辻は中山道と岐阜道の分岐点で、かっては交通の要衝でありました。

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古い建物と善徳寺鐘楼~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-27 07:31:14 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

古い建物と善徳寺鐘楼

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加納宿東番所跡~旧中山道を歩く(18回目)

2013-04-27 06:13:46 | 旧中山道ウォーク

街道ウォーク<旧中山道<鵜沼宿(各務ヶ原駅)~加納宿(岐阜駅)
2013年4月19日 18回目

加納宿東番所跡

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